▲17手 いつか、星の数よりもっと
まぶたの腫れは濡れタオルをあててひいたけれど、それでもひかない熱に浮かされて、緋咲は団地までやってきた。ただ会いたい、それだけで。打算もない代わりに相手の迷惑も考えない衝動に身をまかせ、市川家のチャイムを鳴らす。
『……はい』
イベントが終わって三時間。インターフォンから聞こえた沙都子の声は、やや疲れがうかがえた。
「こんばんは。緋咲です」
『あ、ちょっと待ってね』
パタパタという足音と、鍵を外すカチャンという音に続いてドアが開いた。
「こんばんは。緋咲ちゃん、今日はわざわざありがとう」
「いえ、お疲れのところ、急に来ちゃってごめんなさい」
とりあえずどうぞ、と室内に招かれて、緋咲もお邪魔します、と上がり込む。明かりが灯されても尚ぼんやり暗い玄関の先で、襖の奥は今日もしずかだった。
「あれ? おばちゃんひとり?」
リビングには誰の姿もなく、テーブルにも今しがた沙都子が座っていたと思しきイス以外、人がいた形跡はない。
「旦那は後援会の服部さんたちと飲みに行ってて。私もこれからちょっと顔出してご挨拶だけしてくるつもり」
テーブルを軽く布巾で拭き清め、空っぽになった牛丼のパックをシンクに運ぶ。
「だから今日の夕食は手抜きしちゃった」
疲れた笑顔を浮かべる沙都子の手元には、手付かずの牛丼がひとつ置かれていた。
「トッキーは……大丈夫?」
緋咲の不安げな声を吹き飛ばすように、沙都子は笑って首を振る。
「大丈夫、大丈夫。それ心配して来てくれたのね」
熱い煎茶とカステラが緋咲の前に並べられる。
「いただきます」
緋咲がお茶を口に含んでいると、沙都子は廊下の先に視線を向けたまま言った。
「こんなことはよくあるのよ。奨励会に入る前から、将棋を始めてからずっと。最初は私もオロオロしたんだけどね、もう慣れちゃった」
高さのある家具で無理矢理収納力を上げたテレビ周りには、大小さまざまなトロフィーや盾、メダルなどがびっしりと並んでいる。
「泣いてるの?」
さあ? と、お茶をひと口飲む。
「私たちの前で泣いたり暴れたりはしないの。普通に会話もするし、ご飯も食べる。でも、何考えてるかはわからないな」
黙って痛みに耐えているのか、声を殺して泣いているのか、襖の向こうは貴時以外、誰にもわからない。
「明日には元気になってるから、緋咲ちゃんも気にしないで」
そわそわと落ち着きのない様子に、緋咲は腰を浮かせる。
「ごめんなさい。出掛けるところだったよね。また改めて来るから」
そう言うと、沙都子は引き留めることなく、申し訳なさそうに顔を歪めた。
「せっかく来てくれたのに、本当にごめんね」
「連絡もせずに来た私が悪いから」
沙都子も出る準備をして、ふたりで玄関に向かう。靴を履いて鍵を準備する沙都子の後ろで、緋咲も爪先を靴に伸ばしたけれど、ふたたび廊下の上に戻した。
「おばちゃん、もうちょっとだけトッキーを待ってみてもいい?」
沙都子は困った子を見る顔で微笑む。
「いいけど、多分出てこないよ?」
「あと十分だけ待って、ダメなら帰るから」
「うちは構わないけど、帰りは気をつけてね」
「ありがとう。いってらっしゃい」
ドアが閉まると、急に空気が重たくなったような気がした。沙都子には十分と言ったけれど、時間を守るつもりはなく、ただこのままでは帰れないという、身勝手な気持ちしかなかった。
足を忍ばせても、少し動くだけで床がきしんで音をたてる。部屋の中からは、そんなささいな気配すらしなかった。けれどすぐそこに貴時はいる。あたかもそれが貴時本人であるかのように、古びた襖にそっと触れた。しかしとても声をかけられるものではなく、気配を殺してゆっくりその場に座り込み、立てた膝に額をあずけて目を閉じた。
『何もできません。見守るだけです。時にはその応援すら負担になることもあるでしょうから』
何もできない緋咲は、一体どうしたらいいのだろう? この胸の中で溢れる想いは、トイレットペーパーほども役に立たないものなのだろうか?
