問題編(2)
あざみちゃんがその強運を発揮することになった最初の事件は、あの
それは幼稚園で起こった。犠牲者となったのはこの幼稚園に通う園児約四十数名と職員たちだ。犯人は長年幼稚園で給食調理員として勤めていた女性で、警察の捜査から彼女が事件の前に結婚の約束をしていた男性からひどい振られ方をし、またその男性との間に出来たと思われる赤ん坊も流産してしまっていたことが分かった。
それが直接的な理由かどうかは不明だ。なにせ彼女は遺書を残さなかった。だが、どん底であったことには違いない。誰かを殺す、という選択が出るくらいだ。
犯行時刻はちょうど園児たちのお腹が減ったお昼の給食時間に行われた。
驚いたことに、毒はすべてのメニューに入れられており、生きて帰さないという底のない殺意が窺える。
犯人の目論見はほぼ成功した。
子どもたちはおろか大人たちも疑うことなく、いつもと同じ美味しい給食を口にし、――そして違和感を気付いた時には毒が体を蝕み始めていた。
誰もその魔の手から逃れることは出来ず、息を絶えて行く中でただひとり――あざみちゃんは生還した。
何故か、理由は簡単だ。あざみちゃんは給食を食べていなかったのだ。
彼女はひとりだけ手製のお弁当を食べることで、みんなが血を吐いて倒れて行く地獄に足を踏み入れずに済んだ。
これが彼女の最初の強運の顛末だ。
まあ、俺もあざみちゃんが天神橋毒殺事件の生き残りだと知ったのは針つけ島から帰る時だった。
というのも当時事件でひとり生き残った子については、年齢が年齢であったしストレスを感じ日常生活に支障を来すとの判断から管制が敷かれたのだ。
あの事件の生き残りであるあざみちゃんに出会えたことに感謝をしつつ、俺は彼女の機嫌を損ねないように配慮しながらいくつか質問をした。
みんなが倒れた時、あざみちゃんは何をしていたのか。
――先生もみんなもわたしをびっくりさせようとしているのかと思った。でもそんな雰囲気じゃない、って分かった後はいつ犯人がここに来るか気が気じゃなくて、机の下に入って震えていた。
その後は?
――誰も来ないから慌てて園の外に出て、助けを呼びに行った。最初はうそをついているんじゃないか、って思われたみたいで、なかなか信じて貰えなくて。
きみはいつもお弁当を?
――……、ううん、あの日だけ。私は好き嫌いが多かったから、いっそ給食からお弁当に切り替えてもいいかもね、ってお母さんが試す意味で作って持たせてくれたの。
ともあれ天神橋毒殺事件があざみちゃんの人生の転換点となったかは不明だけど、彼女はその後気の向くままあちらこちらに出かけるようになったらしい。理由は針つけ島の帰りに彼女が漏らしていたそれだろう。
あざみちゃんはまだ見ぬ殺人犯のななしのごんべえと出会うためにふらりと旅をし、毎回適当に選んだ場所には必ず殺人犯が同席している。
そこまでは彼女の願い通りだと思うけど、その後は違う。
事件。生還。事件。生還。事件。生還。この繰り返しだ。
皮肉でしかないけど、彼女は殺人犯に嫌われている。そうこうする間にあざみちゃんが遭遇した事件数は片手では数えられず、事件からの生還率は年々上がる一方だった。
そんな彼女がまさか自宅で死ぬなんてな。
カフェのバイトが終わり、五十鈴河所長が送付してくれていたメールにあるあざみちゃんの自宅であり、事件現場に足を向けるとすでにパトカーが何台か停まっていた。
それもそうだよな。頷いていると、「あれぇ、梅くんじゃない」ととぼけた声が届く。
振り返ると、冗談みたいに大きな丸眼鏡をかけた青い制服のおじさんが立っている。鑑識の法螺貝さんだった。
「こんにちは」
小さく頭を下げてお辞儀をすると、「なぁに、また鈴ちゃんにこきつかわれてるのお」とぺちぺちと肩を叩かれた。
「はは……、まあそんなところです」
「そっちも大変だねえ。こっちも朱喜子ちゃんがこれ、でさ」
法螺貝さんは頭の両端に人差し指を立てて、「鬼」の角を作る。
「お冠ですか」
「お冠もお冠。プライド高いのに、鈴ちゃん呼ばないといけないから余計にねえ」
気を付けるんだよぉという法螺貝さんの目を見ると、本気の目だった。こくこくと何度も首を縦に振ると、「よしよし、鈴ちゃんと朱喜子ちゃんは玄関入ってすこし進んだところにいると思うから頑張って」
じゃあねえ、とそそくさと立ち去る法螺貝さんの背を見送り、言われた通りにあざみちゃんの家に正門から入る。門の周りにはいろんな種類の植物が植えられ、そこかしこに緑が溢れている。
タイル張りの道を渡ると、雪のように白い外壁の大きな家が視界に入った。
