問題編(3)
「――というわけで、こちらが名栗あざみくんのご両親の」
五反田川さんが手を向けた先には、髭を生やした男性とやつれた女性が深々としたソファに並んで座っていた。
「あざみの父の琥珀です。こちらは妻の」
「
あざみちゃんのお母さん――雀緑さんは手に持っていたレースのついたハンカチで目元を拭い、気丈に微笑んで見せた。
「梅さんのお話はよくあざみさんから聞いていましたの。とてもお世話になっていると」
「いえ、とてもそんな」
「こんなことにならなかったら、あざみさんと一緒にカフェにお伺いしようと思っていましたのに……」
うう、と雀緑さんは嗚咽を零し、「よりによって毒だなんて、かわいそうなあざみさん」と夫である琥珀氏の肩に顔を当てている。
琥珀氏は妻を片手で抱き、「それで五反田川さん、わたしたちに何のご用ですか」
「はい。娘さんを亡くされたばかりで傷心だと思いますが、改めて彼に昨夜のことをお話願いたいのです」
「あなたからわたしたちが話した内容をお伝えしては貰えませんか。見ての通り、妻もわたしもふかく傷ついております。ご存知の通りあざみは変わったところがあって親であるわたしたちでさえ遠ざけてしまいがちでしたが、今となってはもうすこし上手く接してやれなかったかと悔やんでいるのですよ」
「すみません、ですが」
「琥珀さん」
雀緑さんが瞳を潤ませて、夫を呼ぶ。
「お話しましょう。あざみさんもその方が喜んでくれますわ」
「だがお前」
「いいのです」
そう言って雀緑さんは夫の腕から離れると、こちらを向いて昨夜の出来事を話してくれた。
「昨日は息子の虎目の高校受験祝いに、とレストランを予約していました。あざみさんにも前もってそのことは伝えていたのですが、時間になってもなかなかあざみさんが現れなくて」
「あの子一人のために虎目の祝いの場を潰すわけにもいかない、とわたしが促したのです」
琥珀氏が妻の説明に補足する。
「たしか……、七時をすこし回った頃でしたね」
「ああ」
「私が最後に家中の戸締りをして、車に乗り込んだのが七時十分くらいだったと思います。そこからレストランに向かって着いたのが半過ぎ。レストランで一時間ほど食事をして、帰りにあざみさんにもとケーキを近くのパティスリーで購入して帰ったのですが」
その頃にはもうあざみちゃんは息絶えていた、という訳か。
時間にしておおよそ二時間。その間にあざみちゃんは殺害された。
「最初にあざみちゃんを発見したのはどなたですか?」
「息子の虎目です」
「虎目くんですか」
「ええ。夫は車を車庫に入れていましたし、私は家の鍵を開けて裏手の鍵を開けに行って、それから台所にケーキの箱を置きに行きましたので」
「次に見つけたのはわたしですな」
「見つけた?」
「ええ、何故か息子はあれの死体を発見したのに、誰も呼びに行かなかったのです」
「あなた、虎目も驚いていたんですよ」
「……妻はこう言っていますが、警察の方には息子はどういっていましたか」
急に話をふられたものの、五反田川さんは凛として応える。
「”ここでぼくが慌てて父や母を呼びに行って、もし犯人がその場にいたら場を荒らすかもしれない。だからその場で見張っていた”、と」
「賢い子ですよ。わたしなんぞは年甲斐もなくうろたえてしまいましたからね」
「そういうものです、名栗さん」
「はは……、警察の方にそう言って貰えると救われますよ」
そう語る琥珀氏の膝に置かれた手はすこし震えていた。
「わたしはすぐに警察に電話をしました。犯人がまだ家の中にいる可能性もありましたからね。で、電話をしている際に妻が戻って来たというわけです」
「ほんとうに心臓が止まるかと思いました。警察の方が来るまで虎目が付き添っていてくれたのですけど、どうしてあざみさんがあんな可哀想な目にあわなければいけなかったのかと考えると……」
つまり昨夜、最初にあざみちゃんの遺体を発見したのは、弟である虎目くん。そして父親の琥珀氏。最後に雀緑さんというわけか。
「みなさんが家に戻られた時、いつもと違うところはありませんでしたか?」
「わたしは何も、お前は鍵を開けに行った時なにか見たかい?」
「いいえ、何も。外出する前とほとんど同じようでしたわ」
「そう、ですか……」
「ですが、警察の方が」
と雀緑さんのか細い声が続く。その目は五反田川さんを捉えていた。俺がそちらを見ると、五反田川さんは顔を曇らせて頷いた。
「実はあざみくんの部屋から遺書が見つかったんだ」
「……、遺書ですか?」
自分でも笑えるほど、裏返った声が出た。
「そう。それも何十枚という数のね」
