▲19手 天狼星を目指して

 ブルーグレイのやわらかなドレスで、緋咲はこっそり人の間をすり抜ける。はねのように軽いスカートは、歩くたびふんわりと舞った。


『━━━━━この局面では角の働きを重視して、桂損でもバランスが取れると判断しました』


 壇上では、貴時本人が昇段を決めた一局の解説を行っているが、真剣に聞いている人は約半数といったところ。


『最後まで際どいところでしたが、切り換えて守りを手厚くしたことが奏功したようです』


 緋咲なりに一生懸命耳を傾けていたのだが、まぶたが半分まで落ちてきたので、申し訳ないけど抜け出した。


「お母さん、何飲んでるの?」

「レモンサワー」

「ちょうだい」


 炭酸をゴクゴク飲むと、喉がひりひりして目が覚めた。

 地元で一番大きなこのホテルでは、現在県支部会と後援会主催の昇段祝賀会が開かれている。

 貴時の四段昇段のお祝いは、場所を変え、メンバーを変え、幾度か行われた。昇段が決まった夜の仲間うちの食事会に始まり、諏訪と一緒に公式の祝賀会、また石浜が中心となった棋士仲間の祝賀会などが都内で開かれ、楽しそうな笑顔とお祝いコメントがSNSでたくさん見られた。

 地元は地元で、友人たちの気軽なパーティーと親戚だけのお祝いがあったのだが、今日は関係者を初め、親類、友人、市長まで300人ほどが集まっている。

 祝賀会の間、貴時は当然忙しく色々な人に挨拶したり、写真を撮ったりしているし、沙都子と博貴も挨拶回りに忙しい。将棋関係に知り合いのいない紀子は食事に専念していたので、緋咲もそれに加わった。


「お母さん、このエビチリ、片栗粉強過ぎない?」

「あら、ほんと。冷めるからって多目に入れたんだろうけど、入れすぎね」


 ふっと会場が暗くなり、スクリーンには貴時の幼い頃からの写真が映し出された。


「あ! この頃のトッキー、すっごくかわいかったよね」


 ふくふくの頬っぺたは、写真からでもやわらかさが伝わってくる。いとおしそうにそれを指でつついているのは、五歳の緋咲だった。


「こうして見ると、駒が大きく見えるわね」

「腕がぷくぷくでかわいい……触りたい」


 将棋を始めたばかりの頃は、手つきも様になっておらず、あどけない様子が本当にかわいかった。が、それでも指し手はすでに鋭く、見た目と盤上のギャップに泣いた大人も多かった。写真の中で駒を持つ手はどんどん大きくスラリとしていき、年齢的な成長とともに研鑽を積んだ様子がうかがえ、緋咲も目を潤ませる。


「……本当に、大きくなったなあ」

「あらこのローストビーフ、お肉はおいしいけどソースはいまいちね。緋咲、お刺身のお醤油つけた方がおいしいわよ」


 スライドが終わって会場が拍手に包まれる中、緋咲は母の忠告通り、ローストビーフを醤油で堪能する。涙と肉の甘味を同時に噛み締めていると、生春巻を飲み下した紀子が、スイートチリソース香るため息をついた。


「それにしても、貴時君って地味ねえ。見てよ、あのネクタイ」

「げっほ!」


 どこかの組織の会長に挨拶している貴時の首元には、瑠璃紺と黒、そして銀色のラインの入ったネクタイが結ばれている。


「会社に行くならともかくお祝いなんだから、もっと華やかにすればいいのに。お客さんに紛れちゃうわ」

「そんなことないよ。本人の輝きで十分目立ってるって」


 実際どこにいても、緋咲の目には貴時しか映らない。目立たなくていい。ライバルを増やしたくないから、むしろもっと地味に! と心の中で思う。


「あんた、貴時君傷つけたら許さないよ」


 ビールで喉を潤した紀子が、潤った勢いのままに斬り込んだ。


「……知ってたの?」

「母親の観察眼をナメるんじゃない」


 緋咲の恋愛に関しては、ごく稀に「気をつけなさいよ、いろいろ」と言う程度で、これまであまり首を突っ込んだことのない母親だった。


「将棋一筋だった貴時君が、急に理由も言わず外泊するようになったら、沙都子ちゃんだって気づくわよ。『多分、緋咲ちゃんだと思う』って言われたときの私の肩身の狭さ! トイレットペーパーの芯だって通り抜けられるほどだったわよ!」


 紀子の体型を眺めて、肩身は狭くても、お腹がつっかえるだろうと思ったことは口にしない。


「普通にお付き合いしてるだけだよ」

「我が娘ながらあんたの“普通”が怖いのよ。相手は郷土の至宝よ! 素行の悪い娘に傷つけられて将棋に影響したら、私、スーパーたけかわだって歩けなくなるわ!」

「その時はレフレマートに行ってよ」


 それしか返す言葉もなく、ローストビーフの残りを詰め込む。先日七瀬に報告したときも同じような反応だったのだ。


『トッキーに手出したの!? 堕ちるところまで堕ちたな! この極悪人!』


 さすがにあんまりな言い様だったので、


『トッキーだってもう十九歳、大学一年生と同じ年齢だよ』


 と反論したのだけど、


『そこらへんの盛りのついた男子大学生だったら構わないけど、トッキーはダメ。可哀想過ぎる! よりにもよって一番後腐れる相手なのわかってる? もし弄んで捨てたら、さすがに友達やめる』


