くねくね

 駅前から見えるものは、本当に田んぼと山だけだった。

 燦々と降り注ぐ夏の日射しを受けて青々と輝く稲の葉は、都市にはない自然の優しさを感じさせてくれる。気温も、辺りには日陰になるものなどないのに、町中よりずっと過ごし易い。遠くに広がる山々の雄大さを前にすると、社会で感じる悩みや苛立ちがどれもちっぽけに思えた。

 端的に言えば、とても魅力的だった。ずっと暮らしたいとまでは思わないが、時々は忙しない現代社会から離れ、この穏やかな風景の中に身を置きたいとは思う。とても良い場所だ。

 良い場所だったので、仁美は拗ねたような怒ったような、嬉しいような楽しいような、訳の分からない表情を浮かべる羽目になったのだが。

「どうしたんだね? 名状し難い顔になってるぞ」

「きゅー?」

 そんな仁美に、蜘蛛子は好奇心旺盛な表情を見せながら尋ねてきた。白いワイシャツは太陽光を浴びてキラキラと光り、蜘蛛子の魅力を一層引き立たせる。人間とはここまで綺麗になるのかと、仁美では嫉妬の念すら抱けないレベルだ。頭の上に乗せているスネコスリのスネが小首を傾げる姿も可愛くて、一つの『アクセサリー』として蜘蛛子の魅力を引き立てていた。

 此処はそんな蜘蛛子の祖父が住む村だと、仁美は聞いている。

 名を白煙村。電車に揺られる事四時間半、ようやく辿り着いた片田舎だ。事前に想像していた通り、周りは山に囲まれ、一面田んぼばかりで、夜道を照らしてくれる街灯が殆ど見られないド田舎である。

 今日から二泊三日、仁美はこの村で寝泊まりする。

 目的は勿論、蜘蛛子に誘われた通り『鬼』を観察するため。何時までも観光気分でいる訳にもいくまい。仁美は眉間に指を当て、ぐっと顔に力を込める。そうすればすぐに完成だ――――ただの顰め面が。

「人を化け物みたく呼ばないでください……なんというか、こう言うのも難ですけど、その……」

「クソド田舎だろう? よく言われる。移住希望者は多いが、大半は一年と持たずにいなくなるよ。いやぁ、十年ぐらい前に退職金を費やして農家に転職し、植えたキャベツの苗が一週間で全てナメクジに食い倒された四十代の夫婦がいたんだが、今でも彼等は元気かねぇ」

 明るく元気に語られるブラックな話に、仁美は口許を引き攣らせる。今でこそ脱サラして田舎生活は簡単ではない、という話はネットでちらほら見かける。しかし十年前となると、そうしたネガティブな情報は今より乏しかった筈だ。数多くの人がこの地で地獄を見たと思うと、目の前の素晴らしい景色がアンコウの頭に付いている疑似餌のように思えてきた。

「まぁ、永住するのはオススメしないが、二泊三日程度の滞在なら悪くない筈だよ。テレビぐらいはあるからな。あと公衆電話もあるから、家への連絡は一回十円で出来るぞ」

「いや、別にどれもスマホで出来るじゃないですか。というか私テレビ見ないですし」

「ほう、そうなのか。ちなみに此処、電波入らないからな」

「え? ……んなぁっ!?」

 スマホを見れば本当に、アンテナ部分に×印が。スマホをあちらに傾け、こちらに傾け、再起動までしてみたが、やはりアンテナは立たない。

 確かに二泊三日が限度だなと、仁美は頬を引き攣らせながら思った。

「さぁて、こんなところで立ち話も難だ。祖父の家に案内しよう」

 尤も仁美の顔は、この村を知る者からすれば見慣れたものなのだろう。蜘蛛子は気に留めた様子もなく、村へと向けて歩き出す。仁美も置いていかれたら堪らないと、すぐにその後を追った。