あざみちゃんの両親はそれぞれ険しい表情と悲しそうな表情を作る。が、俺はおかしな話だと思った。
その理由は、数々の事件で彼女と交流したことから得た経験値のようなものだ。
まずもって、遺書を活かすとしても彼女が実家で自殺をすること自体が妙な話なのだ。そもそもそれが出来るなら、これまで外に出て殺人犯に殺して貰えるのを待つ必要がない。
つまり家で死ぬこと自体が、彼女のこれまでの涙ぐましい努力を無に帰す行動でしかなかった。
しかし一番意外だったのは、遺書の存在だ。
何故だ。何故、遺書があるんだ。それも何十枚も。顔の横頬をたらりと一筋の汗が伝う。
「五反田川さん、あざみさんは自殺だったんでしょうか?」
雀緑さんが声を震わせて尋ねる。
「いま現在では分かりません。目下遺書の内容に加えて、家の周辺に怪しい人物がいなかったかどうか確認中ですので」
「ああ……、こんなことだったら例え予約時間に遅れてもあの子を待つんでした。そうしたら少なくとも、あざみさんは昨日死なずに済んだかもしれないのに」
はらはらと涙を流し、ハンカチを濡らす健気な母親は俺をひたと見つめられ、背筋がぞくりとした。俺が勝手に怯える間に雀緑さんはか細い手で俺の手を取った。
「こんなことを今、お願いするべきじゃないかもしれませんが……。梅さん、私に今度ぜひお料理を教えて頂けませんか」
「料理、ですか」
「ええそうです。あざみさんはあなたが作るお料理が好きだったようでした。特に――そう、サンドイッチが絶品だと。ですからね、あの子の墓前に供えてあげたいと思って」
ああ、と俺は頷く。針つけ島の時に、あざみちゃんは堪えるように食事を断っていた。
後々聞くと、体力を減らして弱っていた方が狙って貰いやすいかもしれないという話で、俺はやりきれない気持ちになったのだけども。
まあそのことを知る前に、俺はあざみちゃんにサンドイッチを振る舞った。
嫌いなものはあるかと尋ねたところ、トマトの水っぽいところだというので、その部分を取り除いて残った部分とシーチキンと玉ねぎを和え、レタスと挟んだサンドイッチだ。
「分かりました。時間を見つけてご連絡致しますね」
「ありがとう。あざみさんは何でも食べてくれていたけれど、やはり好きなものを置いてあげた方が喜んでくれると思うから」
そういう雀緑さんの言葉に俺は違和感を覚えた。
あざみちゃんが何でも食べる? あの偏食家が?
きちんと下処理をすれば確かに食べてはくれるが、それでも恐る恐るといった風だ。しかもどうしても食べられないもの、というよりも、部分部分が苦手で食べたくないといった食材が多く、振る舞うにも考えて調理しなければいけなかったあの子が?
俺は悩んで、あざみちゃんの母親へある質問をすることにした。
「そういえば……、あざみちゃんはトマトが好きでしたよね?」
雀緑さんは目を丸くしたかと思うと、にこりと微笑んだ。
「ええ、とても。美味しい美味しいと言って食べていらしたわ」
怖気がした。ひどいものを見たような。母親なのに知らないのか、この人はあざみちゃんの偏食を。
俺は無理矢理に口角を上げ、「そうですか、変なことを聞いてすみません」と謝る。
「気になさらないで。それにしてもお料理が上手だなんて羨ましいわ。もともとお料理がお好きだったのかしら?」
「いえ、うちは母子家庭で。母親が毎日妹のために弁当を作っていたのを見て、すこしでも母親の負担を減らしせたら、と思って気付いたらこうなっていました」
「まあまあ、親孝行ねえ」
会話が一区切りしたところを見計らって、五反田川さんに視線を送る。
「辛いところをお話頂いて、ありがとうございます」
「五反田川さん」
琥珀氏がソファから身を乗り出し、頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「お任せください」
俺たちが部屋から出るまで琥珀氏は頭を下げたままだった。そんな夫の隣で雀緑さんは悔し気にハンカチを握りしめていた。
・
・
「よう」
名栗邸の外に出ると、五十鈴河さんがロリポップキャンディを片手にパトカーのフレームに腰かけていた。その隣では法螺貝さんが「早く降りてよぉ」と弱弱しく抗議している。
「そんなに逮捕されたいのか、鈴」
「えぇ~、出来るのぉ~? 朱喜子ちゃんなんだかんだで身内に甘いからなぁ」
二人はお互いにヤンキーのメンチ切りさながらに視線を送りあっている。
「お前とはとうの昔に離縁済みだからな」
「復縁しよう?」
「拒否だ、拒否!」
