△18手 その胸に一条の願い星を

 上映中の映画館をひとり出た緋咲は、ショッピングモール内をあてもなく歩いていた。カレンダーの絵柄が変わっても気温は夏を引きずっているが、店頭に並ぶ商品はすっかり秋色をしている。

 着るタイミングのわからない半袖ニットを棚に戻して、何十回も繰り返した携帯のチェックをまた行った。通知は……なし。

 九月の第一日曜日。貴時は今日、三段リーグの最終日を迎えている。最終二局を残し、13勝3敗と1位。四期目にして初めて昇段に指をかけていた。在学中の昇段はならなかったものの、卒業して将棋に集中できたことがよかったのかもしれない。

 三段リーグは相対的なものなので、単純な勝ち星の数では決まらないけれど、一応13勝5敗が昇段のボーダーラインと言われている。しかし前期の成績が11勝7敗だった貴時は、今期の順位が8位。今日二敗して13勝5敗ならば頭ハネ(同じ勝数でも順位の差で昇段を逃すこと)される可能性があった。

 せめて一勝できれば! 一局勝つことが果てなく遠い将棋において、ここまで来ても昇段は難しい。

 家にいても落ち着かないので、映画館で時間をつぶそうと思ったのに、まったく頭に入らない。そればかりか、身動きできない状況に焦燥感ばかりがつのった。バッグの中でこっそりと、しかし五分に一度携帯を確認していたら、ひとつ空けて隣に座る男性に咳払いをされたので、諦めて映画館を出たのだった。

 市内では一番大きなショッピングモールでも、三十分も歩けば端から端まで到達する。結局チェーンのカフェに入って、飲みたいわけでもないブレンドコーヒーを前に、ひたすら携帯を眺めるばかりだった。


「えーっと、トッキーが二勝すれば大丈夫。一勝でも……ギリギリ2位? もし二敗した場合、倉内さんって人も負けてくれないと上がれないな。あ、高田さんも二勝すれば13勝5敗で並ぶんだっけ……」


 リーグ表を見ながら勝敗をうんうん計算する。何度考えても混乱して、結局わかるのは「勝たなければ昇段は難しい」ということだ。そして「勝ち切る」ことはとても難しいものらしい。大槻が言っていたことがある。


『ちょっと良くなった将棋を、勝ち切ることがとても難しいんです』


 と。


『悪い将棋はどうせそのままだと負けますから、思い切りぶつかるだけなので気は楽なんですよ。ちょっと良くなった時の方がずっと怖い。油断したら当然負ける。間違えないようにビクビクしてても負ける。人間心理ですよね』


 ぬるくなったコーヒーは今から砂糖を入れても溶けそうになく、仕方なくそのまま口に含んだ。


「……苦い」


 苦いけれど、その分後味はスッキリしている。何度か口に運ぶうち、苦味も最初より気にならなくなっていた。

 頂点に達しようとする太陽の位置から南を推測して、見えるはずのない東京に、祈りを送る。この不安な気持ちを抱えることだけが、緋咲にできるすべてなのだ。



 緋咲が沙都子からのメールを受け取ったのは十四時過ぎ。自宅まであと五分というところだった。車のドアポケットに入れていた携帯が鳴って、即座に通知を開く。違反切符を切られるかもしれないが、構っていられない。

 前方と手元を交互に見ながら開いたメールには、


『四段昇段が決まりました!』


 とあった。


「あ……やばい。どうしよ、どうしよ」


 目を開いて前を向いているのに、あふれる感情で視界も曖昧になる。赤信号で止まったとき、謎の焦りから青になる前にアクセルを踏んでしまい、すぐにブレーキを踏み直した。頭の片隅でこのままでは事故を起こすな、という自覚はあったので、目についたコインランドリーの駐車場にとりあえず駐車して、そこでメールを改めて確認した。


