闇夜の妖怪

 勝手ながら、仁美は蜘蛛子の事を裕福な家庭の生まれと思っていた。

 気取った話し方をしている辺りがなんとなく世間知らずっぽいし、それでいて立ち振る舞いが上品である。蜘蛛子は自身の生い立ちについて特段話さず ― 訊いてもいないのだから当然だが ― 、仁美はその思い込みを今の今まで訂正する機会がなかった。

「此処が我が祖父の家だよ」

 故に蜘蛛子が両腕を広げながらハッキリとそう伝えても、仁美の頭は理解を拒んで首を傾げさせた。

 蜘蛛子が家だと呼んだものは、確かに家である。しかし周り ― お隣さんまで数十メートルは離れているが ― にあるごく一般的なサイズの一軒家と比べ、特別大きかったり豪勢だったりするようには見えない。むしろ屋根の瓦の一部が落ち、壁の塗装は剥がれ、庭は雑草で埋め尽くされている有り様。劣化が目に余り、嫌悪感にも似た想いを抱いてしまう。

 ぶっちゃけてしまえば、廃屋にしか見えない。

「……あの、本当に……此処が、その、家? なのですか……?」

「まぁ、疑問に思うのも分かるがね。やはり人が住んでいないとそれだけで劣化が激しいな……」

「? 人が住んでいない? えと、ご親戚の家なんですよね?」

「うむ。とはいえ今は誰も住んでいない。祖母は私が産まれて間もなく他界し、祖父も四年前に亡くなったからね」

 疑問に思い尋ねると、蜘蛛子はあっさりと答えた。

 一瞬、どきりと心臓が跳ねる。訊いてはならない、傷付けるような事を言ってしまったかと不安になる。

「今はうちの父が所有者となっている。まぁ、別荘みたいなものだよ」

 尤も蜘蛛子は平然としていて、気にしていない様子だった。杞憂だったか、と思う反面、もっと慎重にならなくちゃ、と仁美は自省する。

「別荘、ですか」

「ああ。父はそこそこ大きな会社の重役をしていてね。加えて娘である私を溺愛している。祖父の家を潰したくないと頼んだら、簡単に許してくれたよ」

「……それはまた随分と甘々で」

「お陰でこの村での活動拠点には困らずに済んでいるよ。祖父の財産が一般人から見ても少なくて、殆ど相続税が掛からなかった、というのも理由だろうがね」

 呆れるように、或いは嬉しそうに微笑みながら、蜘蛛子は肩を竦める。相続税がどの程度のものなのかは分からないが、いくら安くてもそこそこの金額になるのは仁美にも想像が付く。

 やっぱり蜘蛛子はお嬢様だったらしい。自分のイメージが正しかった事が分かり、ほんの僅かながら仁美は機嫌を良くした。反面、遅れて覚えた違和感が身体を強張らせたので、浮かべた笑みは引き攣ったものになったが。

「……すみません、先輩。一つ質問が」

「なんだね?」

「あの、今、この家の事……活動拠点と、言いましたか?」

 仁美は目の前にある蜘蛛子の祖父の家を指差しながら、尋ねる。

 蜘蛛子にとっては、祖父との思い出が詰まった大事な家だろう。

 しかし客観的に見れば、廃屋である。どう言い繕ったところでその事実は曲げられない。

 活動拠点って、この家で寝泊まりするの? そんな疑問、というより不安が仁美の心をじわじわと蝕む。無論これを訊くのは蜘蛛子の心を傷付けるかも知れないが、されど家というのは衣食住の『住』である。礼節を忘れてしまうのは仕方ない。

 不躾は承知しての質問。蜘蛛子は怒るどころか、「そう思うのは仕方ない」と目で教えてくれる。仁美は安堵した。きっと先の一言は言葉のあやというもので、寝泊まりするのは別の場所――――

「なぁに、この程度の荒れ具合なら二人掛かりの掃除でなんとでもなるさ!」

 そんな希望は、蜘蛛子の一言であっさりと打ち砕かれるのだった。

 ……………

 ………

 …

 蜘蛛子と二人で行った掃除はとてもスムーズに進んだ。仁美自身掃除が嫌いでないのもあったが、蜘蛛子の手付きが慣れたものであったのが大きい。廃屋がぼろ家ぐらいには回復出来た。

