小豆洗い
昼を過ぎた村は、今日も真夏の太陽に照らされた。
燦々と降り注ぐ熱い日射しを受け、地平線まで埋め尽くす稲穂がキラキラと輝く。セミが大きな声で鳴き、生涯に一度の恋を謳歌していた。
この穏やかな景色の中を歩き回れたら、どれだけ楽しいだろうか。田んぼの中にはくねくねと揺れ動く白い怪物もちらほら見えるが、遠目で見る分には景色の一部として受け入れられた。
そう、田んぼを眺めるだけなら良かったのに……
「なんで私達、山に登らないといけないんですか……」
「そりゃ、鬼が暮らしているのは山だからな」
半袖の服を着た涼しげな格好の仁美が漏らした言葉を、山登りに適した長袖長ズボン姿の蜘蛛子はバッサリと切り捨てた。
仁美達が歩いているのは、田園風景の中心を流れる大きな川の側。用水路として流れていた川と違い、幅数メートルはあり、流れもそれなりに激しい。護岸工事はされていないようで、辺りは草がぼうぼうに生えている。正に天然の川といった様相だ。勿論柵なんてないので、子供が溺れるんじゃないかと仁美は少し不安になる。
そしてこの川の先にある大きな山が、今日の目的地だった。
ちなみに、蜘蛛子のペットであるスネは現在自宅にて留守番中である。蜘蛛子曰く「元々農村のような環境を好む妖怪で、天敵が多い森に入るとパニックになってしまう」らしい。これからその『天敵が多い山』に行く仁美としては、大変気が滅入る話だ。
「この川を辿るようにして歩くコースが一番楽な登山道でね。鬼達も川沿いによくやってくるから、観察するのにうってつけなんだ」
「? なんで川沿いに集まるんですか? 水を飲むとか?」
「いや、妖怪は水を飲まない。物質的な存在じゃないからか、そうしたものの摂取は不要なようだ。彼等の目的は河童だよ」
「……河童?」
「この川には河童が棲んでいるのさ」
蜘蛛子の答えに、仁美は目をパチクリさせた。
河童。
オカルトにさして明るくない仁美でも、その名前ぐらいは知っている。川に棲んでいて、キュウリが好物。相撲好きで、尻子玉を抜いていくらしい……尻子玉がどんなものかは知らないが。
そんな河童が、この川にはいる。
昨日までなら「まさかー」と言って流しただろうが、くねくねや天井舐めを見てきた今日の仁美は、無意識に川から離れていた。どちらもあまり危険のない妖怪だったが、河童もそうとは限らない。むしろ川に引きずり込んだりするようなイメージが……
そんな仁美を見ていた蜘蛛子が、くすりと笑う。蜘蛛子の表情に気付いた仁美は、無意識に唇を尖らせた。
「……河童ですか。まぁ、妖怪の中では一番実在してそうな感じがしますよね。でも、なんで河童がいると鬼が来るんですか?」
「そりゃ、獲物だからね」
「獲物?」
「鬼は頂点捕食者なんだ。他の妖怪を好んで食べる。河童は特に好物らしい」
蜘蛛子は楽しげに説明したが、仁美は表情を引き攣らせる。おどろおどろしい姿をした河童が、より恐ろしい鬼に頭からバリバリ食べられてしまうイメージが脳裏を過ぎった。
「河童は好奇心旺盛であるが、同時に臆病でね。体格が同じぐらいの子供なら比較的接触しやすいが、大人相手だと怖がらせてしまう。だから観察する時は大きな声を出さず、静かに、向こうがこちらに気付いたら後退りするようにしてくれ」
「はぁ……分かりました」
「うむ。では山に入るまでの道中、河童でも探すとしよう」
うきうきとした足取りで、蜘蛛子はどんどん先に進む。仁美も置いていかれないよう、早歩きで後を追う。
たくさんの水があるお陰か、川の側は真夏にも関わらずとても涼やかだった。炎天下の中なのに歩くのが苦でなく、どんどん先へと進める。
