第4話 寝巻と平服と狩装束
空の色に緋が混じる頃、ヒルデガードが奥の部屋から戻ってきた。
「ああ、よく寝た。おはよ」
「この時間にその挨拶はどうかと思うが」
「いいのよ細かいことは」
両手の指を絡め、頭上に向かっていっぱいに腕を伸ばすヒルデガード。細身の肢体がしなり、寝巻の生地を押し上げる胸の膨らみが存在感を主張する。
知り合ったばかりの男が一つ屋根の下にいるというのに、無防備なことだ――オスカーは呆れと心配がない交ぜになった感情を覚える。仮にこちらがオークでなかったとしても、うら若き乙女にとっては気の抜けない状況ではないのだろうか。
もっとも、当の「知り合ったばかりの男」がこの半日をどう過ごしていたのか振り返れば、ヒルデガードの無警戒ぶりもあながち理解できないではなかった。
腹の虫を黙らせたあと、オスカーもまた再び眠っていたのだ。
行き倒れに何ができるものでもあるまいとヒルデガードが考えていたのなら、それはまったく正しかったと言っていい。
「私、水浴びしてくるから」
「裏に井戸があるの。……あなたも体洗ったほうがいいと思うわよ。言っちゃ悪いけど、すごい臭いだから」
だろうな。オスカーは唇を曲げる。
なにしろ教団の地下牢に捕らえられてからというもの、一度もまともに体を洗っていない。そこから着の身着のままで三日三晩を走ってきて今に至るわけだ。
開き直るようでなんだが、臭わないほうがどうかしている。
「裏……というのは、柵を立てているという場所か?」
「そ。家があって井戸があって、柵があって、その先が森。リスとか小鳥くらいにしか見られる心配はないと思うわよ」
「なるほど」
実にわかりやすい。
そして、ここまで世話になっておいて今更遠慮することもあるまい。
「助かる。正直自分でも気になっていたところだ」
「じゃ、私が終わったら交代しましょ」
こちらに背を向け、玄関から出て行こうとするヒルデガード。ところが扉の取っ手を握った瞬間、ふと何事かに気づいた様子で振り返り、
「……忠告しておくけど、」
「覗いたらぶっとばすからね」
言われるまでもない。
オスカーは無言で肩をすくめ、
もちろん覗きになど行かなかった。
半刻ほどで戻ってきたヒルデガードと入れ替わりに建物の裏手へ回ると、たしかに説明されたとおりの光景が目に入った。小さな井戸があって、その奥に里と森とを分かつ柵が立っている。あたりは既に薄暗く、ほんの十歩ほどの距離をおいて
そこまで考えて、はたと気づく。
――不気味、だと?
――森が?
およそエルフの思考ではなかった。
無論、森に生きる民だからこそ知っている危険というのはある。しかし、危険を熟知しているからこそ、「不気味」という感情は抱き得ない。たとえ宵闇の只中であろうとも、だ。
嫌なざわつきがオスカーの
洗脳される前に教団のアジトを脱出できたと思っていた。
だが考えてもみれば、この身に宿る暗黒のマナは依然として活きているのだ。もしかするとその影響はじわじわと精神を蝕み、やがて自分を完全なるオークへと変えてしまうのではないか――。
「……いや、よそう」
オスカーはゆるゆると首を振る。
考えれば考えただけ、結果を引き寄せてしまいそうな気がした。
――とにかく体を清めることが先決だ。
オスカーは半ば八つ当たりをするように乱暴な手つきで服を脱ぎ捨て、家から続いている小路に沿って井戸へと近寄った。つい先程までヒルデガードが水浴びをしていた跡だろう、敷石が井戸の前だけ濡れている。
心遣い痛み入る。
オスカーは綱を引いた。錘が井戸の中へと消え、代わりに水の入った桶が上がってくる。オスカーは桶を傾けて頭から水を被った。
溜まりに溜まった汚れが洗い流されてゆく。
水は心臓が止まりそうなほど冷たい。しかし今の自分にはむしろ、凍るくらいの冷たさが丁度良い。
オスカーをひとまず安堵させたのは、オークの体臭が地下牢の不潔な環境に由来するものに過ぎなかったことだ。