 と返ってきた。誰も彼も貴時の味方で緋咲は悪者だ。緋咲としては自分の方が捨てられる危険性が高いと思っているのだけど。


「こんばんは。やはりいらしてましたか」


 おだやかな声に救いを見出だし、緋咲は一瞬で笑顔になった。


「あ、大槻先生。ご無沙汰してます」


 丁寧に礼をする大槻に、お皿を抱えたまま緋咲と紀子も頭を下げる。


「おめでとうございます」


 お祝いを述べる紀子に、大槻は首を振る。


「いえいえ、私は何も」

「でもホッとしましたよね。トッキーも大槻先生には心配かけてるって気にしてましたから」

「昇段できるとは思っていたので、何も心配してませんよ。これからも大変なことには変わりませんし」


 一度プロ棋士になってしまえば、かんたんにクビにはならない。しかし、上に上がることもまた容易ではない。名人を頂点とした順位戦において、棋士はピラミッド状の5クラスに分けられているが、プロ入りしたばかりの貴時は当然一番下のC級2組。約半数の棋士がこのC級2組から上がれないまま、棋士人生を終えるという。


「トッキーなら大丈夫ですよ」


 根拠もなく緋咲は言い切って、それをわかっていて大槻も笑顔を浮かべた。


「あ、トッキーだ!」


 挨拶のために、貴時が壇上に上がる。緊張している様子が伝わってくるが、大槻の指導の成果で、貴時は顔を上げて背筋を伸ばし、深々と一礼した。


『本日は私の昇段を祝うためにお集まりいただき、まことにありがとうございます。このために奔走してくださった、県支部のみなさま、後援会のみなさま、ありがとうございました。こうして昇段し、プロ棋士になれましたことは、みなさまのお力添えのおかげと思っております』


 たくさん練習したのか、つかえるところはあっても、前を向いたまま話している。


『感謝を伝えたい人は尽きませんが、まずは両親に。たくさんのものを諦めて、ずっと支えてくれてありがとう。これからできるだけ親孝行します』


 沙都子が後ろを向き、目元にハンカチをあて、博貴はその肩をそっと抱いた。ふたりはどれだけホッとしたことだろう。貴時の戦いは、両親の戦いでもあった。見守るしかない辛さは、ある意味本人以上に消耗したのではないかと、緋咲もつい涙目になる。

 恥ずかしそうに貴時は笑って、会場もなごやかな空気に包まれた。短くとも、想いは十分伝わったはずだ。


『それから石浜師匠。初めてお会いした日、不躾にも弟子入りを志願した私を快く受け入れてくださって、ありがとうございました。あの時から変わらず、師匠は私の憧れです。今後は公式戦で恩返しを果たせるよう、精進いたします』


 何度目かの祝賀会だろうに、それでも普段厳しい石浜の顔には、お酒で赤い笑顔が浮かんでいた。

 一番後ろを覗き見るようにしながら、貴時は少し声の音量を上げた。


『そして、これまでずっと指導してくださった大槻均先生』


 緋咲の隣で、大槻が身を固くした。


『全然前に来てくださらないけど、老眼だからよく見えてますよね?』


 たくさんの人が一斉に後ろを見る。壁際に逃げるようにしていた大槻は、注目されて居心地悪そうに俯いた。その姿に向かって、貴時は笑顔のままほんの少し目を潤ませる。


『どんなに悔しいときでも『負けました』『ありがとうございました』は、はっきり言わないと許してくれない厳しい先生でした。将棋の内容以上に、将棋を通して人間を育てること。そんな先生の指導を受けられたことは、この上ない幸運でした。今後とも大槻均の生徒として、恥じない棋士、恥じない人間でありたいと思います。本当に本当にありがとうございました』


 これまでで一番深く頭を下げる貴時を、けれど大槻は見ていなかった。俯いたまま、何度も何度もうなずいて、そのたびに古い革靴をポタリ、ポタリと滴が濡らした。いつか借りたハンカチのお返しに、今日は緋咲がハンカチを差し出す。大槻は片手を上げて感謝を示し、ピンク色のハンカチで目元を拭った。


『ようやくプロとしてのスタートラインに立てたということで、将棋とともに生きていける幸せを噛み締めながら、今後は一層気持ちを引き締めて参りたいと思います。そしていつか、一番輝く星を掴めるように精進致しますので、今後とも応援よろしくお願いします。本日は本当にありがとうございました』


 会場全体から大きな拍手が送られ、当然緋咲も大槻も紀子も拍手した。心のこもった拍手はなかなか鳴りやまない。小中高ずっと同じだったひよりの姿もある。結局初段から上がれずにいる中西の姿もある。棋士を目指すことを受け入れてくれた元担任の姿もある。たったひとつ将棋を求めた貴時は、たくさんのあたたかい手に支えられてきたのだ。


