☆16手 星までは遥かに遠く

 日頃の行いがいいとは言えない緋咲だが、三月最後の土曜日はよく晴れた。引っ越し業者とは思えないほど小さなトラックが、最初に団地の前を出発する。ずいぶん春めいてきているものの、日陰にはところどころ雪が解け残っていて、踏みつけるたびトラックがガックンと揺れた。


「緋咲、私たちも行ってるね」


 紀子が車に乗って、守口家のシルバーのワゴン車もトラックの後に続いた。緋咲ひとりが団地の中に歩いて戻る。その一連の様子を、貴時はカーテンの隙間からずっと見ていた。

 ピンポーン。

 まもなく、市川家のチャイムが鳴り、洗濯中だった沙都子はそのまま玄関ドアを開ける。


「こんにちはー」

「あらあら、緋咲ちゃん。これから出発?」

「はい。最後にご挨拶って思って。お祝いたくさんいただいちゃって、ありがとうございました。これ、よかったら」


 高校の近くにあるパティスリーの洋梨ロールケーキが沙都子の手に渡った。


「こちらこそ気を使わせちゃったわね。ありがとう」


 緋咲はこの春、無事大学に合格した。県内の三流大学で、好きでもない経済学部だが、新生活には胸を踊らせている。県内と言っても、車で一時間強かかる場所なので、大学の近くで下宿することになっている。


「トッキーは?」


 案の定自分の名前が聞こえたけれど、貴時は部屋を出ようとしなかった。目の前に停まっている黒い車の運転席で、男が煙草を吸っている様子をじっと見ている。


「いるいる。貴時ーー! 緋咲ちゃん、今日引っ越しちゃうってーー!」


 同じ家にいて居留守を使えるはずはなく、また頑固に引きこもれば、そのこと自体が何かの意志表示になってしまうから、重い足取りで部屋を出た。


「トッキー! よかった。最後に会えて」


 そう言って、陽差しをばら蒔くように笑いかける。緋咲の笑顔はいつも貴時から言葉を奪うので、ただ一度うなずいた。


「そうそう。これ、トッキーにあげる」

「……なにこれ?」


 貴時の手に、作りの粗いぬいぐるみが押し付けられた。


「それ、あんまりかわいくないんだけど、トッキー思い出すから捨てられなくて」


 不細工な犬は『ワン将』という駒を抱えて、歪んだ笑顔を張り付けている。


「ずっと持ってたんだけど、トッキーにあげる。いらなかったら捨てて」

「……ありがとう」


 捨てていいなら、緋咲の手でそうして欲しかった。貴時には決してできないから。


「トッキー」


 玄関の段差を含めると、すでに緋咲を越えている貴時の頭に、やわらかい手が乗る。きれいにマスカラが塗られた長い睫毛が、一本一本はっきり見えた。


「将棋、頑張ってね。おばちゃんとアドレス交換したから」


 左後ろについた寝癖の上を、するり、するり、と緋咲の手が滑る。


「いつもいい知らせ待ってるからね」


 なぜこの手を拒めるだろう。たとえ、それがベビーせんべいのカスを払うのと同程度の意味だとしても。すぐに他の男に触れるものだとわかっていても。

 酒やギャンブルをまだ知らなくても、この世界には人生を狂わすものがあることを、貴時はよくわかっている。


「わかった」


 甘ったるい桃のような香りと満足そうな笑顔を残して、緋咲は一歩下がった。


「じゃあ、お世話になりました。また帰省したとき遊びに来るね」

「緋咲ちゃん、気をつけて。大学生活楽しんでね」

「はーい。失礼しまーす」


 ドアが閉まって、貴時もそのまま部屋に戻る。ふたたびカーテンの隙間から外を伺うと、パタパタという足音をさせて緋咲が車に走り寄るところだった。


「おまたせー」


 慣れた様子で緋咲は助手席に乗り込む。男が煙草を消して、煙を吐きながら何か言った。緋咲は笑って、あの手で男の肩を叩く。そのまま車は去っていった。そのあとには、休日のためかガランと空いた駐車場と、道路脇の植え込みしか見えない。何度まばたきをしても瞳は潤むことなく、その景色を映し続けていた。

 いつの間にか呼吸が浅くなっていて、貴時はゆっくり大きく息を吸う。カラーボックスから『決定版! 将棋名局大全』を取り出して、そのボロボロの本をめくった。何度も開いたために、薄い表紙は置いただけで浮いてしまう。すでに頭に入っている棋譜をゆっくり丁寧に並べて行く。


 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩打 ▲2八飛


 小学校五年生の九月に6級で奨励会に入会してから二年半。貴時は1級になっていた。棋力が上がるとともに育ててきた気持ちは行き場を失って、今、盤の上をふらふらと漂っている。


 ▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金


 ずっと幼さゆえ自覚するには至らず、自覚したところで届かない想いだった。耐えることに慣れた瞳は、容易には涙を流さない。いつ、どのタイミングで泣くべきだったのかわからないほど、最初から遠いひとだった。何かを好きになるのは悪いことじゃないと言ったくせに。


 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛 ▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩打


 泣いて忘れるすべを知らない貴時の指は、駒を持つことで痛みを振り払う。おろしたてのワンピースで踊るように出掛けていく姿も、媚びるような電話の声も、襟元から見えてしまった赤い跡も、こうやって棋士たちの気持ちのこもった棋譜で押し流してきた。

 自分のために奔走してくれた人がいる。身を粉にして働いてくれる両親もいる。我がことのように喜び、応援してくれる人がたくさんいる。だからどうせ将棋以外に目を向けてはいけないのだ。


 ▲2六歩 △8四歩 ▲7六歩 △3二金 ▲2五歩 △8五歩 ▲7七角


 努力で身長は伸びない。努力で年齢は変わらない。それなら、努力で掴めるものには努力しよう。

 この傷がどれだけ深いのか、貴時本人にもわからなかった。










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