『四段昇段が決まりました!』

『四段昇段が決まりました!』

『四段昇段が決まりました!』


 無機質なはずの文字が、熱を持って伝えてくれる。


「きゃああああああ!!! やったーーーー!!! やったーーーー!!!」


 ドタドタ足を踏み鳴らしたら車が揺れた。暴れ過ぎて何度かクラクションも鳴らしてしまう。通りを歩く人が、不審な目を向けて車の前を通過して行った。

 ネットにはまだ何の情報も上がっていない。三段リーグは一日に二局指すため、すべての結果は出ていないが、貴時は一局目に勝って二位以上が確定したのだろう。


「トッキー、おめでとう! よかった~。本当よかった~~~~~」


 結局一時間近くコインランドリーに滞在し、ひとしきり騒いでから、緋咲は自宅とは逆方向に車を走らせた。次に会うときは、何かお祝いの贈り物をしたくて。


「いらっしゃいませ」


 足を踏み入れたのは、生涯ご縁がないと思っていたブランドショップだった。駅前や大きな通り沿いにある入りやすいところではなく、裏路地にひっそりあり、店内の様子もわかりにくい店。流れるような筆記体で描かれた読めない看板と、シンプルなブラックスーツを着たマネキンだけが、かろうじて服屋であることを示している。中は艶やかに磨かれたダークブラウンの床がまぶしいほどで、くたびれたパンプスで歩くことさえ躊躇われた。けれど、ここまできたら引き返す方が難しい。ネクタイもシャツも一点一点、宝石でも扱うかのように気取って並べられていた。


「何かお探しですか?」


 雑な扱いをされるかと身構えた緋咲だったが、顧客の匂いを嗅ぎ付けたのか、案外と親切に対応してくれる。ひとりならば、触れることもできなかったシャツを、次々広げて説明してくれた。


「首周りのサイズはどのくらいですか?」


 普段S、M、Lでばかり買うので慌てて沙都子に確認しながら、とりあえず白いシャツをひとつ決める。襟と袖のカッティングがきれいなので、中継で手元が映ってもいいような気がして。

 ネクタイに関しては店員さんが細かく説明してくれたけれど、緋咲はある一本に目を奪われた。瑠璃紺と黒のストライプ柄に、一条、銀色のラインがすうっと通っている。


「これにします」


 ネクタイピンも合わせて、自分のためなら市内で一番高いマリーナタワーから飛び降りても買わないような値段を、銀行名入りの封筒から直接払った。愛の大きさは金額ではないけれど、その一端はうかがえるもので、緋咲は過去、誰にもこんな値段を払ったことはない。

 貴時の胸元に、精一杯の願いを込めて消えない流れ星を贈ろう。


 昇段の正式発表は十八時過ぎにあった。将棋関係のSNSで、


『今期の三段リーグが終了し、市川貴時三段(石浜和之八段門下)と諏訪聖南三段(須藤兼人七段門下)が四段昇段を決めました』


 とアップされていた。公式発表でも、


『新四段誕生のお知らせ

 東京・将棋会館で行われました奨励会三段リーグ戦において市川貴時三段と諏訪聖南三段が四段昇段を決めました。最終成績は市川三段15勝3敗、諏訪三段13勝5敗です。なお四段昇段は、10月1日付けとなります。』


 とあり、貴時と諏訪が大きな王将の駒を持っている写真が掲載されていた。


『市川 貴時(いちかわ・たかとき)

 得意戦法 相掛かり

 趣味 散歩

 将棋を始めたきっかけ 六歳のとき、父に教わりました

 本人のコメント

 前期までは焦りもあって思うような結果を出せませんでしたが、今期はどの対局も集中して指せました。今後は地元を中心に普及に励むとともに、タイトルを獲得できるように頑張ります』