「これ、洗って返します」


 目の赤い大槻はピンクのハンカチをポケットにしまう。


「トッキーに渡しておいてください」


 緋咲は何気なくそう言ったけれど、大槻は笑うような泣いているような複雑な顔をする。


「もう、なかなか会う機会もないでしょう」


 驚いた緋咲が理由を問う前に、


「そんなことありません」


 きっぱりとした貴時の声が割って入った。大槻は決まり悪そうに視線を合わせない。


「お恥ずかしいところを……」

「大槻先生」


 貴時は構わず話し続ける。


「私は当面地元を離れるつもりありませんし、指導も続けさせていただきます。まだまだこれからなんですから、これで満足されては困ります」

「それは、私が言わないといけなかったんですけどね」


 責任を感じているのなら、最後まで背負ってもらおう。貴時が大槻に負わせた荷は、重くあたたかい。


「ひーちゃんもおばさんもありがとう」

「貴時君おめでとう! あ、あんたたちふたりで並んで、並んで。写真撮ってあげる」


 紀子に言われてふたり仲良く笑顔で写真に収まる。


「お母さん、その写真、すぐ送って」


 ニコニコと携帯を操作する緋咲を、貴時は鋭い目で見下ろした。


「その服、肩のところ……」

「あ、これかわいいでしょ? ここが気に入って買ったの」


 フレンチスリーブのドレスはざっくりとスリットが入っていて、肩が出るデザインになっている。笑顔で袖をつまむ緋咲に、貴時はため息をつく。


「あの、背の高い男の人が、」

「さっきトッキーと話してた人でしょ?」

「ひーちゃんを紹介してくれって」


 今にも差し出されそうな気がして、緋咲は貴時を睨み付けた。


「紹介すればいいじゃない。トッキーの人間関係まるごと崩壊するくらいこっぴどく振ってやるから!」


 恐ろしい発言も、貴時はまばたきひとつでやり過ごした。


「ちゃんと『彼女です』って断ったよ」

「よしよし」


 満足気な緋咲の袖を持ち上げて、「だからさ、今からでもここ縫ったら?」と尚も不満を訴える。その声に、大きな笑い声がかぶさった。


「あっちにうちの旦那とバカ息子もいるんだけど、ごめんね。もう酔っちゃって挨拶できないかも」


 紀子が剣呑な目で見つめる先には、緋咲の父・武志たけしと兄・蒼志そうしが団地の人たちと一緒にいる。が、あちらはただひたすらな飲み会と化していた。


「あれ、蒼志さん?」


 目線でひとりの男性を指して、こっそりと貴時は緋咲に問う。


「そうだよ」

「……俺、初めて見たかも」

「ええ!」

「いや、もしかしたら見かけたことはあるかもしれないけど、話したことはない」


 蒼志と貴時はちょうど一回り違う。貴時が物心つく頃、高校生の蒼志はあまり家におらず、大学進学後はほとんど帰ってきていない。


「そうだったかしらね。でも蒼志は貴時君を『昔から可愛がってた』って自慢してたから、てっきり会ったことあるんだと思ってたわ」


 紀子の発言に、緋咲の兄を見る目はゴミを見るものに変わる。


「我が兄ながら恥ずかしいヤツ。いいよ、いいよ。あんな人、生涯話さなくたって何っっっにも問題ないから!」

「そういうわけにいかないよ。長い付き合いになるんだから」


 ね? と微笑まれて、緋咲の怒りは泡と消えた。襟元で翅を休める蝶の飾りを、モジモジ指で弄ぶ。そこにまたもや遠慮のない笑い声が割り込んだ。


「それにしても、あのバカ父子! ちょっと調子に乗り過ぎね!」


 羽目をはずし気味な父子を絞めに紀子は向かい、


「あ、俺も一緒に行きます」


 貴時も挨拶がてらついて行く。大槻はそんな背中を微笑みながら見送った。


「市川君が中学生のとき、一度だけ『プロになるまで恋愛もやめなさい』と言ったことがあります」


 大槻にしては珍しく、都合悪そうに小声だった。


「立ち入ったことを言ってしまったと、すぐに後悔したのですが、市川君はいつものように『はい。大丈夫です』と答えたんですよね」


 貴時の抱えてきた想いは、ずっと叶わないものだった。ある意味、将棋に影響しなかった点だけは、よかったのかもしれない。それでも、そんな返事をした貴時の気持ちを想像して、緋咲の心は音を立ててきしんだ。大槻は、まだ赤い目をやさしげに細めて緋咲を見る。


「だから、いい相手が側にいてくれて、本当はホッとしてます」

「先生~~っ!」


 緋咲は赤い顔を両手で覆い、目を潤ませた。


「そう言ってくださったの、先生だけですー!!」


 年齢、性別、価値観、歩んできた人生、何一つ共通点のないこのふたりは、貴時を大切に思う、その一点だけでお互いを信頼していた。







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