 しかし問題は他にもある。

 まず家の中が酷くカビ臭い。蜘蛛子曰く二年ぐらい前から雨漏りが酷くて、手の届かない天井などにカビが生えているとの事。数時間で臭いには慣れたが、健康被害があるのではないかと不安になる。

 そしてもう一つ。ある意味改善しなくても良い問題であり、ある意味近々に迫った難問でもあるそれは……

 電気が点かない事だった。

「……暗い」

「はっはっはっ、まさか電線が切れていたとはね! 半年前に来た時は平気だったんだが、はて、この前の台風の時にでも切れたのかな? 実家に帰ったら、父に修理を頼まないといけないな」

 ぽつりと仁美がぼやくと、蜘蛛子の声が楽しげに笑った。

 蜘蛛子は仁美のすぐ隣に居る筈だが、彼女の顔は見えない。辺りは完全な真っ暗闇――――今は午後八時を回っているのだから。

 幸いにして、対策は済んでいる。掃除中電気が点かない事に気付いた蜘蛛子は、颯爽と夜の準備を終わらせた。準備といっても大した事はしていない。こんな事もあろうかとと言って持ってきたガスコンロで自前の食材を手早く調理して夕飯を作り、その後和室に布団を敷く事・・・・・・

 つまり対策とは、暗くなる前に夕食を終わらせ、暗くなったら寝る事だった。ちなみに蜘蛛子のペットであるスネは、蜘蛛子の夏掛け布団の上で丸くなって寝ている。明かりがあれば、ネコのように可愛い姿を見る事が出来ただろう。

「うぅ……こんな早くに眠れませんよぉ」

 暗闇の中で仁美は独りごちる。午後八時に寝るなど、今時小学生でも少数派だろう。大学生である仁美は尚更で、まるで眠気が来ない。都市部と比べ気温が低くく扇風機なしでも心地は良いのだが、若干カビ臭い夏掛け布団の臭いが全てを台なしにする。

 お風呂に入っていればぽかぽかとした感覚から眠りに入りやすかったかも知れないが、電気が来ないので今日は濡れタオルで拭いただけ。身体はなんの準備も出来ていなかった。

「なぁに、目を瞑ればそのうち眠くなるよ。人間ってのは存外単純なもんなんだ。やれる事がないと分かっていると、簡単に寝てしまう」

「そーいうもんですかねぇ……」

「そうそう。というか私はもう寝る。おやすみ」

「えっ」

 口早に告げられた言葉に呆けていると、蜘蛛子の方から静かな寝息が聞こえてきた。

 まさか、本当に寝たの?

 あまりにも早い就寝に、呆れるよりも驚きの念を抱いた……のも束の間、話し相手がいなくなってしまった事に気付く。蜘蛛子との無駄話で時間を潰す作戦は、考え付く前におじゃんとなった。

 さて、どうしたものか。

 スマホでネットサーフィンやゲームは駄目だ。ネットが通じていないという根本的な問題もあるが、何より電気が来ていないので充電が出来ない。スマホには時計やカレンダー、暗闇の中での明かりなどの役目もある。予定ではもう一泊するつもりなのだから、多少は節約しなければならない。

 ……しかしそうなるともう、他に暇潰しの案などない訳で。

「…………寝るか」

 諦めた仁美は、静かに目を閉じた。

 意識を眠りに向けると、外で鳴り響く自然の音色がよく聞こえた。

 セミとは違う虫の音、草や木々の葉が擦れる音。どの音色も、優しくて、穏やかで、段々と心を解していく。解けた心はゆっくりと、遠退くように薄れていった。

「(あっ……なんか、良い感じに、寝られそう……)」

 ぼんやりと自分の感覚を理解したのも束の間、言葉を形作るだけの意識も保てなくなる。

 蜘蛛子が言っていた通り、人間とはやれる事がないと分かると簡単に眠れるらしい。

 感覚的にそれを理解しながら、仁美は夢の世界へと落ちていき――――


















 カサカサ、という音を聞いた瞬間、ばちりと目を開いた。

「(い、今の音、何!?)」

 不意を突かれたからか、完全に覚醒してしまった仁美は辺りをキョロキョロと見回す。無論明かりがないため、何も見えない。

 されど音はしかと聞こえ、何者かの存在を物語る。

 カサカサ。

 カリ、カリカリ。

 ぬちゃ、ぬちゃ……

 最初は虫の歩く音かと思ったが、明らかに虫では出せないような、ハッキリとした音が聞こえてくる。音は何処からするのかと意識を研ぎ澄ませば、自分の頭上……天井付近だと分かった。