 蜘蛛子が通る道は、田んぼと田んぼの間を通る畦道だった。人がすれ違える程度には広いが、舗装すらされていない土の道。側には水路があり、そこそこの勢いで水が流れていたが、転落防止の柵はない。子供とか落ちて死ぬんじゃなかろうかと、地元民でない仁美は不安を覚える。

 歩きながら辺りを見渡してもみたが、一面の田園風景としか言いようがない。どれぐらい一面かと言えば、遠くの山以外は田んぼしか見えないほどだ。あれ? 民家とかなくない? と思って注意深く探して、ようやく見付かるぐらい遠くに家がポツポツと疎らに建っている。とんでもない人口密度の低さに、産まれも育ちも都会である仁美は少なからずカルチャーショックを受けた。

 ……そうしてさくさく歩く事五分。

 あまりにも何もなくて ― 村人と擦れ違うどころか姿すら見当たらない ― 、早くも仁美は飽きてきた。

「せんぱーい。なんか面白い話してくださいよー」

「君、中々の無茶ぶりをしてくるね。そうだね……おっ、丁度良いのがいるじゃないか。あそこを見たまえ」

「はい?」

 暇潰しとしてなんの気なしにお願いしてみたところ、蜘蛛子は田んぼの方を指差した。何がいるんだろうと、仁美は素直にその指先を追う。

 見れば、何やら白くてもやもやしたものが田んぼの真ん中に立っていた。

 かなり遠い場所にいるようで、輪郭すらハッキリとは分からない。細長い形態をしており、風もないのに揺らめくような動きをしていた。距離があるので正確な大きさは分からないが、稲の背丈から推察するに二メートルあるかないか……人間と同じぐらいだ。

 仁美はあのような物に見覚えがない。ないのだが、何故だか既視感を覚える。そのチグハグな感覚が気持ち悪く、仁美はよく分からない白い何かに不安を覚えた。

「アレは『くねくね』だよ。この辺りだとよく見掛けるんだ」

 尤もその不安は、蜘蛛子の説明ですぐに拭う事が出来た。オカルトに詳しくない仁美でも『くねくね』ぐらいは知っている。白くてくねくねと揺れ動くそれは確かにネット上で語られている『くねくね』の特徴を有していて

「ほぎゃあああああっ!?」

 そこまで理解した瞬間、仁美は大声で叫びながら蜘蛛子の目を両手で覆った。自分の目ではなく他人の目を塞ぐところに仁美の性格が表れていたが、しかしその事に気付いて恥ずかしがるような余裕はない。

 『くねくね』。

 インターネットで広く語られているそれは、所謂「見たらアウト」系の代物だ。仁美が知る限り、見たら狂うとかなんとか。狂うというのがどんなレベルかは分からないが、もしかすると廃人になってしまうかも知れない。

「はっはっはっ。いきなりだーれだをやってくるとは、中々茶目っ気があるね。しかしこういうのは、後ろに誰が居るか分かっている状態でやっても意味がないのではないかね?」

 そんな仁美の心配を余所に、蜘蛛子は能天気に笑っていた。

「な、何ふざけてるんですか!? くねくねって、確か見たら危ないやつで……!」

「落ち着きたまえ。アレはネット上で語られているほど危険なものではない。まぁ、安全でもないから注意するに越した事はないが、大声で叫ぶほどの代物ではないよ」

「そ……そう、なのですか……?」

「そうだなぁ。大体ヘビぐらいの危険性と思えば良いんじゃないかな。近くに居たらすぐ逃げた方が良いが、遠目に見る分には安全で、走る速さならこっちが上という意味では同じようなものだ」

 狼狽する仁美に、蜘蛛子は淡々と説明する。真偽の判断など仁美には出来ないが、蜘蛛子の方が『妖怪』には詳しい。まさかここで嘘も吐くまいと、仁美は蜘蛛子の話を信じる。両手を目から放せば、蜘蛛子はなんの躊躇もなくくねくねの方を見つめた。信頼は確信へと変わり、仁美は安堵の息を吐く。