きゃんきゃんと吠え合う二人に、「人の家の前で喧嘩しないでください」と俺は至極まっとうな言葉を吐いた。二人は息ぴったりに俺を見ると、しぶしぶといった具合にあっちの方向を向いた。
現役自体はこれが毎日のように行われていたのかと思うと、関係各所の人たちはさぞ大変だったろうな。
大げさに肩を下ろして、所長に顔を向ける。
「所長、飴なんか食べていますけど今まで何をしていたんですか」
「聞き込みだよ、聞き込み。捜査のいろはのいだろ」
所長はがりがりとキャンディの表面をハムスターのように齧り、「で、どう思う?」といきなり直球な問いかけを投げてきた。
「どう、とは?」
「どう、はどうだよ。お前は誰が怪しいと思う?」
俺は口をへの字にして、「手持ちの情報だけでは答えを出すには足りませんよ」と返す。
「そぉ?」
「分かったんですか、所長には」
「少しな」
言いつつ、所長は上半分が削げたロリポップキャンディーの棒を上下に揺らす。
「まず名栗あざみは自殺じゃないよ」
明朗と言われたそれに俺は眉を寄せる。
「それは俺もそう思いますけど」
「だろうな、まああの子の性分的に言ってもそれは間違いない。ただどうしてあんなにたくさんの遺書が出て来たのか、それは今の時点じゃよくわからん」
「――失敬、割り込んでも?」
五反田川さんが挙手する。
「はーい、朱喜子ちゃんどうぞー」
「……」
「ごめんて」
「ハァ……、遺書の件だが、どうも書いた年代が違うようだ」
「年代が違う、ってつまり同じ日にいっぺんに書いたとかそういう訳じゃないと?」
「そう、何年周期かはまだ分からないが、ひらがなだらけだったり、字が幼いままのものもある」
ということはあざみちゃんはだいぶ前から遺書を書き溜めていて、書いた本人が願っていたのかどうか分からないタイミングで遺書としての役目を果たしてしまったのか。
「じゃあ遺書の件はいっぺん終わりね。今度は家族。第一発見者の……、虎目くんか」
「そうですよ」
「うん、あの子には犯行は無理だろうな」
「どうしてですか?」
「最初の発見者だからさ。あんな凝った舞台を父親が車庫から居間に来るまでの時間内にこしらえるのは、圧倒的に時間が足りないだろ。最初からプラモデルのパーツみたいに部分部分で用意していたならまだ分かるけど、あの料理じゃそういうわけにもいかなさそうだしな」
あの料理じゃ? どういう意味だ。ごくりと唾を飲む。
ぱくり、とキャンディを口に咥える所長の隣で五反田川さんが額を抑える。
「……、鈴。どうしてきちんと伝えてあげないんだ」
所長は真顔で「どこを?」と五反田川さんに聞いている。
「いい、代わりに私が説明しよう。いいか梅くん。あれはスーパーで売ってあるような惣菜に毒をふりかけた、とかそういうものじゃないんだ」
「じゃあわざわざ一から作ったっていうんですか?」
「そう、あれは正真正銘手製の毒料理なんだよ」
俺は並べられた料理を思い出し、考え込む。
「どういう風に作ったかにもよりますけど、あの内容だと時間結構かかるんじゃないでしょうか。それにもともと毒が入っていたとなると、味見なんて出来ませんし」
「それなんだよなー」
「それ? どれです?」
「味見が出来ないってところだよ。どれくらい毒が入っていたかにもよるだろうけど、あの子けっこう料理を食べているんだ」
俺は驚く。
「あの料理をですか」
「そうだよ、ふつう気付いたら吐き出して食べるのを止めるだろ。なのになんでかなあ、一生懸命食べちゃってるんだよあの子はさ」
そういえば皿の上に残っていた料理は少量だった。……何で食べたんだろう。
「話を戻すがいいかな?」
五反田川さんが仕切る。
「犯行が可能という点では、一番怪しいのは誰になるんだ?」
「そりゃ、奥さんでしょ」
「やっぱりか」
軽い回答を深刻そうに五反田川さんは受け止める。
「それにさっき法螺ちゃんとコンビニ行った時に、近所の奥様たちから耳寄りな話を聞いたんだよ。ね」
所長は法螺貝さんにウィンクを飛ばす。法螺貝さんは困ったなあという顔をしていたが、上司である五反田川さんが話してくれと言うので、もごもごとしながら口を開けた。
「実はねえ、昔から近所じゃ被害者の子が奥さんとまったく似ていないってよく言われていたらしくてさあ。それで旦那さんがよそでつくってきた子なんじゃないかって」
「ということはなにか、あざみくんは愛人の子どもだったと?」
「それがそういう話でもないんだよこれが」
所長は小難しい顔をして、法螺貝さんの話の続きをする。
「噂話大好きな奥さんがたの話だと、何年か前までこの家に陰のあるすんごい美人の家政婦がいたらしいのよ。で、その人がいた頃はまだ今の奥さんと婚約中で、正式に結婚はしていなかった時みたいなのね」