「せ、先輩……先輩っ!」

 仁美は隣に居る筈の蜘蛛子を小声で呼びながら、大雑把に手で叩く。蜘蛛子の居る場所からもぞもぞと、夏掛け布団の擦れる音と、不機嫌そうな唸り声が聞こえた。

「……ぁー……なに?」

「先輩! 天井に何かが……!」

「天井? ……………アレか……そういえば、言ってなかったなぁ……」

 ほんの数分でぐっすり寝ていたのか。なんとも緊張感のない声でぼやきながら、蜘蛛子は何やら納得する。

 どうやら蜘蛛子には心当たりがあるらしい。その心当たりを聞かねば、仁美は安心して眠れない。

「な、なん、ですか。何がいるんですか!?」

「気にしなくていい……無害だから……見たければ、スマホのライトで、照らせば……ぐぅ」

「ちょ、先輩!? せんぱーいっ!?」

 仁美が何度呼び掛けても、もう寝息しか聞こえてこない。力尽きるように、蜘蛛子は再び夢の世界に旅立ったようだ。

 寝付きの良過ぎる先輩に愕然とする仁美だが、天井からの音で我を取り戻す。気付けば、音の鳴り方がさっきよりも忙しなくなっている。もしかすると、増えた、のかも知れない。

 ごくりと、仁美は無意識に息を飲んだ。

 蜘蛛子は無害だと言っていた。確かに天井に現れた気配は、自分達の居る床の方へと降りてくる様子はない。気になるならライトで照らせば良いとも言っていたので、ちょっと驚かしたぐらいで襲い掛かるようなタイプではないのだろう。

 だけど、姿も見ずに安心出来るほど、仁美は能天気ではない。

 気にしない事にするか、正体を確かめるべきか……考えた末、仁美は正体を確かめる事にした。危険がないというのなら、知らないよりは知っておきたい。

 仁美はスマホの電源を入れ、ライトを起動させる。それからおもむろに天井の方を照らした

「ひっ!?」

 瞬間、思わず声が出てしまう。

 天井に向けたライトが照らしたのは、一匹の『怪物』。

 一見してその外観はトカゲのようであった。しかし頭から尾の先までの長さが三メートルはあろうかというオオトカゲは、日本には棲息していない筈である。ましてや頭には目玉が四つも付いていて、焼け爛れたような肌をした種など世界の何処にもいないだろう。

 口からは長い舌が伸び、しきりに出し入れしていた。歯は見えないが、その口の中にどれだけ恐ろしいものを隠し持っているのか。指先には鋭く赤黒い色の爪が三本生えており、今は天井の板をがっちりと掴むのに使っているが、もしも人を引っ掻けば頸動脈の一本二本簡単に切り裂きそうだ。だらだらと涎を垂らし、飢えに苦しむような、おどろおどろしい呻きを漏らしている。

 なんと恐ろしい怪物なのか。仁美は己の決断を猛烈に悔い、恐怖で全身を震わせる。 

 加えて照らす光の中に二匹目の頭入ってきたなら――――堪らず、仁美はスマホの電源を落とし、夏掛け布団を頭から被った。

 あれこそ正に妖怪だ。

 なんという名前の妖怪かは分からない。しかしあんな恐ろしい姿なのだ。蜘蛛子は無害と言っていたが、本気で怒らせたらどうなるか分かったものではない。いや、そもそも蜘蛛子はあの妖怪の姿を見ずに答えていたではないか。実は予想と違っていた、なんて可能性だってある。

 果たして自分のした事は、彼等の怒りを買わなかっただろうか? 本当に彼等は無害な妖怪なのか?