ふうと溜め息をついて、玄関のインターフォンを鳴らす。と、何故か玄関の扉が開いた。出て来たのは、上下ともに真っ黒な学生服を着た茶髪の男の子で、片方の耳に何個も個性的な形をしたピアスがついている。
彼のちぐはぐな恰好にぽかんとしていると、「梅さん?」と先手を取られた。
「あ、はい」
「探偵の女のひと……じゃなかった、五十鈴河さんならそこで警察のひとと一緒に待ってますよ」
「あぁ、どうも」
男の子は体を横にして、部屋の方に手を向ける。先にどうぞ、ということだろうか。
「ありがとう」と返し、先に行こうとして立ち止まる。
「どうして俺の名前を?」
男の子は品のいい革靴を履いた足をぴたりと止めた。
「五十鈴河さんがなかなかあなたが来ないので、まだかまだかって仰っていましたから」
「なんていうか……、うちの上司がご迷惑をかけてすみません」
「いいえ、それにあなたの名前は姉さんから何度か聞いていたので」
ねえさん。頭の中でその単語が反芻される。
「きみは」
「申し遅れました。虎の目と書いて
「あざみちゃんの」
言いつつ、俺は虎目と名乗った彼の顔と死んだあざみちゃんの顔を思い起こして似ていないと思う。姉弟だからといって必ず似ると限った訳じゃないけれど、そうでなくてもこの二人は似ていなかった。
「似てないな、って思いました?」
見えない手に心臓を掴まれたような心地がした。
虎目くんはふっと微笑むと、「ぼくは事情聴取が終わったので、図書館とコンビニへ行って来ます。一時間後くらいには帰ると思いますので」
「待って」、と声をかける暇もなく、虎目くんはすたこらと家から出て行った。
俺はその場に呆然と立ち尽くした。あざみちゃんに弟がいたなんて聞いていない。いや、いいじゃないか。別にあの子に弟がいたって、いなくたって。関係ない。関係ないんだ。
思考が勝手にぐるぐると回り、酔いそうだ。
「梅」
犬でも呼ぶような感覚で、女性の声がかかる。
いつの間にか背後にベリーショートの前髪のひとふさを赤くし、レザースーツを華麗に着こなした女性が立っていた。
「五十鈴河所長」
「そこでなに油売ってるんだよ、お前は」
所長は片頬をぷうと膨らませている。今年で三十幾つだと話していたと思うけれど、こういった一つ一つの所作がどことなく小さな子どもじみている人だった。
「いや、あのちょっと色々ありまして」
「あっそ。早くお前もこっち来い。朱喜子ちゃんめっちゃイラついてて、相手するのに疲れてきたところなんだよ」
「イラついてて、って所長なにしたんですか」
「あたしのせいじゃねーって。たぶん女の子の日なんだろ」
「所長、それデリケートな話なんでもう少し声を抑えて下さい」
「ほんとうよ」
カッ、とヒールが床を叩く音を小気味よく鳴らして、目の前に肩下まで伸びた髪の毛を緩く巻き、頭の後ろで団子にしてまとめた白いスカートスーツの女性が現れる。
「
「やあ、梅くん」
「ぷぷー、やあ梅くんだって。朱喜子ちゃんかっこつけすぎじゃない?」
くわ、と五反田川さんは目を見開き、元相棒である五十鈴河所長を睨んだ。もともと目力があるせいか、すごみが増して傍目に見ても怖いのだが、所長は慣れているのかあまり効いていない様子だった。
五反田川さんはこめかみに手を当てつつ、「すまいないな、私ひとりだけではアイツの世話は辛くて」という。
「心中お察しいたします」
「ありがとう。では、こちらに来てもらえるかな」
「はい」と五反田川さんについて行こうとすると、服の袖が引っ張られた。
服を引っ張ったのは所長だ。
「どうしたんですか、所長?」
「……、冷静に行けよ」
「そんなにひどいんですか、遺体」
珍しく顔を顰める所長の表情に俺は真顔になる。
「いいや、そうじゃない。そうじゃないが……」
「煮え切らないですね」
「見たら分かるさ。だから最初に言っておこうと思ったんだ。”
「はあ……」
言うことは済んだのか、名栗邸を我が物顔で突き進む所長の後を追う。
光源がいくつも並べられた廊下を進んで行くと、ダンスホールのような広さがある居間に出た。
最初に目に飛び込んできたのは、真ん中にある長い階段でどうもそこから二階へ移動出来るらしい。そこから頭上に視線を向けると、丸い硝子がはめられた天井から柔らかい自然の光が落ちるように注がれている。
その先にあったのはこの居間にそぐわないものだ。
脚のついた小さな丸机に、手すりのない濃い緑色の椅子、そして机に並べられた食事の数々。
「ここが現場だ」
「ここが、ですか」
