▲15手 大金星には届かない

 晴れる日が減り、地面がいつでも湿った暗い色をするようになった十一月半ば。緋咲は助手席に大槻を乗せて、イベント会場である隣の市のホテルへ向かっている。


「守口さん、すみません。お気遣いいただいて」

「いえいえ。ほんのついでですから。それより大槻先生、お身体はもうよろしいんですか?」


 大槻は先週体調を崩して、教室も一週間ほど休んだ。それでも声を立てて笑い、緋咲の心配を否定する。


「本当にただの風邪ですから。年を取ると治りにくくて困りますね。あ、あの信号を左です」


 十一月十七日は“将棋の日”である。江戸時代に将棋が囲碁とともに幕府公認となり、将軍御前で指す“御城将棋”が行われるようになった。八代将軍吉宗によって、御城将棋は毎年旧暦の十一月十七日とされ、それを由来として制定された。

 この前後の土日には様々な将棋イベントが企画されて、もちろんたくさんの棋士が各地で将棋の普及にあたっている。


「トッキーは何時頃家を出たんでしょうね?」


 先週貴時と会ったとき、体調不良の大槻を心配しつつも、自分は付き添えないと言うので、緋咲が車を出すと名乗り出たのだ。


「市川君は昨日の前夜祭から参加してるはずなので、ホテルに宿泊してるんじゃないでしょうか?」

「そうなんですか? いいなー、トッキー。ホテルのモーニングで優雅な朝かあ」


 イベントは定期的なもの、不定期のものさまざまにあるが、今回は地元新聞社の創刊120周年記念とあわせて、貴時の地元でも大がかりなイベントが開かれることとなった。人気プロ棋士や女流棋士が五名招待され、公開対局や指導対局、アマチュア将棋大会が行われることになっている。地元出身棋士がいれば中心となってイベントに参加するのだろうが、今回もその役割は貴時が担っていた。


「大槻先生がいなくても、運営は大丈夫なんでしょうか?」

「今回は新聞社主催ですし、手は足りているようです。県支部からも若い人が出てますけど、年寄りはゆっくりイベントを楽しみますよ」


 イベントはすでに始まっているが、緋咲と大槻の目的は午後に行われる公開対局だった。プロ棋士同士の対局、アマチュア県代表と女流棋士の対局、そして貴時とプロ棋士の対局も組まれている。


「梅村一真王位、でしたっけ?……どんな人ですか?」


 梅村一真。三十八歳。十二歳で奨励会に入って十七歳で四段プロデビュー。振り飛車党、特に四間飛車を得意とする。定跡にとらわれない独創的な作戦で、タイトル獲得合計8期、棋戦優勝6回を誇る。順位戦はB級1組、竜王戦は1組に所属。

 貴時と対戦する棋士のプロフィールを読んでも、緋咲の目は文字をなぞるばかりで、一向に人物像が浮かばなかった。


「人気実力ともにある棋士です。振り飛車党……と言ってもわかりませんよね」


 えへへ、と緋咲が笑うと、大槻も声を出して笑った。


「将棋の戦法は数限りなくあって、今も新手が生み出されていますが、大きくふたつに分けられます。それが“居飛車”と“振り飛車”です」


 飛車は初形では右から二列目に置かれている。それを概ねそのままの位置で戦うのが“居飛車”、そこから左側に動かして戦うのが“振り飛車”である。


「プロのおそらく七割程度は居飛車党です。振り飛車は指したことがない、という人もいるくらいです。最初は振り飛車党だった棋士の中にも居飛車党に変える人も増えて、振り飛車党はさらに少なくなっています。また近年コンピューターソフトで研究すると、飛車を振っただけで評価値が下がるんだそうです。飛車を動かした分一手損している、ということなのでしょう」


 緋咲には当然その理由がわからないけれど、大槻にもわからない。ただ、居飛車を指すか振り飛車を指すか、ということは、ただの戦法選択以上に意味深いものであるらしい。


「ただ、アマチュア棋界は半分ほどが振り飛車党です。梅村王位は徹底した振り飛車党で、公式戦で居飛車を指したことはないそうです。それがアマチュアの振り飛車党からは強い憧憬の目で見られています。確かに、少数派でも自分を貫く姿は格好いいですよね」