「良し。都合良く初心者向けの妖怪が現れた事だし、まずはくねくねの観察から始めよう」

 しかし不安が知的好奇心に変わる事はなかったが。

「いやいや!? 止めましょうよ!? 危ない事は危ないんでしょ!? 君子危うきに近寄らずって言うじゃないですか!」

「いや、でもくねくねってうちの村にたくさん生息してるから、今のうちに少しは慣れておいた方が良いと思うぞ?」

「えっ」

 反論した仁美だったが、蜘蛛子がさらりと告げた話を聞いて呆然とする。

 蜘蛛子は見てみろとばかりにあちらこちらを指差す。その指先が向いた方全てを見れば、遠近問わず、くねくね蠢くものがいた。しかもやたら多い。数えてみれば、ざっと三十ぐらい。おまけに全方位に分散していた。

 つまり、くねくねに包囲されている訳で。

「……あ、これ遺言書いた方が良いやつですかね?」

「君がヘビに囲まれたぐらいでそうする人間なら、どうぞご自由に」

 仁美の弱音を、蜘蛛子はバッサリと切り捨てた。

 ……………

 ………

 …

「……なんというか、思ったよりも普通の外見をしているんですね」

 じっと前を見つめながら、畦道に立つ仁美はぽそりと呟いた。

 視線の先には、一匹のくねくねがいる。距離にして、ざっと三メートル。人間大のものを観察するには十分な至近距離で、くねくねの姿もしっかりと観察出来た。

 印象を一言で語るなら、包帯でぐるぐる巻きにされた人間、だろうか。

 腕、足、顔……そんな人体のパーツが身体の凹凸からイメージ出来る。表面を白いものが、頭の先から爪先まで覆っていた。見る限り目はないようで、こちらに気付いて近付いてくる気配はない。その場でくねくねと動くだけである。いくら眺めていても、心が掻き乱される感覚とか、宇宙的恐怖の気配を感じるとか、そんなものはこれっぽっちもない。

 気持ち悪いとは思うが、発狂するほどかと言われると、それほどのものとは思えなかった。

「まぁ、この手の怪談話は誇張気味に伝わるものだ。大半の人に実物が見えないなら尚更ね」

 隣に立つ蜘蛛子の説明に、そういうものかと仁美は納得する。確かに『見ていてちょっと不気味な何か』よりも『見たら発狂する何か』の方が話として怖い面白い。オカルト故に正確性など二の次で、人から人へと伝わる中で話がどんどん膨らんでいくのが容易に想像出来た。

 くねくねが怪談話ほど恐ろしい妖怪ではないというのも、そうかも知れないと仁美は思えた。

「いやー、しかしこのフォルムは良いねぇ。何度見ても良い。それにこの動きにどのような作用があるのか興味深いよ……うへへへへ」

 ……だからって、あまり近付いて良いものではないだろう。頭の上のスネがきゅーきゅー鳴いて慌てていたが、蜘蛛子は聞こえていない様子だった。

「先輩、近付き過ぎです。田んぼを踏み荒らすつもりですか」

「ぬあああー……離せー、私はアイツの手触りを確かめたいんだぁぁぁ……」

「どんだけ近付くつもりですか!? ヘビぐらいには危険って自分で言ったくせに!」

 危険を怖れず ― というより気にも留めず ― 突き進む蜘蛛子の襟首を掴み、仁美は人生の先輩が先走るのを止める。ジタバタと暴れる蜘蛛子に年相応の落ち着きはない。成程、こりゃ確かに見張りが必要だと、仁美は一気に疲れを覚えた。

 同時に、ふと疑問を抱く。

 見ても発狂しない。向こうから飛び掛かってくる事もない。離れて観察する分には、くねくねと揺れ動くだけ。

 ならばこのくねくね、一体何が危険なのだろうか?