 不安の中、不意に天井からカサカサ、ガリガリという音が聞こえてくる。移動する音だが、先程よりずっと激しい。数も増えている。荒々しい唸り声も聞こえ、悲鳴染みた奇声も聞こえてきた。

 彼等が何を考えているのか分からない。何者なのか分からない。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 恐怖に心を乗っ取られ、仁美は耳を塞いだ。目を瞑り、ただただ震えた。早くいなくなってほしい、早く見逃してほしい。心の中で祈り続ける。

 そして――――

 ……………

 ………

 …

「あれだけ早く寝たのに、何故隈が出来ているんだね?」

 携帯式ガスコンロの前で朝食のハムエッグを作っていた蜘蛛子は、心底不思議そうに尋ねてきた。蜘蛛子の頭の上に居るスネも、目をパチクリさせている。

 やつれた仁美の顔は、それだけ彼女達の目には奇妙に映ったのだろう。

 あの夜、仁美は一睡も出来なかった……というのは大袈裟だが、かなり深夜まで起きていた。眠れたのは妖怪達の気配が消えてから。安心出来た頃には朝日が昇り始め、上がり始めた気温の中では熟睡する事も叶わず。

 かくして今日の仁美は、冗談抜きに睡眠時間が三時間程度しかなかった。

「……なんですか、あの妖怪」

「ん? 妖怪?」

「夜中に現れた奴です! めっちゃ怖かったんですよ!?」

「……あー、そーいえばなんか夜中に起こされたなぁ。え? 君、アレが怖くて眠れなかったのか?」

 まるで阿呆を見るような眼差し。

 蜘蛛子にその気があったのかは分からなかったが、仁美が怒りを爆発させるには十分なものだった。

「な、なんですか! 先輩はあの化け物の姿を見てないから……!」

「巨大な爬虫類型の妖怪だろう? 目玉が四つあって、鋭い爪がある。それから頻繁に舌を出し入れしていなかったか?」

「ぅ……そ、そうでした、けど……」

 見事昨晩の妖怪の姿を言い当てられ、仁美は言葉を詰まらせる。蜘蛛子の勘違い、という線は薄くなった。

 しかしだとすると、尚更あの妖怪の正体が気になった。あんな恐ろしい姿の怪物が何体も出てきたのだ。どんな妖怪なのか、何をするのか、知らずにはいられない。

「一体、アレはなんなんですか……!」

 仁美は堪らず、蜘蛛子を問い詰める。

 蜘蛛子は一瞬、全ての動きを止め、仁美の事をじっと見つめてくる。その瞳は、あたかも覚悟を決めろと忠告するように鋭い。

 ごくりと、仁美は息を飲む。突然の事に僅かながら迷い……されど蜘蛛子は、仁美の覚悟を待たない。

 蜘蛛子はゆっくりと口を開き、告げた。

「アレはね、天井舐めという妖怪だよ」

 そのおどろおどろしい名前を。

 ……おどろおどろしい名前のような気がした仁美だったが、頭の中で反復したら、全くそんな事はなかった。

「……天井舐め?」

「うむ。文字通り天井を舐めていく妖怪だ。それ以外、特に何もしない」

「……なんで天井を舐めるんですか?」

「恐らく枯れ木に生えるカビやコケ類が餌なんだろう。山にも結構な数が生息しているよ。最近の住宅は防カビ剤や塗装がしっかりしているから、都市部じゃ河童より希少かも知れんがね」

「……あの、餌がカビとかコケなら、あの鋭い爪は……?」

「爪は木を登るためのものだろう。ナマケモノの爪を知ってるかい? 結構鋭いんだ。それと同じだな」

「……………」

「ちなみにカビを舐め取るという生態なので、歯は退化して消失している。だから万一噛まれても子犬ほどのダメージもない。以上、説明終わり」

 ガスコンロに乗せたフライパンを傾け、お皿にハムエッグを移しながら蜘蛛子は話を打ち切る。

 天井舐め。

 成程、如何にも天井を舐めていそうな、天井を舐める以外何もしそうにない妖怪だ。大人しいも何も、天井を舐めるだけの奴なのだから当然である。鋭い爪も、木に登るためのものなら納得だ。思い返すと歯は見えなかった。当然である。生えてないのだから。

 ……知らなかったから仕方ないとはいえ、「天井舐めが怖くて眠れなかった」という言葉が色々恥ずかしい。

 恥ずかしいが、しかしそれよりも疲れがどっと押し寄せてくる。瞼を開き続けるのがとても辛い。身体が鉛のように重くなり、頭の中に深い靄が押し寄せる。

 そして寝室である和室に、自分を脅かす者はもういない。

「寝不足で山登りは危ないから、出発は午後にするとしよう。とりあえず、二度寝してきなさい」

「……はい」

 蜘蛛子の提案を素直に受け入れ、仁美は天井舐めの潜む和室へと躊躇いなく戻るのだった。

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