第6話 涙

「……まさか」


 悪寒が背筋を駆け上った。


「ヒルデガード。不可侵条約が結ばれたのはいつだ?」


「ちょうど先月の初め頃だったと思うけど……それがどうかしたの?」


 どうもこうもなかった。


 やはりそうだ。


 先月。すなわち処女の月。その初め頃といえば、白亜の森の里がパウラ教団の一大攻勢に遭った頃である。


 教団が蒼鏡のエルフたちと不可侵条約を結んだのは、二方面を同時に相手取らねばならない事態を避けるためだったのではないのか。


 そして、だとするならば――


 白亜の森が焼け野原となった今、教団が律儀に条約を守り続ける理由もなくなったのではないのか。


「……奴らは信用できん。あまり約束事をあてにしないことだ」


 苦虫を噛み潰したような表情で告げるオスカーに、ヒルデガードは不審げな面持ちを見せた。


 オスカーはとっさに取り繕って、


「とにかく。要するに、不可侵条約があるから里の外でオークに遭遇しても自衛できない、ということだな?」


 そのとおり、とヒルデガードは首肯する。


「夜はオークの活動が活発になる。だから、夜に里の外に出てはならない――そういう掟が取り決められた。……でも、それじゃあミヒェルは助からない!」


「ミヒェル……それがきみの弟の名か」


 掟が制定された瞬間、ヒルデガードの心にのしかかった失意はいかばかりか。その重みを想像して、オスカーは胸の底から溜め息をつく。


 秩序を旨とするエルフ族にとって、里の掟は絶対だ。破った者が制裁を免れることはない。


 罰が痛めつけられる程度で済めばまだいい。だが今回、幼いミヒェルの命を見殺さんとしている掟は、パウラ教団との不可侵条約に由来する、里の存続を左右しかねないものなのだ。


 里からの追放か、即刻の処刑か。


 死に至るのが遅いか早いかの違いでしかない。


「ヒルデガード。悪いことは言わん、やめておいたほうがいい」


「なによ! このままミヒェルが弱ってくのを黙って見過ごせって、」


 噛みつかんばかりの勢いは、しかし、言葉を終える前に萎んだ。


 ミヒェルの閉じられたままの瞼がぴくりと動き、なだらかな線を描く喉から苦しげな声がこぼれたからだ。


 揺らめくランプの灯が投げかける光の中で、ヒルデガードの瑠璃色の瞳に、涙の影がみるみるうちに盛り上がる。


「――私だって分かってるわよ、掟が里の砦だってことくらい。でも、私にはもうミヒェルしか残っていないの」


「どういうことだ? 親は――」


「父さんも母さんもオークに殺されたわ。だからミヒェルは……私に残された、たった一人の家族」


「……! そう、か」


「諦めるしかないなんて、納得できるわけないじゃない……!」


 ついに堪えきれなくなった涙の滴が、まなじりから溢れ出す。


 ――なんてことだ……。


 オスカーは、目の前の少女の絶望を理解した。


 両親はオークの手にかかって死んだ。その相手と里は不可侵条約を結んでしまい、憎しみをぶつけることは叶わない。そして今、その不可侵条約を理由とした掟のために、唯一残った弟の命さえもが彼女の指の狭間からこぼれ落ちようとしている。


「――どうやら、」


 決断をするのに時間は要らなかった。


「恩を返せる機会がさっそく訪れたらしいな」


「え……?」


 濡れた瞳をいっぱいに見開くヒルデガード。涙の跡が伝う頬をまっすぐに見下ろして、オスカーは不動の意思とともに宣言した。


「森にはおれが行く」


 よほど意外だったのだろう。ヒルデガードはたじろいで、


「――あ、あなたね、私の話ちゃんと聞いてた?」


「聞いていたから言っているんだ。直接の障害は不可侵条約そのものではなく、夜の外出を禁じる里の掟のほうだろう? だったら、今ならおれは知らぬ存ぜぬで通せる。部外者なんだからな」


「それは、そうかもだけど……オークはどうするの? もし不可侵条約を破ることになったら、私だろうとあなただろうと教団はお構いなしだと思う。いくらあいつらの死体が残らないって言ったって、ひと晩で何匹も減ったら怪しまれるでしょ?」


 なるほど、もっともな心配ではある。


 オスカーに言わせれば、この期に及んで胡乱うろんな条約を守り続ける必要などない。今となってはこちらが何もしなくても、教団の側から反故にしてくる可能性がおそろしく高いからだ。


 しかし、それを説明したところでヒルデガードや里の住人は納得するまい。


「遭遇したとして、戦うだけが道ではないさ」


 オスカーの答えは簡潔だった。


「撒いてしまえばいい。おれはそうやってここまで来た」


 むろん厳密に言えば、これは真実ではないだろう。


 が、勝算はあると踏んでいた。


 モルゴーンの根城から自分を追ってきたオークは昨夜のうちに片付けた。死骸は体内マナの暴走によって爆散したから、痕跡は残っていない。


 つまり、これまでのところ、この森のオークは自分についての情報を一つも得ていないことになる。


 変身のルーンを重ねて本来の姿をあらわにすれば、自分はオークの仲間として怪しまれることなく活動できるはずだ。エルフの心をもつオークが存在するなどということは、奴らには思いもよるまい。


「でも、あなた、体は……」


「充分休んだ。動くのに支障はない」


 万全とまではいかないが――とは言わずにおく。


「それに、おれがこの家にいることは何日も隠し通せるものじゃない。里の掟に組み込まれる前に動かなければ手遅れになる」


 ――同じエルフだもの、助け合いでしょ。


 ヒルデガードがくれた言葉は、今も耳朶じだの奥底で響いている。


 たしかに自分は、もうエルフではなくなってしまった。一見して昔と変わらない姿を一皮剥けば、そこからは獣のごとき野蛮な怪物が現れる。


 だとしても、エルフでありたいと切に願うのだ。


「おれを信じてくれ」


 せめて――内に宿る魂だけは。

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