 疑問を抱いた仁美はじっとくねくねを見つめる……と、一羽の鳥 ― 種類は分からないがスズメほどの大きさだ ― が、くねくねの肩に止まった。流石ド田舎、鳥など珍しくないようだ――――などと思っていた仁美の目の前で、くねくねが不意に今までとは違う動きを見せる。くねくねと揺れ動くだけだった身体を、大きく『く』の字に曲げたのだ。

 そしてくねくねの頭、らしき部分がぱっくりと花のように開くや、鳥を一呑みにした。

 くねくねは頭を閉じると、もっきゅもっきゅと咀嚼するように蠢く。しばらくすると、べっ、と鳥を吐き出した。鳥は田んぼに落ちてぽちゃんと水音を鳴らし、そのまま飛び上がる事はなかった。

 くねくねは何事もなく、再びくねくねと揺れ動き始め……仁美は猛烈な勢いで後退りしようとした。襟元を掴まれている蜘蛛子がその場で踏ん張ったので、叶わなかったが。代わりに仁美は蜘蛛子に詰め寄る。

「いいいいい今アイツ鳥食べましたか!? いや、吐き出しましたけどでもあれ食べ、食べ……!?」

「うむ、落ち着きたまえ。今のは極めて一般的なくねくねの食事だよ」

「な、なん、食事って……何を、したんですか、アイツ……!?」

「簡単に言うと、魂を食べている」

 困惑する仁美に、蜘蛛子は淡々と答える。が、その答えは仁美の心に安寧はもたらさない。

 魂? 科学が支配するこのご時世に何を言っているのだろうか。

 しかし妖怪が現実にいると知った今、それを頭ごなしに否定する気も起きない。それに生気を貪るスネコスリという例もあるのだ。魂も、もしかするとあるかも知れない。

 近くで蠢くくねくねを警戒しつつも、仁美は口を閉じて蜘蛛子の話に耳を傾ける。蜘蛛子は少しばかり楽しそうな口調で、先の話を続けた。

「正確に言うなら、物質的なものではないが生命維持に関係するもの、だな。既存の言葉でこれに該当するものが魂だったからそう呼んでいるが……そうした、形のないものを食べ、活動のエネルギーに利用しているらしい」

「そ、そう、なのですか……うう、あの鳥も可哀想に。偶々立ち寄ったものが、まさかあんな化け物だなんて……」

「ちなみにコイツの白色は鳥を引き寄せるための罠と思われる。小鳥がかなり寄ってくるんだ。あ、ちなみに触れると人間でも容赦なく襲われるぞ。私も二回ほど腕を齧られた」

「マジモンの危険生物じゃないですかヤダーっ!? というか齧られたって過去系!?」

「うむ。齧られてもこうして生きているぞ。腕だからダメージが少なくて済んだのかもな。もしかすると三十年ぐらい寿命が縮んでるかも知れんが、人間というのはスペック的に百二十年ぐらい生きられるようだし、限界値が九十になっても大した問題ではなかろう」

 本気で慄き震える仁美だったが、蜘蛛子は楽しげに笑うばかり。くねくねを見ている瞳に恐怖の色はなく、むしろ慈しむような眼差しを向けていた。

 そして恐怖で震える仁美の頭を優しく撫で、気持ちを落ち着かせようとする。

「まぁ、気持ちの良い妖怪とは思わないが、あまり嫌わないでやってくれ。見た目で獲物を誘う都合、田んぼや草原のような開けた環境が必要なんだが、開発でそうした土地はかなり減ってる。おまけにかなりの大食漢なようだから、鳥の生息数が多くないと生きられない筈だ。つまり現代では相当個体数を減らしていると思われる。絶滅危惧種というやつだな」

「いや、こんな化け物が身近にいる生活とか怖いですって……しかも人を襲うのなら、ちゃんと退治した方が良いと思うんですけど」

「……そうか」

 仁美が自分の意見を伝えると、蜘蛛子は少し悲しそうな目をした。何故そのような目をするのか分からず、仁美は首を傾げる。

「良し。そろそろ行くとしようか。長居をして、くねくねがこちらに襲い掛かってきても困るからね!」

 ただ、切り上げるように語る言葉は、如何にも元気が溢れているようで。

「……はい。そう、ですね」

 仁美はこくりと、頷く事しか出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る