仁美は川をじっと眺める。おぞましい怪物が自分を狙っている兆候を逃さぬよう、じっくりと、些細な動きも見逃さないようにして――――
草の間を動く、小さな影を見逃さなかった。
「ひっ……せ、先輩、あそこに何かいます!」
「何!?」
仁美が小声で知らせると、蜘蛛子は素早く仁美が指差した方へと振り返り、即座にその場に伏せた。綺麗な服が土で汚れるが、蜘蛛子は気にもしない。
多分自分も伏せた方が良いのだろうと思い、仁美もその場にしゃがみ込む。草に身を隠すようにして息を殺す。
やがて草むらから、毛むくじゃらな動物が現れた。
「……あれ?」
予想していたのと違う姿に、仁美はキョトンとなる。
動物は、一見してタヌキのようなずんぐりとした体躯をしていた。二足歩行をし、身長は一メートルほど。体毛は胴体部分が黒く、頭は白い。平坦な顔立ちは老いたタヌキのようにも見え、不思議な愛嬌がある。
動物は仁美達に気付いていないのか、辺りをキョロキョロと見回しながら川辺に近付く。すると前足の指を大きく開き、まるで網のように細かな穴の空いた水かきを見せた。
そしてその手を川の中に入れると、じゃぶじゃぶと手洗いのような仕草を見せる。しばらくすると手を上げ、しゃりしゃりと音を鳴らした。川の砂を拾い上げ、手で擦っているのだろう。
なんとも愛くるしい姿だが……どう見ても河童ではない。
「ほう。小豆洗いではないか」
疑問に思っていると、蜘蛛子が答えを教えてくれた。尤も、小豆洗いなる妖怪を知らぬ仁美からすれば、謎が深まっただけだが。
「小豆洗い? なんですか、それ」
「川辺で小豆を洗うような音を立てる妖怪だ。人を喰うとか攫うとかいう話もあるが、実際には水生昆虫や甲殻類を主に食べている。いやぁ、幸運だぞ。警戒心が強いから中々人前には現れないんだ」
「はぁ……」
幸運と言われても、いまいち珍しさが感じられず、仁美は首を傾げた。
とはいえ見ていて可愛いものなのは違いない。仁美はじっと、小豆洗いを見つめる。観察されている事など知りもしない小豆洗いは、川底の砂を拾い上げてはしゃりしゃりと手を擦り、餌を探す。
実に可愛い。見ていて頬が弛んでしまう。
……口元からぼろぼろと小動物の死骸が溢れていく様子を見ると、その可愛さも少し薄れるが。
「なんか、勿体ない食べ方してますね……」
「ははっ。確かにそう見えるかも知れないな。魂だけを食べるから、肉体の方はそのまま残る訳だし。だが、彼等の食べ残しは決して無駄じゃないぞ。むしろああした食べ残しは、あまり狩りが上手じゃない魚にとっては貴重な餌となる筈だ。多様性の維持に貢献している訳だな」
「ふぅーん……」
食べ残しが生物多様性を維持する……なんとも大袈裟な話に実感が持てない仁美だったが、小豆洗いの可愛さを見ているとそんな疑問は何処かにすっ飛んでしまった。
もしゃもしゃと食事を続ける小豆洗い。そんな彼? の背後にある草むらが不意に揺れた。なんだと思い、仁美が注視していると……草むらの中から小さな獣が姿を現す。
瞬間、仁美の全身に衝撃が走る。
現れたのは、小さな小豆洗いだった。
子供なのだろうか。最初に現れた小豆洗いと比べ、十分の一ぐらいの背丈しかない。毛の色や模様は大人とほぼ同じだが、大人よりも透き通っていてふわふわとした毛で覆われていた。足取りが覚束なくてよちよちしているのがまた愛くるしい。
そんな愛くるしい集団が、ぞろぞろと十匹も現れたなら。
可愛い大行進を目の当たりにし、仁美は声を必死に抑えながら悶えてしまった。
「ふわぁ~~……! か、可愛い……! なんですかあれ、なんですかあれぇ……!」
