第10話 桐崎と
ねじり鉢巻にゴム製のエプロンの様な前当てをつけ手には柳刃包丁を持った大柄な男が息を切らしながら夜のアメ横を遁走する。
自分を追いかけながら何かを叫ぶ男女二人から。
このアメヤ横丁と言う商店街、東京は上野と御徒町の間に位置する商店街である。
400もの店舗がひしめき合い、その全長も500メートルと中々の規模なのだが、販売店舗それも問屋がそのほぼ全てを占める為に案外と夜は早い。
いくつかの飲み屋があるものの上野駅と御徒町駅両方に出やすいその立地の為に終電を越えた頃には昼間の賑わいさえも電車に乗って帰ってしまったのかと思う程に静まり返る。
これはカミナと星谷が付き合い始めて少し経った頃の話。
『アメ横の開き身ジャック』
テレビでその異称を見ない日はない。
上野のアメ横を震撼させた猟奇殺人者。
被害者は泥酔した状態でアメ横の路上で寝ていたものとみられる女性ばかりで、朝になると人目のつきやすい道の真ん中でまるで活き造りの様にされているのだ。
あらゆる肉が刺身にされ部位ごとに盛り付けられ、綺麗な髪はつまのように、丁寧に。
被害者が三人を越えた頃から付いたあだ名が
『アメ横の開き身ジャック』
星谷の部活が終わるまでマキナは図書室で時間を潰していた。
図書室の窓からサッカー部の練習を見ていると、伊達が星谷と奪い合いをしている瞬間だった。以前までの伊達であれば易々と星谷にボールを奪われ、焦って追いかけるも星谷のドリブルスピードに追いつく事もなく失点を許していたところだが、もう違った。
伊達は右足で外側から内側にボールに触れる事なくその横を高速で跨いだ。
星谷は一瞬その動きに反応しかけたがとっさに後ろに下がる。
これはフェイント、この後の走り出しを叩くためである。するとボールを持たない伊達が伊達の横を通り過ぎる。
「マジか!」
星谷が焦って頭上に目を向ける。雲一つない夏の青空にあるはずのものがなかった。
さっきまでさんさんと輝いていた太陽は丸い何かがちょうどすっぽりと隠してしまっていたのだ。
「ヒールリフト!」
さっきのフェイントはそれを隠すためのいわばフェイントのフェイント。
高速で跨いだ様に見えたそれは実のところ、その足の動きを途中で切り替えていた。
両足で一度挟み、踵で蹴り上げたボールが自分の背中から相手の頭上を越しそのままに相手を抜き去るヒールリフトに。
図書室からその様子を見ていたマキナは星谷に自慢気な目線を向ける。
「伊達ヤバいんだけど、何あれ」
下校時、少しイライラとした口調で星谷がマキナに文句を言っていた。
「あら、素敵だったじゃない伊達くん。それに比べて星谷くんのカッコ悪い事」
その大きな目を細め、意地悪にクスクスと笑うときにもマキナは口を隠す事を忘れない。
「だってマキナに伊達任せてからまだ一週間位だぜ?俺が言うのもなんだけど、なんで完治してんのさ。それに何なら前より元気になってるし」
紺色の制服に誇り一つついていないマキナとは対照的に泥まみれの星谷がぼやく。
「伊達君のご家族にも説明した通りよ。下校中に不慮の事故にあった彼はたまたま通りがかった私に発見され。私の家の専属医師に治療された。それだけ」
このマキナの説明を受けた伊達の母親は電話越しに涙ながらに感謝した。
治療には一週間ほどかかるがどうか一任してほしい、彼は治療に専念する必要がある為面会も控えていただきたい。と言うマキナの一方的な言い分にも。
許す、許さないどころか何かお礼をと申し出るほどだった。
「凄いんだな、マキナん家の医者。俺もなんかあったら頼もうかな」
なんだかんだ言って、親友が生き返ってくれた事。
それどころか、むしろ前よりも元気になってくれた事を星谷は心の底から喜んでいた。
「うちの技師は優秀なの」
「技師?医師だろ?マキナも噛んだりすんのか!」
珍しいマキナの言い間違いを不思議に思った星谷は、それを指摘されたマキナの顔がこの世のものとは思えないほど面倒臭そうなのに気付きそれ以上の追求をやめた。
「ねえ、星谷君。『アメ横の開き身ジャック』って知ってる?」
突然話題を変えたところを見るに、本当に面倒だったのだと察した星谷は少し大げさに食いついてみせた。
「もちろん!ってかテレビからその名前出るたんびに俺ちょっとビクってすんだよね」
さっきまでこの世の終わりの様に面倒そうな表情を浮かべていたマキナがいつのまにか妖しい笑顔に変わっている。