 ネット上には貴時の情報が一気に広まっていく。


『市川さんには以前指導対局でお世話になりましたが、やさしく丁寧に教えてくださいました。本当におめでとうございます!』

『息子が初めて出場した将棋大会で優勝されていたのが市川三段でした。感慨深いものがあります。プロ入りおめでとうございます』


 おめでとう、という声があふれ、スクロールしても次から次へと尽きることがない。


「本当に、本当に昇段したんだね」


 痺れるような喜びがじわじわと胸を満たし、緋咲は何度も何度も記事やSNSを見た。胸いっぱいで食事もとらず、ベッドに寝転んでさまざまに流れる情報を拾っていると、


『市川君の昇段祝いに来てまーす!』


 という棋士のSNSを見つけた。添付されていた写真には五~六人の男子に囲まれて、貴時が笑っていた。公式に取材を受けたものと違って、ごく自然な笑顔に、緋咲の目からは涙が溢れる。彼らは戦う相手であったり、未だ昇段できない奨励会員であったり、写真にある笑顔ほど手離しで喜んではいないかもしれない。けれど、同じものを目指し、同じ世界を生きる者として、貴時の居場所は確かにそこにあった。普通に遊んで、普通に恋をして……それでは得られない繋がりもあるのかもしれない。貴時のすぐ隣でへらっと笑う棋士の姿を見つけて、緋咲はそう感じていた。それは、貴時が何度も負けたあのライバルだったから。


「おめでとう、トッキー」


 人生で忘れられない瞬間に立ち会ったのが自分でなくても、その笑顔があるならそれでいい。



 りんりんと虫が鳴く夜道を、ヒールを弾ませながら歩く。昨日の貴時の昇段から浮かれたまま、緋咲はよく働いた。働き過ぎてすっかり遅くなり、ついでにラーメンまで食べて帰宅したのは夜十時。明るい夜空にはチラチラ星が瞬いており、秋の匂いを含んだ涼風が熱々ラーメンで火照った頬に心地よい。このままどこまでも行けそうな気がして、踊るようにアパートの階段を上った。

 ところが、思いがけない影に、びっくりして足を止める。


「おかえり。ひーちゃん」


 廊下の暗がりから夜空を眺めていたのは、貴時だった。


「気持ちいい季節だね。あ、でもまだ蚊はいるみたい」


 シャツから出る左腕をポリポリ掻くその姿に、まばたきもできず見入った。


「ずいぶん楽しそうだけど、もしかして酔っぱらってる?」


 かすかに首だけ振って否定したが、声は出なかった。


「昨日は友達のところに泊めてもらって、今朝帰ってきたんだけど、家の方はずいぶん騒がしくて。ちょっと、抜け出して来ちゃった」


 昇段が正式発表されると、市川家にはお祝いの連絡が殺到した。親戚、将棋関係者、友人、団地の住人などが押し寄せ、電話もメールもひっきりなし。本人不在の中、沙都子と寛貴はその対応に追われ、ゆっくり喜ぶ暇もなかった。

 貴時が帰宅すると、今度はそれに取材も加わり、本来なら一番最初にすべき大槻への報告さえ夜になってしまった。

 家まで送るという大槻の申し出を断り、誰にも内緒で緋咲に会いに来ているので、この瞬間も貴時の携帯は着信のランプが点滅している。


「これでも精一杯早く来たんだけど、怒ってる? それとも、昇段遅くて気持ち変わっちゃった?」


 以前の緋咲ならともかく、貴時に対する想いは十ヶ月程度で変わったりしない。ふたたび首を横に振るものの、相変わらず黙ったままの緋咲に、貴時は苦笑する。


「ひーちゃん、何か言って」

「……言っていいの?」


 一瞬驚いてから、貴時は笑って両腕を広げた。


「いいよ」


 たった3mを緋咲は走って、その腕の中に飛び込む。首を抱き寄せて、青いような匂いに吐息をもらしつつ、耳元に唇を近づけた。


「……き」


 大事な大事な第一声は、涙で半分流された。むせ返るような愛しさに息が詰まる。昨日緋咲が買ったワイシャツの、十分の一程度の値段しかないシャツに、言葉より雄弁な涙がどんどん吸い込まれていく。