つまり、洗えば消える。
衣服を洗濯できる状況ではないので完全に解決とはならないが、先刻までよりは幾分ましになったろう――そう思いながらヒルデガードの家の玄関を潜ったとき、いきなり替えの服を投げつけられた。
「着替えなさいよ。それ貸したげるから」
広げてみると、男物の衣装であった。樹皮からとれる繊維で作られた平服で、大きさもオスカーの体格からそう外れてはいない。
「誰の服なんだ?」
「気にしなくていいわ。今は誰も着てないものだから」
「……ふむ」
質問の答えが気にならないと言えば嘘になるが、贅沢を言える立場でもない。ありがたいことには違いないのだ。
オスカーはひとまずヒルデガードの言葉に甘えさせてもらうことにして、再び家の裏手に回った。渡された平服に袖を通す。思ったとおり、少しきついが着れないことはない。
ヒルデガードのもとに戻ると、彼女はかすかに瞠目して、
「へぇ、けっこう似合うじゃない」
「それは……喜んでいいのかわからんが」
「似たようなの何枚かあるから、それ着てる間にあなたの服洗っちゃいなさいよ。洗濯板はそこ」
部屋の隅を指さすヒルデガード。形のいい人差し指の先を辿ったオスカーは、洗濯板と桶がひとまとめにして壁際に置かれているのを見て取る。
「ありがとう。明日晴れたら使わせてもらおう」
「うん。……まあ、里の皆と会ってもらうのが先になるでしょうけど」
はにかむように、ヒルデガードは白い歯を見せる。
「悪いわね。今日紹介してあげられたらよかったのに、すっかり眠っちゃった」
「きみが謝ることはないだろう。きみはゆうべ寝ていなかった。そのおかげで、おれは命拾いしたわけだからな」
ヒルデガードの笑顔が凍った。
まるで「その話題には触れられたくない」とでも言うかのように、彼女が一瞬呼吸を止めたことが、部屋の空気を通してはっきりとオスカーに伝わってきた。
「なぜだ、ヒルデガード?」
「……何がよ?」
「エルフなら誰であれ、真夜中の森が危険だということくらいは知っている。にもかかわらず、きみはあの時間、里の外に出ていたわけだ。そればかりか――」
とうとう笑みを引っ込めるヒルデガード。少女の細い身体を包む衣装に、オスカーはざっと視線を巡らせる。
さっきから気づいてはいたのだ。
自分が水を浴びに行く前、ヒルデガードは簡素ながらもゆったりとした作りの寝巻を着ていた。
なのに今、彼女は緑の染料で彩られた狩装束を纏っている。
昨夜とまったく同じように。
「今夜も森に行こうとしているな?」
沈黙、
「里の見張りと問答したくなかったと言っていたな。あれは、問答になるような目的で出かけていたという意味か? だとしたら、やめたほうがいい」
「……あなたには関係ない」
ヒルデガードの声に、出会って以降一番の警戒が滲む。
しかし、オスカーは退かない。
退くべきところではなかった。若いヒルデガードでも知らないはずはない。いざこざを起こしたエルフの行き着く先など、どこの集落でも
「関係なくはないさ。きみが処分を受けるようなことにでもなれば、おれも一緒に野垂れ死ぬはめになる」
「それは……でも……」
「事情を話してくれたら力になれるかもしれん。こう見えてもおれは、白亜の森じゃ狩りも野草採りも上手いほうだったんだ」
「…………」
またの沈黙が場を満たす。
長い長い間をおいて、ヒルデガードは観念したように息をつく。
「――わかったわよ」
ヒルデガードは短く一言吐き出すと、天井からぶら下げてあったランプを外して右手に握った。
炎の明かりが生む少女の影が、揺らめきながら部屋を横切る。
「ついてきて」
ヒルデガードは、寝室の扉に手をかけた。
「そこに、きみの『事情』があるのか?」
「ええ」
白い
「――弟がいるの」
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