第3話 蒼き森のヒルデガード

 最初に戻ってきたのは触覚だった。背中が柔らかいものに包まれているのを感じて、オスカーは静かに瞼をひらいた。


 視界に映るのは、丸太で造られた天井と壁。


 つまり、どこかの集落に担ぎ込まれたわけだ――オスカーはそのように納得する。材木を井桁のように積んで組み上げられた家屋というのは、森に住まうエルフ族の里では標準的にみられる様式だ。


 うっそりと身を起こす。


 今まで頭を置いていたところを振り返ってみると、熊の頭が目に入った。毛皮を加工した敷物の上に寝かされていたらしい。


 と、そのとき――


「あら。気がついたの?」


 部屋の奥の扉が開いて、少女が姿を現した。


 金の長髪は下ろされているし、着こなしも簡素なものになっている。随分と印象が異なるが、さりとて見紛うはずもない。


 泉のほとりで出会った、あのエルフの娘に違いなかった。


「大丈夫? すごくうなされていたけど」


 少女は気遣わしげに柳眉をひそめる。


 オスカーはその瞬間初めて、自らの装束が肌に貼りつく不快な感触に気づいた。びっしょりと汗を吸っている。


 すごくうなされていた、という少女の証言は、大げさではないのだろう。


「平気だ。……疲れていると夢見も悪くなるみたいだな」


 最後につけ加えた一言は余計だったかもしれない。いかにも取り繕ったような間の取り方で、我ながら白々しい響きだとオスカーは内心舌を打つ。


 しかし、幸い、少女は気に留めなかったようだった。


「ゆっくり休めたならいいわ。本当なら寝室に連れて行ってあげるべきだったんでしょうけど……今はちょっと、わけあって使えないのよ」


「いや、充分だ。見ず知らずのおれを泊めてくれただけありがたい」


「そう? じゃあ、助けた甲斐はあったわね」


 少女は一転、にっこりと破顔した。


 初心うぶな若者が見たらたちまち恋に落ちてしまいそうなほどの、花咲くように可憐な表情であった。


 ――どうやら、おれの正体は悟られていないらしいな。


 まさかオークと分かっている相手に笑顔を向けたりはすまい。


 オスカーは心から安堵する。変身のルーンがうまく機能してくれていなければ、今頃自分は目覚める前にとどめを刺されていたことだろう。


「――私はヒルデガード。あなた、名前は? どこから来たの?」


 森の奥で小さな集落を維持するエルフ社会で、余所者よそものと交流をもつ機会は稀だ。この地も例外ではないのだろう、少女――ヒルデガードは露骨に好奇心を滲ませる。


 どこまで正直に話すべきか。


 オスカーは少し迷って、地下牢から逃げてきたことは伏せようと決めた。


 命の恩人とも言えるヒルデガードに隠し事をすることに、良心が痛まないわけではない。しかし、打ち明けるにしても時期は選ぶべきだった。


「オスカーだ。……白亜はくあの森にいた」


「白亜の森ぃ!?」


 ヒルデガードが素っ頓狂な声をあげる、


「ここ、蒼鏡そうきょうの森よ? 白亜の森って言ったら千里は離れているじゃない!」


「そうか……蒼鏡の森、か」


 たしか、大陸西部に位置する広域樹林帯がそんなふうに呼ばれていたはずだ。白亜の森から見れば遥か南西にあたる。


 つくづく、遠くまで来てしまった。


「無茶をしたものね。そんなとこから身ひとつで来たんじゃ倒れもするわ」


「おれもエルフだからな。乗馬の心得なんぞない」


「そりゃそうでしょうけど」


 ヒルデガードはこれ見よがしに嘆息する。薄々感じてはいたが、思っていることをはっきりと口に出す少女であるらしい。


「まあ、ひとまず大丈夫みたいだし、私はもうひと眠りするから。卓の上に干し肉とか果物とかあるから、それ食べておとなしく休むこと。――間違っても家から出ないでよ? 皆に見つかったら厄介なことになっちゃう」


「わかってる。おれもよけいな面倒はごめんだ」


 そう返してから、やはり気になって、


「――厄介なこと?」


「単純な話よ。余所者がうろついてたら騒ぎになるでしょ」


 オスカーは反射的に眉根を寄せる。


 正直なところ、何も単純な話ではないように思えた。ヒルデガードの言っている意味が呑み込めない。


「よくわからんが……おれがきみの世話になってることは、とっくに知れ渡っているんじゃないのか? 誰にも見られてないってことはないだろう」


 泉でヒルデガードと出会ったのは夜だった。日が昇らないうちに里に戻ったのだとすれば、そのとき出歩いている者がいなかったという想像はつく。


 が、里と森との境界ではそうもいくまい。


 森には夜行性の生き物も多い。危険な獣が里に紛れ込まないよう、寝ずの番をしている者がいなければおかしい。


 ところが、ヒルデガードは首を横に振った。


「誰にも見られてないのよ」


「なんだって?」


「見張りと問答したくなかったから、家の裏から里に入ったの。この家、集落の端っこにあるのよ」


「……それは……住んでて不安じゃないのか?」


「しっかり柵を立てて守ってれば案外問題ないもんよ? うちの裏から獣が侵入してきたことなんて今までに一度もないわ」


 そういうものか。


 なんとも豪毅だと思う一方、いまひとつ納得いかない気もする。


 しかし、オスカーが新たな問いを発する前に、ヒルデガードは会話を切り上げてしまった。


「――さて、そろそろ本当に寝るわね。ちゃんと食べなさいよ、体力戻ったら皆にも紹介してあげるから」


「ああ……すまないな、何から何まで」


「別に構わないわ。同じエルフだもの、助け合いでしょ」


 ヒルデガードはそう言い残して、奥の扉の向こうへと消えた。


 ――同じエルフ。


 残念ながら、すでに自分はその言葉を向けられる資格を失っている。なにしろ「同じエルフ」のままであったなら、自分がこの集落まで流れ着くこともなかったのだ。


 オスカーは自嘲とともに立ち上がり、ヒルデガードから示された卓へと歩み寄った。卓には網篭あみかごが載っていて、篭の中には彼女の告げたとおり、狩りや採集の成果であろう食べ物が入っている。


 オスカーは篭へ手を伸ばし、赤い果実を掴み上げた。そのまま皮ごと齧ると、舌を刺すような酸味とほんの微かな甘味が口内に広がる。


 窓から差し込む光が眩しかった。


 ――今は、昼か。


 こんな時間にもうひと眠りしなければならないほどヒルデガードは疲れているらしい。それもこれもあの細腕で自分を支えながら家まで帰ってきたせいだと思うと、ありがたい反面、申し訳ない気持ちも湧いてくる。


「……待てよ」


 ふと、妙なことに気づいた。


 泉のそばで自分と鉢合わせたのは、ヒルデガードにとってはあくまでも偶然の出来事だったはずだ。


 そもそも、彼女はなぜ、真夜中の森をうろついていたのだろうか。

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