第5話 死紋病

 寝室には蔓を加工して作ったと思しきハンモックが二つ吊られていた。片方はヒルデガードが使っているという。そしてもう片方に、彼女の弟が収まっていた。


 一見、すやすやと心地よさそうに眠っているふうに見える。


 しかし、ヒルデガードをそのまま幼くしたような顔立ちに隈取りのような紋様が描かれているのを目の当たりにした途端、オスカーの眉間に険しい皺が刻まれた。


「これは……まさか」


 注視せずともわかる。少年の体内を循環するマナの流れがあちこちで断絶し、死にかけている経絡けいらくが変色して紋のように浮き出ているのだ。


 この症状には、オスカーにも心当たりがある。


死紋病しもんびょう、か……!」


 ヒルデガードが頷いた。


 ランプに照りつけられて炎の色に染まった唇は、真一文字に固く引き結ばれている。油断したら弱音が漏れる、とでも思っているのかもしれなかった。


 ――気丈な娘だ。


 オスカーは感心を覚えるが、状況が予断を許さないこともわかっていた。オスカー自身が罹ったことはないが、白亜の森の集落でも、死紋病によって命を落とすエルフが何十年かに一人は出ていたからだ。


 もちろん、今そんなことを口にすべきではなかった。


「死紋病は……外界から取り込んだマナを運搬する経絡に、悪性の菌が入り込むことで起こる病だ。菌に冒された部分で運搬が止まり、マナの供給を絶たれた組織は壊死えしする。老いたエルフには例のあることだが……こうも幼くして発症するのは珍しいな」


「――生まれたときから体が弱かったのよ」


 絞り出すようなヒルデガードの声、


「死紋病は文字どおりの死の病。そのくらいのことは私だって知ってるわ。気を遣わなくていい」


「打つ手がないわけじゃない。……そうか、話が見えてきたぞ」


 ひとつの知識がオスカーの脳裏をよぎった。


 この病には、特効薬が存在するのだ。


夜光草やこうそうだな?」


 天秤の月の、最初の朔望月さくぼうげつにだけ咲く花がある。


 エルフの間で「夜光草」と伝えられるその植物の花弁を、強壮効果のある瑠璃苣るりじさとともに煎じて作った薬湯を飲めば、死紋病は快方に向かうとされていた。


 寒冷な白亜の森で夜光草は育たなかった。


 しかし、ここ蒼鏡の森であれば自生しているかもしれない。


「天秤の月、最初の朔望月。まさに今がその時期だ。きみは昨夜、夜光草の花を探していたんだな?」


「……そうよ。泉を越えた先に群生地があるの」


 ――やはりそういうことか。


 これで、ヒルデガードが危険を冒して真夜中に出歩いていた理由はわかった。夜光草の花が咲くのは夜の間だけなのだ。


 だが、まだ解せないことが残っている。


「里を出るとき人目を忍んだのはどうしてだ? 事情が事情だ、見張りに話せば協力してもらえたと思うが」


 一般的に、エルフは仲間思いな種族だと言われる。


 集落によってそれぞれ細かな気質の違いはあるし、異なる里どうしで交流することは稀だ。それでも、食糧を毎日確保できるかどうかわからない不安定な暮らしぶりがそうさせるのだが、里の内側では助け合いがきわめて日常的に行われている。


 ヒルデガードが周囲を頼れば、助力を得られた可能性は高い。


 ところが、ヒルデガードは首を振った。


「それは……無理」


「なぜだ?」


「掟ができたのよ」


 次にヒルデガードが放った言葉は、オスカーを心の底から驚愕させて余りあるものだった。


「パウラ教団って聞いたことはある?」


 稲妻に打たれたかのように、頭の中が真っ白になった。


 聞いたことがあるどころの騒ぎではない。


 自分は、まさにその教団のアジトを脱出してきたのだから。


「奴らが……どうかしたのか?」


「ちょっと前から、教団の怪人が森をうろつくようになったの。恫喝どうかつ……のようなものだったのかしらね、今にして思えば」


 オスカーはその推測には賛同しない。とはいえ、彼女がそう考えるのも無理からぬことではあると思う。


 教団が至上の是とする冥王パウラの降臨には、きわめて膨大な数の生贄が必要になる。連中がエルフを捕らえてオークへと改造しているのは、来たるべきときに備えて従順な手勢を増やしておくため――という事実を、教団はひた隠しにしている。オスカーとて一度地下牢に繋がれなければ知り得なかったであろう情報だ。


 パウラ教団は、エルフのことをオークの素材としか見ていない。恫喝によって何らかの条件を引き出そうとすることはあり得ない。


 怪人――オークが現れたのはエルフを攫うのが目的だろう。


 しかし、論を戦わせるのはヒルデガードの話を聞き終えてからでも遅くはあるまい。オスカーはひとまず口を挟まずにおこうと決める。


「オークが里に近づくこともあって、そのたびに私たちは戦いを強いられた。そんな日々が続いて、結局、教団に使者を送ることにしたわ。手下の勝手をやめさせろってね」


「奴らは交渉に応じたか?」


「ええ」


「……なんだと? 馬鹿な」


 あまりにも意表を突く答えだった。


 もちろん、ヒルデガードはこちらの反応の意味などわからず、


「不可侵条約が結ばれることになったの」


「不可侵条約?」


「教団はオークに里を襲わないよう命じる。その代わり、私たちも里の外のオークには手を出さない。そういう取り決めよ」


 そもそも手を出してきたのが教団のほうであることを思えば、決してヒルデガードたちに旨味のある落としどころだったとは言えまい。


 ――だが、まあ、妥当な線だろうな。


 オスカーは彼我ひがの戦力差を黙考して納得した。その気になれば大陸全土から信者をかき集められるパウラ教団に対して、少人数を維持するエルフの里はあまりにも分が悪い。


 ――問題は、教団がなぜそんな約束をしたのかだ。


 オスカーの持っている情報に照らせば、エルフと取引を行うことが教団を利することはないはずだ。にもかかわらず、教団は交渉の席に着いた。


 そのとき、おそるべき仮説が天啓のように降ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る