「……、なるほど。つまり琥珀氏には婚約を破断にして、そちらの女性との結婚を選ぶことも出来た訳か」
「朱喜子ちゃん、大当たりぃ」
「でもそうはなってないですよね?」
俺が口にすると、「そら大人の事情よ」と所長にそっけなく返される。五反田川さんと法螺貝さんはしたり顔でまずい顔をしている。
「どういうことですか?」
「梅くん、こういうのはよくあることなんだ」
そう五反田川さんに前置かれても、俺はまったく意味が分からない。
「梅、この家どう思う?」
「どう、って……、大きい家だなとは思いますけど」
「そうだろ? つまりそういうことなんだ」
俺は片方の眉間に皺を寄せる。
「チェリーなお前に分かりやすく説明すると、だ。ここの家の旦那さんは振る袖がない女より、支度金をたんまり運んで来た女の方を選んだんだよ」
「そんな」
「そんなもかかしもねえよ。何でも地固めはしておいて悪いこたねえだろ」
「だって子どもまで出来ていたんですよ」
なおも食らいつく俺に所長は冷淡に言い放った。
「よくある話だよ」
すっかり言葉を失う俺に、「ただなんであの子はここにいるんだろうな」と所長は首を傾げる。
「私もそれが気になっていたが、夫婦の間でなにかしら約束事が結ばれていると見るべきだろうか?」
「かもねえ。というか結ばれていなきゃ、あの神経質そうな奥さんやそのバックがはいって納得するわきゃないだろうし」
淡々と交わされる会話を聞きながら、「でも約束が結ばれているなら、奥さんが犯人の候補にならないんじゃ」と俺は呟く。
「いやこれもまたよくある話だよ、梅くん」
「そうなんですか?」
「ああ、たしかに奥さんは結婚をしている。が、出生の順番としてあざみくんは第一子という立ち位置だ。今後、遺産の件であれこれ揉めることは想像に難くない。奥さんからすればあざみくんは目の上のたん瘤だろう」
「おまけに近所の人間から見ても似ている、って言われるほどだしな。どうしたかは知らないけど、鞍替えされる心配が毎日のようにあった可能性だってある」
そう言われると、奥さんの可能性が高い気はしてくるけれど、決定打にはならない。
「けど、けどですよ。ほんとうに奥さんが犯人ならどうして昨日だったんですか?」
「そこだな、……何故昨日だったのか」
静まる場に、パキッと飴玉が割れる音が小さく響く。そちらを見ると所長の口からぽろぽろとキャンディの破片が零れ落ちて行くところだった。
「合格祝い」
「そうか、昨日は虎目くんの高校受験合格祝だったな」
「たしかに機会としては申し分ありませんね」
五反田川さんと一緒に俺は頷くも、凝った料理の数々を思い出し、「だけど待って下さい」と俺はストップをかける。
「もしも奥さんが犯人なら、どうやってあの料理を作ったんでしょう?」
「それもそうだな……、お世辞にもあの奥様は料理が出来るとは言えないし」
「俺もそこが引っかかっていて。毒は食材に混じられていた、訳ですから」
「けど家政婦の人がいなくなってから、家事をする人がいなかった訳だし、そこそこは出来るんじゃない?」
「まあ、その辺は調査が必要だな……。よし、今日はこの辺で一度締めよう」
言って法螺貝さんたちに指示を出す五反田川さんへ近付き、「あの五反田川さん、一つだけお願いがあるんですけど」と切り出した。
「お願い、なんだろう?」
「もう一度、居間の現場を見ることは出来ますか?」
「ああそれなら別に構わないが、さっきも注意した通り触るのは止めて欲しい」
「分かりました」
「鈴、お前はどうする?」
「あたし?」
所長はすこし考え込み、にっこりと笑う。
「朱喜子ちゃん、お茶しない?」
軽いそれに俺はまた怒られるんじゃないだろうかとひやひやしていると、「ああ分かった」と五反田川さんは存外軽く受け入れた。
「梅くん、あざみくんのご両親には私から話をしておくから行っていいぞ」
「ありがとうございます」
その場を去ろうとする俺に、「梅」と所長に呼び止められる。
「なんですか?」
「お前、お前さ。まだ探偵の助手を続ける気ある?」
問われ、俺は答える。
「ありますよ。少なくともあざみちゃんが誰に殺されたのかはっきり分からないと、辞めろって言われたって辞めませんよ」
「そっか……、悪いな引きとめて。しっかり調べて来いよ」
ひらりと手を振り、所長は足早に去って行く。
俺はそんな所長の背中が見えなくなるまで、その場を離れなかった。
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