「強いんですか?」

「文句なく」


 当然であるが、棋士の人気はある程度その強さに比例する。自分を貫いても勝てない棋士は認められない。どこまでも実力、結果がすべての世界だ。


「トッキーは、どっちなんですか?」

「昔から居飛車党です。奨励会に入ってから、必要に迫られて振り飛車も勉強したようですが」


 現在いるタイトルホルダー五人の中で、振り飛車党は梅村だけ。


「今日、梅村王位は手加減してくれないんですか?」


 以前貴時が使った「緩める」という言葉を思い出して緋咲は聞いた。イベントでの対局なら、地元の期待を背負った貴時に花を持たせるのではないか。ところが大槻は強く否定する。


「まさか! タイトルホルダーが平手で奨励会員になんて負けられません」

「トッキーは……?」

「当然、勝ちに行きます」


 ホテルが近づくにつれて車通りは多くなり、スピードも遅くなる。何度も信号につかまりながら、オリオンブルーの車は順調にホテルに到着した。


「奨励会に入るとアマチュア棋戦には出られませんからね。市川君の真剣勝負、私も久しぶりで、とても楽しみです」


 見上げるホテルは県内有数の高級ホテルだけあって威圧感がある。曇り空の下のその姿に、緋咲は息を飲んだ。


 結婚披露宴がふたつ同時にできそうなホールは、人いきれで暑かった。着てきたコートはクロークに預けたけれど、それでも背中がじっとりとしてきて、緋咲はニットワンピースの袖を少し捲った。


「盛況ですね」


 大槻は涼しい顔で辺りを見回し、すぐに知人に声を掛けられる。


「私、時間までラウンジでお茶飲んでます」


 緋咲を気にする大槻にそう声を掛けて、散歩がてら会場内をひと周りする。左半分では初級、中級、上級に分かれた将棋大会が行われており、すでに準決勝まで進行していた。敗れた人も右半分で行われている指導対局を受けたり、大会の行方を見守ったりと、会場の熱気は続いている。

 その中で、なんでもないネイビーのスーツにコバルトブルーのネクタイが、緋咲の目を引いた。貴時は招待棋士とともに指導対局のテーブルを忙しそうに回っている。普段着しか知らない緋咲から見ても違和感がないその姿を、自然と目で追っていた。

 やわらかい笑顔で何か話しながら一手指した貴時は、次の人のところに移動するとき、ふいに顔を上げて緋咲に気づいた。思いがけないことに表情すらうまく作れずにいる緋咲に、貴時は一瞬ふわっと笑顔を見せて、次の瞬間にはもう指導に戻っている。


「ラウンジ、行くんだったっけ……」


 やわらかいカーペットが敷かれた床は足音がしない。自分が歩いていることさえ曖昧なまま、緋咲はゆったり広く造られた階段を、一段一段降りて行った。


 一杯1000円もするのにさほどおいしくないミルクティーを飲みながら、緋咲はふかふかのソファーにぐったり座っていた。いつもなら見ている携帯も今は触る気持ちになれず、バッグに突っ込んだまま。貴時の対局が迫っているせいなのか、それとも何か別の理由なのか、身体の奥がざわざわとしてどうしようもなかった。

 ミルクティーはいまいちでもソファーの座り心地はよく、身体を預けると包まれているようで安心する。行儀悪くもたれて天井を仰ぎ見ているうちに、いつの間にか瞼が下りていた。

 目を閉じると、幼い貴時がこちらに走ってくる姿が浮かぶ。本当に小さい頃はまろぶように駆けてくるので、その身体を抱きとめ、至るところに頬擦りしたものだった。今でもありありと、あの高い体温を思い出せるのに。