不思議としずかな夜だった。車の音ひとつ、二階の足音ひとつ聞こえない。唯一どこかにある時計の秒針の音だけが、かすかに聞こえていた。さながら闇と静けさが、貴時を守っているかのようだった。膝が額に張り付くくらい緋咲は長いことそうして、秒針の音を聞いていた。
すべて夢だったのかと思うくらい時間が経って、建て付けの悪い襖の開く音がした。緋咲はとび跳ねるように立ち上がる。
「トッキー……」
「ひーちゃん、何してるの?」
憔悴し切った姿を想像していた緋咲には、拍子抜けしてしまうほど、貴時の態度はいつも通りだった。
「トイレに行きたいんだけど」
「あ、ごめん」
壁に張り付いて動線を開けた緋咲の前を通り過ぎて、貴時は言葉通りトイレに行く。数十秒後、大きな水音がしたかと思うと貴時が出て来て、ふたたび部屋に戻ろうとした。
「行っちゃうの?」
ついシャツの裾を掴んでいた。
「できれば今は会いたくなかったな」
ふっと空気が陰る。貴時はふたたび闇と静けさの中に戻ろうとしていた。何か言わなければ、と思っても掛けられる言葉など見つからず、考え得る限り一番陳腐なことを口走ってしまった。
「トッキーは頑張ったよ」
当然ながら緋咲の言葉は貴時の心に届かず、電球さえ嘲笑うようにチカッと揺れた。
「残念だけど、俺がいるのは結果がすべての世界なんだ。頑張っただけで褒められるのは、せいぜい小学生まででしょ」
シャツを握る手に力が入る。
「だったらトッキーは、いつ誰が褒めてくれるの? だって、トッキーは小学生のときでも、結果がすべての世界にいたじゃない。まだ高校生なんだから、急いで大人にならなくていいよ」
励ますというより、すがる言葉だった。自分の力ない腕では届かないところに、貴時がどんどん遠ざかっていくようで。
「無神経だなあ」
シャツを握る手の上に、ポツリとその声は落とされた。
「ひーちゃんは昔から本当に無神経だよね」
言われた言葉を理解するより早く、両肩が掴まれて壁に打ち付けられた。驚きと痛みで手からシャツがすり抜ける。
「だったらなんで五年も早く生まれたの? なんで待っててくれないの?」
電球の灯りを背に受けて、貴時の顔は真っ暗だった。
「早く結果を出すしかないんだよ。ひーちゃんのことだけじゃない。毎月何度も東京に通うから、父さんも母さんも仕事を増やして、旅行も、家を買うことも、いろんなことを諦めてきた。普通に大学に進学して、普通に就職したなら抱えなくていい心労をずっと負わせて。それで頑張ったからいいなんて言えないんだよ」
あのやわらかく動いていた指が緋咲の細い肩に食い込む。圧倒的な男の力を前に、身じろぎすることさえできなかった。痛みに顔を歪めても、貴時の力は弱まらない。押し付けられた板壁がミシミシと音をたてた。
「好きなのに、大好きなはずなのに、苦しいだけになっていく気持ち、ひーちゃんにわかる?」
闇が一層濃くなるように、貴時が近づいてきた。メガネが当たり、鼻先が触れ、唇に吐息がかかる。ただの闇にしか見えない貴時を、緋咲は見つめた。
男の人の匂いがする。男の人の体温を感じる。目眩がしそうなその気配に身を委ね、そっと目を閉じた。唇をかすめる湿った吐息に気を取られ、肩の痛みは感じなくなった。1、2、3、4、5、6、……秒を読むように、時計の秒針の音が大きく聞こえる。
ふっと目の前が明るくなり、緋咲は目を開けた。同時に肩からも圧迫がなくなる。吐息であたためられた唇が、急に寒く感じられた。貴時は深く項垂れていて、顔はまったく見えない。
「将棋なんて嫌いだ。ひーちゃんなんて、大っ嫌いだ」
何も身につけず、何も持たず、貴時は家を出ていった。緋咲はふたたびその場に座り込み、しばらく立ち上がることはできなかった。追いかけたところで、浅はかな自分は、きっとまた貴時を傷つけてしまう。