星谷が転校してきたあの日に見せた様なそれに。
「私もそうされるのかしら。この私を以ってしてもやっぱり彼は私を許さずに開きにしてしまうのかしら?ねえ星谷君はどう思う?」
「…マキナは『悪者』をナメてるよね」
そう応える星谷の冷めた表情は彼女にしても少し意外なものだった。
「あら、そんな事ないわよ。現に星谷君だって目撃者の私を許しているじゃない」
「それは違うよ。俺はマキナを許す許さない以上にマキナが好きなだけ。転校初日の嘲笑も、あの時キスを拒否されたのも、俺を許したその理由も。嘘みたいに完成されたその見た目も好きなだけ」
マキナの頬が少し赤くなった気がしたのはあの日の様に沈みかけた夕日がいつもより赤みがかったものだったからだろう。
「良い?『悪者』っていうのはね。分かってるのに止められない人の事なんだ。人を食う熊も、鮫も『悪者』じゃない。それが悪い事って思ってないからね。本当はそんな事をやっちゃいけないって分かってるのにやる。やらずにはいられない。だからやった後に何様のつもりか反省するし後悔する。なのに、またやる。そんな人が一番して欲しい事って何だと思う?」
「…盲信?例えば被害者自らが立候補してくれる様な」
「いいや、違う。『許して欲しい』それだけ。今までの悪事を許して欲しいんだ。そしてこれからも繰り返してしまうであろう悪事も許して欲しい。そんな奴が好きでもない人の事許す余裕あると思う?」
マキナの安全を思っての星谷の必死なプレゼンに間髪入れず、マキナが切り出す。
「それが知りたいから試すのよ」
星谷は少し考え、微笑む。
「あー、もう…いやそうだね、試してみよう。ちょうど俺もその人で試したいことがある」
アメ横の中に店を構える猫山水産の店主、桐崎は店を閉める前に丹念に柳刃包丁を研ぐ様にしていた。
誰が見ても明日の準備のそれは実は明日ではなくその日の夜の為だと気づく者がいるだろうか。
その日は週初めと言う事もあり、また開き見ジャックのお陰もあって終電の時間を過ぎると尚の事アメ横は静まり返っていた。
もしも、それでも幸運な事に泥酔した女性が居れば。
そう考えながら桐崎が歩き回っていると、居た。
桐崎はこのアメ横という場所をそれなりに愛していたし、あれこれ入り混じり成立するこの街は一つの文化と呼んでも良いと思うくらいには尊敬していた。
それでもその女性を見た瞬間、自分の立つその場所がとんでもない掃き溜めなのだと。
評価に胡座あぐらをかいた荒廃地なのだと感じざるを得なかった。
まるで今上がったばかりの黒鯛の様に深く、潤んだ黒髪に少し紫がかった瞳。
お酒のせいか少し赤みがかった、それでいて透き通る様に白い肌は剥いたばかりのカワハギのそれだ。
そして何より、その髪。
光刺さない深い深い海を、未だ目にしたことのないその地球の深部を纏った様な髪。
彼女がその場に横たわるだけで周りの全てが不足に感じる。
そもそも桐崎が魚を捌く事にほとほと嫌気がさした理由の最も大きなところは、魚に髪が無い。
これに尽きる。
桐崎が思うに、ツマと呼ばれる大根を細切りにしたそれは代替物にすぎず、捌かれる前からそうであったのに、余計につるつるになってしまった魚を哀れに思った者がせめてもの罪滅ぼしに供えたものにすぎないのだ。
本来であればそこには魚の毛髪を携えるべきなのだが、残念な事に魚にそれはない。
代わりに鱗はあるものの人が食べるのには少し固すぎる。
綺麗に捌かれたその身は余りにも生前の魚を無視しており生き物を食べていると言うその背徳を、食べる側なのだと言うその安心を鱗を持たず、毛を持つものには思い出させてくれない。
それではダメだ。元の形が分からない程になったその刺身の横に置かれるべきなのである。
自分達、人間と似た毛髪を。
自分たちにも同じ様に生えている髪。
身体を守る為に生まれた素晴らしき抵抗をも頬張りながら、その切り身を食べることこそが人本来の刺身の食べ方なのだと桐崎は信じてやまない。
それは皆んなも気づくべきなのだ、自分が犯罪者となってでもそれを知らしめなくてはならない。
毛を持たぬ魚達に、これは桐崎なりの進化への刺激。魚達が毛を持たぬが故に起きてしまっている悲劇。
お魚さん達!あなた達が海に、川に、湖に甘んじて毛を生やさないせいで今日も人間の女性がその体をお刺身にされます!人間という他種の危機に、どうか気付いてください!