 ふっと世界が陰ったので目を開けると、すっかり大きく成長した貴時が真上から見下ろしていた。


「きゃあ!!」

「こんなところでよく眠れるね」

「もうー! びっくりさせないでよー」


 貴時は笑いながら向かいのソファーに座る。バックンバックン動く心臓を力づくで止めるように、緋咲はニットワンピースの胸元をぎゅっと握った。


「ブレンドコーヒーひとつ」


 注文を終えた貴時はまだ笑みを含んだまま、ハンカチでメガネを拭いている。きちんと結ばれたネクタイのブルーが、照明の当たる角度によって色合いを変化させていた。


「……トッキー、スーツはよく着るの?」

「めったに着ないよ。なんで?」

「なんか、着慣れてるから」

「ああ、制服もブレザーにネクタイだから、そのせいだよ」


 ふーん、と答えて、ともすれば貴時ばかり見つめてしまう視線を、無理矢理手元のカップに落とした。冷めたミルクティーは一層味が感じられないけれど、600円分残すのはもったいない。貴時は運ばれてきたコーヒーをブラックのままひと口飲んだ。


「今日はありがとう。大槻先生のことも」


 改まった口調で貴時は言う。


「別に。彼氏もいなくて暇なだけだから」


 本当は職場の先輩が出産し、お祝いを渡しに行こうと誘われたのに『どうしても大事な用事がある』と断ってここに来た。以前なら「トッキーのためなら何をおいても駆けつけるよ」と言えたのに、口をついたのはそんな可愛いげのない言葉だった。


「今日いらしてる先生方は本当にすごい方ばかりだから、見るだけで価値あると思うよ」

「申し訳ないけど、私が見たってどうせわからないし、ぼんやりトッキーを応援してる」


 貴時は笑ってうなずく。


「非公式戦だから棋譜も残らないし、すっごく格好いい飛車切り見せても、どうせひーちゃんにはわからないから、気楽にやるよ」


 大槻の言ったことと違うので、緋咲は首をかしげて貴時を見つめる。貴時はもう何も言わず、少し目を伏せて、ひと口、ふた口とコーヒーを飲んだ。そしてそのまま動きを止める。伏せられた睫毛が動くことはなく、緋咲も声を掛けられないまま、時間だけが過ぎていった。


「じゃあ、もう行くね」


 それもほんの数分程度。貴時は伝票を持って立ち上がった。


「あ、ちょっと待って!」


 お金を払おうと呼び止めたのに、振り返った貴時の表情を見て言い出せなくなった。今は何も声を掛けてはいけない。


「行ってきます」


 会計を済ませて、貴時はラウンジを出ていく。その青竹のように真っ直ぐな背中を、息を詰めて見送った。

 真剣勝負だというのは、本当らしい。



「大槻先生! こっち! こっち!」

「私は後ろで立って観ますから。どうぞ守口さんおひとりで……」

「私ひとりじゃ何やってるのかわからないですから。隣で教えてください」


 尻込みする大槻を無理矢理引っ張って、緋咲は観客席の前から三列目に座った。本当なら最前列で見たかったけれど、出遅れてしまったのだ。貴時の顔が見える上手側寄りの席。


「……緊張します」


 周囲は談笑したり、非常になごやかな雰囲気なのに、緋咲は手を握ったりこすり合わせたり落ち着かない。大槻はゆったり構えているけれど深く同調した。


「そうですね」


 まだ時間はあるが何かする気持ちの余裕はなく、胃の奥からせり上がるような緊張にひたすら耐える。


「トッキーはこんな緊張も慣れてるんでしょうか?」

「ある程度は。でも少し勝手は違うでしょうね。奨励会には取材も入りませんし、タイトルホルダーと指せる機会は、プロ入りしたとしてもなかなかありませんから」


 強い棋士は予選でも上のクラスだったり、予選自体免除されていたりする。従って若手や下位の棋士は、自分が勝ち上がっていかないと対局する機会さえない。


「三段がタイトルホルダーに勝てるものですか?」


 大槻は事実と希望を織り交ぜ、慎重に言葉を選ぶ。


「『絶対に無理』ではない、といったところです」

「ちなみに可能性はどのくらいですか?」


 大槻は考えるような間を取って、それから別の話を始めた。


「昨年、神宮寺リゾート杯という棋戦が新設されたんです。全棋士参加棋戦には珍しく女流枠、アマチュア枠、そして奨励会枠があります。そこで梅村王位は奨励会三段に敗れています」