「聞こえないよ」


 微笑みを含んだ声が首筋を撫でたので、一度震えながら深呼吸し、鼻声のかわいくない声ではっきりと言った。


「好き」


 想いを表す言葉が、たった二文字しかないことを緋咲は恨む。その恨みを込めて、しがみつく腕の力を強めた。


「うん」


 緋咲の背中を抱く貴時の力も強くなった。


「好き」

「うん」

「好き」

「うん」

「好き」

「うん」

「大好き」

「うん」

「すごく好き」

「うん」

「すっごくすっごく大好き」

「うん」

「すっごくすっごくすっごく大好き」

「うん」

「『うん』しか言わないの?」


 文句さえ噛み締めるように貴時は緋咲の首筋に顔をうずめた。


「言葉くらい、たくさん言えばいいと思って。どうせ俺の気持ちには敵わないんだから」

「そんなことないのに」

「あはは!」


 朗らかに笑う貴時は、きっと信じていない。だから、貴時が積み上げた時間より、さらに長い時間をかけて、ゆっくり伝えていこう。肩越しに見える星にそう誓った。


「昇段おめでとう」


 顔を見上げて伝えると、今日の夜空より曇りのない笑顔で貴時は笑った。


「ありがとう」


 ゆっくりと貴時の顔が近づいてくる。緋咲は目を閉じてその瞬間を待った。そして、あの夜と同じくらい近く、湿った吐息が届く距離で止まって、今夜もふっと離れる。


「……やっぱり、すごく緊張する」


 そんな貴時の頬を掴んで引き寄せ、緋咲はその唇を奪った。落款でも押すようにじっくり口づけた後、唇の右端に、今度は左端に、下唇に、上唇に、位置を変え、角度を変えて、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と繰り返す。貴時の反応はなかったが、少し離れたら、今度は貴時から距離を詰めた。

 ぎこちなく、余裕もなく、決して上手とは言えないそのキスに、緋咲は一瞬で酔った。過去の経験なんてまったくの無意味。ただ触れていたい。愛する想いを伝えたい。キスとは本来、そういうものだから。


「ごめん、トッキー……、」


 キスの合間に緋咲は訴える。


「もう、倒れそう……」


 緋咲は貴時の肩のあたりを強く握って身体を支えていたから、慌ててその背中を支える。


「え! 大丈夫? どこか具合悪い?」


 なぜそうなるのかと、緋咲はガックリと胸に頭を寄せた。


「そうじゃないの。身体の力が抜けちゃっただけ」


 貴時はしばらくそのまま立ち尽くして、


「えっと……それで、俺はどうしたらいいの?」


 と困り果てた声を出した。緋咲は思わず吹き出して、貴時の胸の中に笑い声を響かせる。


「どうもしなくていい。トッキーは、そのままでいいよ」


 ふらつく脚に鞭を打って、バッグから鍵を取り出し、ドアを大きく開ける。


「どうぞ。今日は入るでしょ?」


 さっさと靴を脱いで上がった緋咲が振り返ると、貴時はまだドアの外にいた。


「どうしたの? さすがに今日の今日で取って食ったりしないよ?」


 緋咲の明け透けな物言いも気にした様子はなく、真剣な顔で問う。


「ここに男が入るのって、俺が最初?」

「そうだよ。あ、引っ越し業者さん以外はね」

「俺が、最後だよね?」


 何も求めてこなかった貴時の、初めてとも言える要求だった。緋咲は素足でたたきに降り、貴時の手を引く。


「そうだよ。引っ越し業者さん以外はね」


 かんたんに言うなあ、と貴時は思う。緋咲はどれほどその意味を理解しているのだろうか?

 よろけるように入った緋咲の部屋は、あの桃のような匂いで満ちていた。








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