「ああ、状況も説明しておこう。昨夜は家族の人たちはあざみくんの弟――虎目くんの高校受験合格祝いにレストランへ行っていたそうで、家には他に誰もいなかったらしい。ところが午後九時過ぎに帰って来ると、あざみくんがフォークとナイフを持ったまま絶命している姿を発見。大慌てで、警察に通報と……まあこういう流れだ」
「なるほど……、あれでもどうしてあざみちゃんはレストランに一緒に行かなかったんでしょう?」
「約束の時間になっても来なかったから、らしいぞ」
五十鈴河さんがヤンキー座りでそう下から答える。
「予約時間ギリギリまで待っていたらしいが、あの子は来なかった。それで父親の方が放って置け、とレストランへ三人だけで行ったって話だ」
「ただな、この話には妙な点がある」
「妙な点?」
五反田川さんは口紅を引いた唇を歪め、「レストランにアリバイ確認を入れたが、予約はもともと家族三人分だけでしか入っていないらしいんだ」
「三人分だけ、ですか」
「あからさまだよなあ」
にやにやと五十鈴河さんは笑う。その隣で五反田川さんは顔を渋めていた。
「あからさまって、どういう意味ですか」
「どうもこうもそうだろ。最初から祝いの場にあの子はお呼びじゃなかったのさ。下手すると、約束の時間ってのも教えて貰えてなかった可能性が高い。ハブだよ、ハブ」
「そんな。あざみちゃんが何をしたっていうんですか」
「あれこれしているじゃないか。殺人現場から何度も生還して、その度に新聞に名前が乗って、世間じゃあの子は疫病神のあだ名で通っているんだぞ」
「……、ひどいですよ」
「梅くんの言い分は分かる。だけどな」
「往々にしてそんなものだよ」
元コンビだった二人は息ぴったりにそう言った。諭すように、宥めるように。
「あざみちゃんはどうして死んだんですか」
五反田川さんは「毒だ」と短くいった。その単語に俺の眉がぴくりと動く。
「毒?」
「そう、毒」
隣にいた五十鈴河さんがすくりと立ち上がり、「朱喜子ちゃん、あそこをよく見させてやってくれないかな」といった。五反田川さんは元相棒の言葉にはあと溜め息を零して、「梅くん、くれぐれも触らないように」と許可を出してくれた。
頭の上に疑問符を飛ばす俺に、五十鈴河さんは顎で現場に行け、と指示した。
釈然としないながらも、あざみちゃんが息を絶えたという机に近付くと、食べかけの料理がすこしだけ残っていた。
かぴかぴになったごはん。照り焼きソースのかかったハンバーグ。ほうれん草とコーンとマカロニの和え物。星型のポテトフライ。人参のグラッセ。さくらんぼが乗ったプリン。
そこにある料理に俺は目を剥いた。そう、ここにある料理には見覚えがあった。食べたことがないとか、見たことがない料理とかそういう意味じゃなく。
俺はこのフルコースが意味するものを知っている。
「五反田川さん、これ毒が入っていたんですよね」
「ああ」
俺は確信を掴みながら所長を恨めし気に見る。
「所長、どうして俺を呼んだんですか」
「見届けなきゃいけないと思ったからさ」
「見届ける? あざみちゃんが死んだことを確認して、俺がすっきりしたというとでも思ったんですか」
「いんや」
五十鈴河さんは俺にちらを視線をやり、悲しそうな顔を浮かべる。
「ただあたしはお前をここに呼ぶべきだと、そう思ったんだよ。いつものヤマ勘で悪いけどな」
「……、あざみちゃんには悪いけど不愉快ですよこんなの」
自分で思った以上に、言葉はとげとげしくなった。
五十鈴河さんはくるりと体を翻し、「わーったよ。あたしは法螺貝と話し込んでくるから、朱喜子ちゃん後頼むわ」とひらひらと手を振って居間を出て行く。
歯を食いしばって五十鈴河さんの背中を見つめていると、「すまないな」と五反田川さんが申し訳なさそうに呟いた。
「いつもああなんだ、鈴は」
「知ってます。もう長い付きあいですから」
「そうだな……、針つけ島事件からだからそうなるな」
「あの、五反田川さん」
「ん、なんだ?」
「図々しいお願いなんですが、あざみちゃんのご家族の方からの証言をお伺い出来ないでしょうか?」
「……、いいのかい?」
「俺だって探偵の弟子の端くれですから。それに事件が解決しなかったらあざみちゃんが浮かばれません」
「そう、だな……。よし、あざみくんのご両親は二階で休んでいらっしゃるから行こう」
「はい」
五反田川さんの案内に従って、俺は名栗邸の二階に向かう。小さく拳を握りしめながら。
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