△20手 きみに星を贈ろう
空よりも地上に星がきらめく季節。ファンヒーターの前で足先をあたためながら、楽しそうにクリスマスディナーの比較検討をしている緋咲に、貴時は声をかけられずにいた。
「本当はこっちのワインバーがいいんだよ。ワインなんてどうでもいいんだけど、ご飯がメチャクチャおいしいんだ。でも来年のお楽しみだね。お酒飲まないって言っても十九歳はよくないもんね」
緋咲が朝昼兼用で作ったホットケーキは七瀬直伝で、ペタッとしているのに味は濃い。ブラックコーヒーでそれを飲み下しながら、貴時は曖昧な微笑みで応える。
「無難なのはイタリアンだけど、創作和食がいいかなー。個室っていうところもポイント高いよね。ちょっと高いけど、せっかく初めてのクリスマスだし、ここは思い切ろう!」
予約の電話をかけようとディスプレイをタップする、その手から慌てて携帯が抜き取られた。
「ひーちゃん、ごめん!」
通信中だった画面を切って、貴時は頭を下げる。大槻が指導した以上に低く、ほとんど土下座の位置だった。
「クリスマスイブなんだけど……」
謝られた時点で内容の予想はついたので、緋咲はできるだけやさしい声で返事をした。
「うん」
「対局が、ついちゃって」
プロ入りしたばかりの棋士は、すでに始まっている棋戦には参加できない。そのため十月にプロとなった貴時もずっと対局がなく、ようやく初戦の日程が決まったところだった。それが竜王戦6組。対局日は十二月二十四日。
「おめでとう!」
「いいの? 会えないよ?」
「心外だな。そんなことでギャーギャー騒ぐ女だと思ってたの?」
思ってた、と貴時は言わず、過去には実際ギャーギャー騒いでいた、と緋咲も暴露するつもりはない。
「だって対局日だけじゃなくてね……その、……」
「勉強もしたいんでしょ? いいよ、好きなだけ放っておいても」
「ごめん! どうしても、勝ちたい」
貴時最初の対戦相手は、父親より年上のベテラン棋士だった。今では棋力も落ちて、貴時と同じ一番下のクラスに在籍しているけれど、元々は鬼と恐れられたタイトルホルダー。少しでも油断しようものなら、そのまま首をかっ斬られる。
「やっと恋人になれたのに、俺、すぐ捨てられるかも」
棋士の対局はだいたい月に一~二回程度。そして勝つと増えて行く。しかしそれ以外に対局の解説、イベント出演、指導など仕事はたくさんあって、対局に向けた研究の時間だって必要だ。タイトルホルダーになると、さまざまな業界との付き合いも増えるし、取材も多くなる。だからと言って、負ける言い訳にはならないので、研究時間を確保するとスケジュールは過密になっていく。貴時もこれからどんどん忙しくなるはずだし、そうならなければいけない。
「トッキーが将棋で忙しいなんて、わかってたことじゃない。そんなことで捨てたりしないよ」
「彼女にこんなこと言うのはおかしいんだけど、」
今まで飲み込んでいた言葉を、貴時はとうとう口にした。
「正直言って、ひーちゃんのことはあんまり信用してない」
「……それ、ひどくない?」
「過去の行いが悪すぎるからね」
貴時が知っている以上に不誠実な恋愛を繰り返してきた緋咲は黙るしかない。だからこそ、貴時に向ける真っ直ぐな想いに七瀬などは驚きを隠さないのだけど、本人には伝わっていないらしい。
「だから、捨てられないように頑張るよ。といっても俺にできるのは将棋だけだから、いい棋譜、いい結果を残せるように努力する」
そこは……彼女を大切にするよ、と言うところではないかと緋咲は思う。緋咲は別に貴時の将棋に惹かれたわけではないのだから。けれど、「市川四段のファンです!」とSNSで公言する女性もいるし、かわいい女流棋士との共演も多い。貴時と違って卑怯な恋愛を積み重ねた緋咲は、培われたズル賢さを発揮して、ここは将棋に集中してもらった方が得策だろうと計算した。
「そうだね。頑張って!」
純真を演じる笑顔に、貴時は真の笑顔を向ける。
「それでクリスマスなんだけど、イブは対局が夜の十一時くらいまであるから、泊まりになるんだ。だからひーちゃん、次の日東京に来ない?」
「いいの? 行く行く!」
「どこかおいしいお店聞いておく」
「うん!」
今度こそ偽りない笑顔で貴時に抱きつくと、少しよろけながらもしっかり受け止めてくれる。その肌の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、緋咲は耳元で囁いた。
「その代わり、一番最初の白星をプレゼントしてね」
耳に口づけるようにして、貴時も答える。
「約束する」
中継もされないその対局において、貴時は胸に流れ星を抱いて臨み、見事一勝を飾るのだけど、それは彼がこれから築いていく星群のほんのひとつに過ぎない。緋咲がいちいち数えていられないくらい星を贈られるのは、まだ先の話。
「緋咲」
呼ばれて顔を見ると、貴時がそっと緋咲の耳をなぞった。ゆっくり目を閉じる緋咲の呼吸は、狂おしさでいつもわずかに震える。その震えごと、貴時の唇が緋咲を包んだ。
こうして触れ合うことにずいぶん慣れてきた貴時に対して、緋咲は未だに甘く戸惑う。貴時を見つめる表情の変化に本人は気づいておらず、また『緋咲』と呼ぶだけで瞳の奥が香ることを、貴時の方でも自分の中だけにしまっている。
「貴時、愛してる」
「うん」
星の数にはまだまだ届かないその言葉を今日もひとつ重ねて、ふたりのキスは深まっていった。
fin.
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