 奨励会三段でもタイトルホルダーに勝てる、しかも梅村王位に。緋咲の胸にぽっと希望が灯る。ところが。


「その奨励会員は、予選で市川君に勝って本戦に出場しました。昔小学生名人戦の決勝でも市川君は彼に負けています」


 緋咲の脳裏に、髪の毛をぐしゃぐしゃにして困りながらも、闘志だけは消さない少年の輪郭がぼんやりと浮かぶ。そして無表情の奥に涙を押し込めた貴時の姿も。


「その彼が梅村王位を破った。心中、期するところはあるでしょうね」


 梅村にとっては負けられないと言ってもイベントのひとつに過ぎない。何かを懸けるものではないだろう。しかし貴時にとっては自分の力を示すものであり、ライバルとの戦いであり、未来を占う対局なのだ。

 座席の八割が埋まった頃、『これより梅村一真王位対市川貴時三段の公開対局を行います』とアナウンスがあった。後方には沙都子と寛貴の姿もある。席を譲ろうとしたのに、「緊張しちゃって、目の前でなんか見られないわ。こんな大舞台、どうしよう……」と離れたところから祈るように見守っている。

 改めて入場した梅村と貴時は、客席に向かって一礼してから壇上に上がる。あくまで非公式戦なので、盤駒はイスとテーブルに用意されていた。

 梅村が一礼して駒袋から駒を出す。貴時もそれに応え、しずかな目で待っていた。梅村が王将を取り、次に貴時が玉将を置く。金将、銀将、桂馬……。その間、大盤の前では女流棋士がふたりのプロフィールを紹介していた。


「棋士ってみんな、あんなに手つきがきれいなんですか?」


 指先で駒の山を崩し、目的の駒を見つけるとやさしくつまみ上げる。ふわっと空中に舞うような動きのあと、祈るようなしずけさで盤上に駒を置く。

 パチリ、パチリ、パチリ、パチリ、

 集音マイクなしでも、駒音は会場によく響いていた。


「きれいですね。それぞれ個性は出ますけど、みんなきれいです。私たちも何十年と将棋を指してますが、どうも何か違う。盤に向かう覚悟の差かもしれません」


 持ち時間は十分。使い切ったら一手三十秒以内。まさに小学生将棋名人戦と同じルールで対局は始まった。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 先手となった貴時は三秒ほど目を閉じて、それからゆっくり右手を持ち上げる。

 ▲7六歩

 まず角道を開ける手だ。この一手ですでに戦形は限定されるけれど、梅村は迷いなく「△3四歩」と自らも角道を開けた。お互い探り合いながら戦法を決め、駒組をしていくのが序盤である。しかしここで大きく形勢を損ねると、挽回するのは難しい。貴時の方は慎重になっているのか、手を止めて考えている。


「ん?」


 隣で大槻が声を出したので、緋咲も小声で話しかける。


「何かあったんですか?」


 貴時は三十秒以上考えて次の手を指した。持ち時間十分なので、それなりに長考だ。


「……いや、まだわかりません」


 開けた角道を今度はお互いに止め、梅村はごく当たり前のように飛車を振った。向かい飛車と言って、相手の飛車と同じ筋に飛車を移動させる戦法だった。


「もしかしたら、」


 大槻がそう言ったとき、貴時が飛車を掴み、すうっと盤の左に寄せた。


「……振った」


 居飛車党であるはずの貴時が、飛車を振った。それも梅村が得意とする四間飛車。解説の棋士や見ている将棋ファンも、楽しそうにざわついている。


「どういうことですか?」


 大槻だけは難しそうに眉間の皺を手で揉んでいた。


「お互いに飛車を振るこの戦型は、相振り飛車と言います。振り飛車党でも、相手が飛車を振った場合は居飛車を指す人もいるので、相振り飛車の将棋は少ないんです。だから居飛車に比べて研究もあまり進んでいないし、前例も少ない」


 女流棋士にはなぜか振り飛車党が多く、従って相振り飛車に関しては女流の方が進んでいる、と言う人もいる。


「えーっと、つまり、どういうことですか? トッキーは勝てそうなんですか?」


 大槻は首を横に振る。


「わかりません。その『わからない』というところに勝負をかけたのでしょう。相振り飛車は定跡が整備されていないので自由度が高いんです。見たことない局面になりやすい。そこが狙いだと思いますが……でも、振り飛車は梅村王位の土俵ですからね」


