第2話 泉の邂逅
退けることができたとはいえ、やはり追手に発見されたのは
もとより無理を重ねてはいた。モルゴーンの根城を脱出してから三日三晩、オスカーの頭を占めていた思考は「とにかく距離を稼ぐこと」のみ。食料を調達する暇すら惜しく、口にしたものといえば天から落ちる雨水くらいだ。
オークの肉体の丈夫さに任せて走り続けたが、どうやらこのあたりが限界らしい。先の闘いで体力を消耗したことは、オスカーの体にとっては致命的だったのだ。
樹の幹にもたれかかったとき、微かな音に気づいた。
「水……? 川があるのか?」
空腹と渇きのあまり都合のいい幻聴を聞いてしまったのでなければ、さほど遠くはあるまい。オスカーはそう踏んで、音を頼りに藪の中を抜けてゆく。
幸いにして、耳は正常だった。
行く手を阻む草むらをかき分けると、ひらけた場所に出た。
眼前には、星空を湛えた水面。
泉であった。
幻想のごとき光景にオスカーが魅入られたのも一瞬のことだ。考えるより先に体が動いて、オスカーは一散に岸辺まで駆け寄っていた。転がるような勢いで湖面に顔を突っ込む。渇きを癒す以外のあらゆる思考が脳内から消失し、水が口内へと流れ込むに任せて喉を潤す。
苦しさを覚えたところで、本能的に頭を上げた。
髪から、あるいは輪郭を伝って顎からしたたる水滴が、静かな泉に波紋を生む。やがてそれが収まったとき、ぼうっと水面を見つめていたオスカーは唐突に、心の臓を鷲掴みにされたかのような衝撃に打たれて息を呑む。
鏡めいた水面に灰色の貌が映っている。
「これが……おれなのか?」
死人のように血の気を失い、
自分がもはや以前の自分でないことはわかっていた。
それでも、改めて突きつけられた事実は、あまりにも重い。
「……何故だ!」
瞬間的に頭に血が上って、オスカーは水面に拳を叩きつけた。消耗しきった体では満足に怒りを発散することもできず、弱々しい波に揺らめく歪んだ自分を見つめながら、オスカーは己が身に降りかかった運命を呪うしかない。
何故、自分だけが逃げ延びてしまったのか。
集落を襲い、仲間たちや自分を醜いオークへと改造したパウラ教団への憎悪は、オスカーの胸の奥深くで今も黒々と燃えるままだ。しかしその一方で、未だエルフのままの魂は、オークとして生きることを責め苛もうとしている。
記憶に新しい命のやりとり。その最中に見た、かつて集落の仲間であった者の蛮行が想起された。獣性をあらわに襲いかかり、衝動のままに力を振るわんとする、醜い怪人の姿が。
あれこそが、オークだ。
心の底から穢らわしいと思う。
だが、傍らでこうも思う――戦っている間、奴の魂が悲鳴をあげることはなかったはずだ、と。
いっそ自分も闇に染まれれば、この魂の苦痛はなかっただろうに、と。
「――ッ! 何を……バカな!」
自らの考えのおぞましさに背筋が凍った。オスカーはかぶりを振って、脳裏をよぎった邪念を振り払う。
と、そのときだった。
――がさり。
耳が、葉擦れの音を捉えた。
煮えたぎる感情の渦に揺れていたオスカーの心が急速に冷める。
息を殺して耳を澄ませてみる。がさがさという草木を除ける音とは別に、規則正しい足音がひとりぶん――獣のものとは思えないならば、そう表すべきだろう――伴っていることがわかる。
「新手か……?」
だとすると、疲れ切った今の状態では勝ち目がない。
オスカーは立ち上がろうと腰を浮かせ、しかし果たせずよろめいた。再びその場に膝をつく。
脚に力が入らない。
戦うどころか、逃げる体力も残っていないのだ。
相手がオークであれ他の魔物であれ、出会い頭の一目を誤魔化して不意打ちを仕掛けるしか、自分の生き延びる道はなかった。
「
オスカーは、オークにされる以前の己の容貌を強く念じた。
ルーン魔法が効果を発揮したのと、黒々たる藪の向こうから足音の主が顔を出したのが同時だった。
「――きゃっ!」
「――な、」
魔物では、なかった。
こちらを見つめて驚きに目を丸くする、娘。
「きみは……エルフ、か?」
オスカーは問うたが、実際のところ、尋ねるまでもなく瞭然でもある。
頭の後ろで馬の尾のように結われた髪の金色。夜の暗さの中では輝いてすら見える白い肌。長く尖った両の耳。すべての特徴が、娘がエルフ族の者であることを示していた。
もちろん、彼女がオスカーと同じように、変身のルーンを用いているのでなければ、だが。
「あなたこそ、見ない顔ね? どこの里から……」
芯のある声音に本物の困惑が滲んでいた。
それが意味することは一つだ。すなわち――この少女は、追手が化けているのではない。正真正銘のエルフの娘なのだ。
途端、オスカーの中で張り詰めていたものが切れた。
「――え」
娘の呆気にとられたような声を聞いたと思った。視界がぐるりと反転し、地面が急速に近づいて、
「ち、ちょっとあなた、どうしたの!? ねえ! ねえってば……」
娘が慌てて駆け寄ってきた。細い腕でオスカーを受け止め、必死な面持ちでがくがくと体を揺さぶってくる。
だが、彼女の懸命な呼びかけも空しく、オスカーの意識は
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