開け放たれた襖から、貴時の部屋が奥まで見えた。昔入ったときにはそれなりに少年らしさが垣間見えたのに、今は、人の住む気配すらしないほどガランとしていた。吸い寄せられるように、緋咲はその部屋に踏み入る。
畳敷きの六畳間には小さなデスクがひとつと、カラーボックスがふたつしかない。ベッドも、衣装ケースも、テレビも、何もなかった。高校生らしいものは壁にかけられた制服と、カラーボックスの中の教科書、デスク脇にひっかけられた黒いリュックサックくらい。それ以外は棋書と、机の上の将棋盤と駒箱、パソコン。すべて将棋の勉強に使うものばかりだった。
この部屋は子どもの遊ぶところではなく、ゆっくり休む場所でもなく、ただ、将棋を勉強するための場所になっていた。ここで貴時はひとり、世界に深く沈むのだろう。何時間も、何日も、何ヵ月も、何年も、ずっとそうしてきたのだ。
たったひとつ不必要なぬいぐるみが、盤の奥に置いてあり、緋咲はそれを手に取った。
「本当に、私って無神経だな……」
それは昔緋咲が貴時にあげたものだった。『ワン将』と書かれた将棋の駒を抱えた犬は、不出来でかわいくなくて、全然気に入っていなかった。もう誰だか忘れたけれど、クレーンゲームが得意だという元彼が取ってくれたもののひとつ。ゴミ袋に入れる代わりに貴時に渡しただけのものだ。必要のないものはすべて切り捨てたこの部屋に、これを残していた貴時の気持ちが、緋咲には痛かった。
外は肌にまとわりつくような糸雨が、音もなく降っていた。街灯の灯りの中でだけ、雨のラインがようやく見える。例年より初雪は遅いけれど、雨は日に日に冷たく、凍るように寒くなる。
貴時は傘を持って行かなかった。風邪をひかなければいいと、それだけを願う。
祈るように天を仰いでも、重く垂れ込めた雲が隙間なく覆っていて、空の欠片さえ見えなかった。
◇
翌朝はよく冷え込み、布団から出るのを渋った緋咲は、ファンヒーターの前で尚もモタモタ動かずにいた。従って、チャイムが鳴ったときはまだパジャマのままだった。
「……はい?」
こんな朝早くに一体誰だ?
不信感もあらわにインターフォンを取ると、向こうは戸惑ったようにモジモジと答える。
『……えっと、あの、あ、おはようございます。……貴時です』
叩きつけるようにインターフォンを切って、すぐさま玄関ドアを開けた。朝の湿った空気の中、確かに貴時が立っていて、緋咲を見るなり目をそらす。
「あ、ごめん。ちょっと待ってね」
ドアを閉めると掛かっていたコートをひっつかみ、とりあえず羽織って貴時のところに戻った。
「お待たせ。トッキー、風邪はひいてない? ……大丈夫そうだね」
このあたりの男子高校生は、真冬でもなぜか頑なにコートを着ない。貴時も制服にマフラーをぐるぐる巻いただけの姿で、寒そうに身体を縮こまらせているけれど、とりあえず風邪ではなさそうだ。
「うん、大丈夫」
「こんなに朝早く、どうしたの?」
気を取り直すように、貴時はメガネを人差し指で直した。
「昨日のこと、謝りたくて来たんだ。ごめん。痛かったよね?」
貴時の白い息と目線が、緋咲の肩に落ちる。
「ちょっとイライラしてて、ひーちゃんに当たっちゃった。本当にごめんなさい」
大槻の指導ゆえか、貴時の謝罪は深かった。背負っている黒いリュックサックの中が、ガチャッと騒ぐ。
「平気。嬉しかったから」
貴時は瞠目して、寒さで白かった頬もわずかに上気する。
「昨日は私も悪かったし。とりあえず入って。寒いでしょ?」
ドアを大きく開けて招くと、貴時は困ったように笑う。
「謝った直後で悪いけど、でも言ったことは撤回できないかも。ひーちゃん、やっぱり無神経だな。俺をまだ子どもだと思ってる? それとも誰でもかんたんに部屋に上げるの?」
さすがにムッとした緋咲は眉を吊り上げる。
「そんなわけないでしょ! 言っておくけど、この部屋に男の人を入れたことないから。今だってトッキーだから入れるのよ。もちろん子どもだなんて思ってない。だってね、だって、私ね、あの……」