「見ての通り小豆洗いの幼体だ。彼等は子だくさんでね、一度に十数匹ほど産み落とすようだ。資源量の多い水生昆虫を主に食べているからか、繁殖力が旺盛なんだ。成体は何時も子供を連れているな。大きさからして、あの子供達は生後間もないと思われる」
「そうなんですかぁ……ああ、きゃわいい……」
蜘蛛子の話を半分聞き流しながら、仁美は小豆洗いの幼体をうっとりとした眼差しで眺める。
小豆洗いの幼体達はずらりと並ぶように川岸に近付くと、拙い手付きで川底を浚い始めた。小さな手で砂を広い、しゃりしゃりと擦る。時折何か小さなものを見付けては食べ、見付けては食べ……一生懸命ご飯を食べていた。中には夢中になるあまりでんぐり返しで川に落ち、キョトンとするものまでいる。
わざとやっているのか、と思うぐらい可愛さ全開だ。何時までも見ていられる……そんな気持ちが大袈裟でないぐらい、仁美は小豆洗い達の食事をだらしない顔で眺めていた。
――――仮に。
仮に仁美が蜘蛛子の話をちゃんと聞いていたなら、気付けたかも知れない。
だからその目に入っても気にしない。
川の中を、すぅーっと静かに移動する影なんか。
「……あっ」
蜘蛛子は川の中の影に気付き声を上げた、が、何に気付いたかを仁美には教えてくれない。教える暇もない。
次の瞬間、川の中から不気味な爬虫類が跳び出したのだから。
突然の出来事に、可愛いものをただただ眺めていただけの仁美は反応出来ない。呆然とする仁美の前に、爬虫類は全身を露わにする。
全身が緑色をし、鱗で覆われていた。背中には亀の甲羅のようなものを背負い、手足には水掻きがある。すらりとした姿はイタチのような肉食獣を想起させ、顔付きはおどろおどろしい。頭には皿と呼べそうな、つるつるとした部分が見受けられる。
「ギシャアーッ!」
現れた爬虫類は不気味な声を上げ、川岸に居る小豆洗いの子供二匹に手を伸ばす。
狙われた子達は、身動きする暇すらなく捕まってしまった。すると爬虫類は一気に後退。両手に持った小豆洗い諸共川の中に姿を消す。
残された小豆洗い達は、呆然としていた。仁美も呆然としていた。
先に立ち直ったのは小豆洗いの方。
「きゅー!?」
「きゅー!」
「きゅきゅー!」
親の悲鳴に合わせ、子供達も悲鳴を上げながら、草むらの中へと逃げ込んでいった。ずんぐりとした体躯からは想像も出来ない速さで、一瞬で姿を隠す。
草むらに入ってしまうともう小豆洗いの姿は見えない。しばし川のせせらぎを耳にして、蜘蛛子がゆっくりと立ち上がる。遅れて仁美も立ち上がる。
「……あの……今のは?」
仁美は蜘蛛子の顔を見ながら尋ね、
「河童だよ。アイツ等は小豆洗いの子供が大好きでねぇ……食べ物的な意味で」
蜘蛛子はくすくすと笑いながら答えた。
「いやいや!? 笑い事じゃないですって!? あ、あんな可愛いのに、あんな、あんな……」
「いくら可愛くても、妖怪もまた自然の生き物。食物連鎖からは逃れられないのさ。彼等は繁殖力に優れているが、それがなければ滅びるほど天敵も多いのだよ」
「……酷過ぎる……なんてかわいそうなのかしら……」
「同情しているところ悪いが、食べられなかったら今度はあの繁殖力が猛威を振るうぞ。短期間で大増殖して、河川の昆虫類を食い尽くす。水中生態系を一瞬で破壊するだろうな」
蜘蛛子は淡々と『現実』を語る。仁美とて高校で食物連鎖については習っているのだ。言われずとも分かる。
分かるが、感情的に納得出来るかは別問題というやつで。
「……~~~っ!」
腹立ち紛れに、石を蹴飛ばす。
飛んでいった石はぽちゃんと音を鳴らし、驚いたように河童が川から跳び上がるのだった。
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