心の中で涙ながらにお魚さん達を思い浮かべ切実に訴えてから桐崎は周りに人が居ない事をしっかりと確認し、その女性を震えるその腕で丁寧に抱き上げ自身の店へと運んだ。
生涯一の大物を釣り上げたと緊張しながらだ。
「今から私は捌かれるのね?別に抵抗しないし、なんで丁寧にこんな事をするのか教えてくださらない?殺されり者のせめてもの権利じゃない?」
これから流れる血をしっかりと流す為に水回りの準備をしていると調理台に乗せられた女性が話しかけてきた。
「あ。起きたんだね、大丈夫?相当酔ってたみたいだね、抱えた時にお酒の匂いが凄かったよ」
ホースから水が流れ始めた事を確認しながら桐崎がにこやかに答えた。
「ええ、おかげさまで随分。だからちゃんと聞けるわ、なんでこんなに手の込んだ事をするの?」
女性はふぅと色っぽくため息をつくと調理場の中をぐるりと見渡しながら続けた。
「あなたの作った女性の活け造りを見たの。こんな事言っちゃいけないと思うけど。とっても綺麗だった、なんて言うか生き物への尊敬とか感謝とかそういうものを感じる程丁寧で繊細だったわ」
その言葉に桐崎は手を止め、女性に近づいた。
「…わざとかい?あの活け造りを見てわざわざこうしてくれたって言うのか!?」
女性の華奢な両肩をその逞しい腕で桐崎はすがる様に掴む。
その時にやっと気付いたのだ、さっきまで興奮でわからなかった酒臭さが彼女自身ではなく彼女の着ているその服からしているのだと。
「大変だったわ。酔ってないと連れて言ってくれないって聞いたけど、私未成年なの。だからわざわざ洋服にお酒を染み込ませたのよ?匂いで本当に酔いそうよ、肺呼吸もまだ慣れてないし」
そう言って女性はその美しい首の横をさすさすとなぞって見せた。
「ええ!?…まさか……まさか君は、人魚なのか!?その人らしかぬ美しさ…まさかとは思っていたが。ついに、ついに届いたのか。この身を犠牲にして訴えていた願いが…」
桐崎は女性の肩から両手を離し、その手を口に持って行く。
初めての告白に応えてもらえた乙女の様に何度も頭を前後にぶんぶんと振るのだ。
女性はその様子を見ておかしそうに肩を揺らし、口元を隠しながら笑う。
以前、可笑しな名前の青年を目の当たりにした時の様に。
「人魚様!どうかお魚さんにお伝え下さい!人間達は何も感じてないのです、あなた達を食べていると言う実感なしに平然と!緩慢に!あなた達を口に運んでいるのです!しかぁし!それも食物連鎖、致し方ない事!ですから、どうかその感謝や安心を感じる機会を増やして頂きたいのです!毛を!毛を生やすだけで良いのです!それだけで私…人間はあなた達の事を偲び、敬いながら食することが出来るのです!」
桐崎が調理台のマキナにそう叫び終わると調理場のドアが開く音がした。
「お前、ダメだな。全然しょうがなくない」
慌てて桐崎が振り返るとそこには星谷が立っている。
いつもの制服とは違い真黒なハットを深く被り、これもまた真黒なスーツと外套を羽織ってその懐をごそごそと探りながら。
「さっき私って言いかけたし、誰かのせいにしてる。お前がしたいんだろ?お前が好きなんだろ?お前がそうしないとお前じゃなくなっちゃいそうなんだろ?」
星谷の動きがぴたりと止まり、すっと懐から手を出すとそこには握られていた。
あの古ぼけたナイフが。
「お前はダメだ、『偽悪者』だ。そう言う奴に殺されちゃダメだ。偽善者に救われた人と同じくらいにお前の被害者は哀れだ。そいつらは俺が救う、お前を殺してお前が殺すはずだった誰かを俺のどうしようもない葛藤の末に殺す。このジャック・立派が刺し殺す」
ついに堪えきれず、マキナが口を抑えていたその手をお腹にあて声を出して笑い始めた。
桐崎はこの異様な状況を理解出来ずに星谷を見たり笑い転げるマキナを交互にキョロキョロと見ていたが、やがて気づく。
この二人は自分なんかより自分勝手なのだと、だからこそ自分がやられるのだと。
「ぎょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
奇声を荒げながら桐崎は星谷を押しのけ、調理場のドアから表に飛び出た。
依然笑い転げるマキナに星谷がため息まじりに詰め寄る。
「今のって許されたって言うの?俺には騙してる様に見えたんだけど」
「そうかしら?捌こうとしてたのをやめたんだから許されたんじゃなくて?被害者が加害者に許されるってそう言う事だと私は思うわ」
「じゃあなんで笑ってるのさ。騙したと思ってるから笑ってるんだろ?」
星谷のその質問にマキナはたまらずぷっと吹き出し、反対の腕でお腹を押さえながらもう片方の腕をあげ星谷を指差した。
「だって、あなたのその格好!全然似合ってないわ!年不相応よ!」
まじまじとマキナの自分を差す人差指を見つめ、その指先が自分の服を指差していると気付き星谷の顔が真っ赤になった。
「しょうがないだろ!これ、代々伝わる正装なんだよ!ここぞって時はこれなの!」
ハットがずれない様に気を使いながら地団駄を踏む星谷をマキナは変わらず指差し、ふーふーとなんとか笑いを堪えると目に涙を浮かべる。
そして少し落ち着いてからその指をずらし調理場のドアへと向けた。
「それはそうと、良いの?あなたはあなたでやる事あるみたいだったけど」
「うん、行くよ?俺が追いつけないはずないから。伊達でもない限り」
悠長に、その衣装のせいかどこか優雅にドアを出て行った星谷を見送るとマキナは調理台から降り腰のあたりをぱんぱんと何回かはたいてから呟いた。
「私を許した人。でも、あなたが許せない人。そんな人を殺したあなたを許すわ、それが私の最高値」
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