勢いよく始まった緋咲の言葉は、どんどん弱々しくなった。自分から気持ちを打ち明けた経験がないから、肝心な言葉がどうしても出てこない。ウエストで結ぶタイプのリボンをモジモジと指に絡ませながら、なんとか続けようとした。
「私ね、……私、トッキーのことがね、……」
ところが、
「ひーちゃん、言わないで!」
その先を察した貴時によって、遮られてしまう。
「今は聞きたくない」
強い意志を感じるきっぱりとした声は、朝の空気の中ではことさらに潔く感じられた。
「ひーちゃんは気まぐれだからね。もしかしたらすぐに気が変わっちゃうかもしれないけど、それでも今は聞けないよ。俺、ダメになっちゃうから」
「気まぐれなんかじゃない」
「そう? だったらいいな」
あまり信用されていないと感じたが、それでも今気持ちを証明してはいけない。
「四段になったら言っていいの?」
「いいよ」
「わかった。待ってる。だから早く四段になって、昨日の続きしてね」
付き合いの長い緋咲でも、初めて見る顔だった。将棋は勝った時でもあからさまに喜んだりしないから、貴時自身もめったにないことだろう。マフラーに半分埋めた顔は、耳まで赤かった。
「やっぱり聞かなくてよかった。今日俺、使い物にならないと思う。頭回らない」
「え! やだ! 事故に遭ったりしないでよ」
「……がんばる」
廊下を吹き抜ける風に、緋咲がコートの前を掻き合わせると、
「あ、ごめん。寒いよね? 俺もそろそろ学校行く」
と貴時は歩き出した。寒さはどうでもいいけれど、緋咲も仕事があるので、コートをしっかり着てその後を追う。
「自転車だと遠かったでしょ?」
「それほどでもない。学校と方向は同じだから。雪降る前でよかった」
ブレザーにネクタイではあるけれど、それはスーツとは全然違っていて、黒いリュックサックを背負い自転車に跨がる姿は、どこから見ても高校生だった。わかっていても、もう緋咲の胸の高鳴りが治まることはない。
朝の冷気を思い切り吸い込んだ貴時は、幾分落ち着いた表情で緋咲を見下ろす。
「さっきはああ言ってくれたけど、何年かかるかわかんないよ?」
「うん。わかってる」
「もしかしたら、ダメかもしれないよ?」
「なるよ、絶対」
緋咲は胸を張り、自信たっぷりに断言した。
「だってタイトル戦に出るって約束したもんね」
貴時は吹き出すように笑う。
「ひーちゃんは、ほんとかんたんに言うよね」
苦笑しながら何度かうなずいて、
「約束する」
今度は真剣な声で答えた。
「私にできることがあったら、何でも言って」
それは社交辞令でも何でもなく、心からの言葉だったのに、貴時は間髪入れずに言い切った。
「気持ちは嬉しいけど、特にないな」
「……だよね」
パジャマにパンプスという、妙な足元を見下ろして、緋咲はため息をついた。反対に貴時は、きらめく冬の朝日に目を細める。
「ひーちゃんは、存在しててくれるだけでいいんだよ」
「なによ、それ」
貴時は笑い声だけ返して、自転車のペダルを強く踏み込んだ。カチャンと鍵がぶつかって音を立てる。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい! 気をつけて!」
黒いリュックサックが遠ざかって、ブロック塀の向こうに消えた。とたんにするどい冷気を感じるようになり、アパートに駆け込もうとすると、まぶしい太陽光が緋咲を呼び止めた。昨日の雨雲は彼方に押しやられ、さっき貴時が見上げた場所は澄んだ空色をしている。緋咲は乏しい想像力を駆使して、空の先の宇宙を思い浮かべた。
貴時になら、いつかきっと言える。今もそこにあるはずの、星の数よりもっとたくさんの『好き』を。
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