 無表情ながらも貴時は一手一手ひねり出すように指す。対する梅村は堂々とした態度が変わらない。


「怒らせたかもしれません」


 梅村が銀を打ち付けたのを見て大槻が呟いた。まだ駒組の段階だというのに、もう攻めてきたのだ。


「怒る?」

「定跡が整備されてない、つまり前例の少ない将棋というのは、地力が試されます。特に相振り飛車はセンスが大事とされているんです。タイトルホルダー相手に、本来自分の持つ力だけで勝負を挑むのですから、不遜ですよね」


 “不遜”という言葉と貴時が結びつなかない緋咲は眉を寄せる。


「意外ですか? でも将棋を指す人間ですから、激しいものは当然持っています。指す相手に感謝と敬意は忘れない。けれど遠慮もしない」


 表情に変化はないけれど、貴時は一手一手時間を使う。しかし梅村は余裕さえ感じる早指しで対応していた。


「王位は自分の大局観に自信があるんでしょう」

「トッキーはどうなってるんですか?」

「攻めるべきか守るべきか、常に選択を迫られて時間を使わされています。王位の掌の上ですね」

「負けるんでしょうか?」

「そうならないように、今必死に考えているところです」


 貴時の無表情の上に、ほんのり赤みが差している。フル回転している脳がオーバーヒートしているのかもしれない。そしてうつくしい手つきで、貴時は角を打ち込んだ。魂の欠片が吹き出したようなその指先を見て、緋咲は生まれたばかりの貴時が、細くガサガサとした指で、緋咲の人差し指を握った日のことを思い出した。守りたいと思ったあの手は、今、日本の最高峰に向かって伸ばされている。


「ちょっと、一直線に入りましたね」

「『緩め』てもらえないんですか?」

「そんなこと、市川君だって望まないでしょう」

「じゃあ、こんなにたくさんの人の前でボロ負けするってことも……?」

「ありますね。棋士は恥ずかしい失敗も、泣きたい敗戦も、すべて棋譜として何百年も残る仕事ですから」


 この手しかない、仕方ない、そんな風に誘導され、貴時はすでに梅村勝利のルートに乗ってしまっていた。そこから外れたくても、考える時間ももう残っていない。


「20秒ー、1、2、3、4、5、6、7、8、」


 手が乱れるほど慌てて、金を打つ。取って取られて、貴時の玉のすぐそばで、持ち駒がくるくる交換されていく。緋咲の目にも、玉を守るための防御線が崩れていくように見えた。

 パチリ、パチリ、

 駒音がするたび、緋咲の胸の奥でそれとは異なる音が立つ。その音の意味を、緋咲は知っている。


「もう難しいですね」


 大槻の声に反応したかのように、貴時がふっと天を仰ぐ。肩をわずかに上下させて息を吐いてから、角を移動させた。その角は梅村の玉を睨む。しかしゆっくりと梅村は、玉を逃がした。まるで貴時が力なく向けた刃を、冷笑とともにかわすように。


「負けました」


 膝に両手を乗せて、はっきりと貴時はそう告げた。刀が地に落ちるような声だった。梅村も一礼し、会場中から拍手が贈られる。

 梅村は明るい笑顔を浮かべて話し掛け、貴時も微笑みながら応える。緋咲も精一杯の拍手を贈ったが、胸の奥で込み上げる痛みに耐えていた。その痛みの理由を、緋咲は知っている。

 完敗だったらしい。貴時は何でもないように笑っているが、緋咲には小学生名人戦のときと同じ表情に見えていた。奥歯が砕けるほどに何かに耐えている、あの顔。

 すっと大槻からハンカチが差し出され、緋咲はそれを顔にあてた。


「すみません。お手洗いに行ってきます」

「ゆっくりでいいですよ。そのあとは駐車場で待っています。今日は疲れたので、もう帰りましょう」


 グレーのハンカチの向こうから、大槻の労りが染みてきた。



 緋咲は胸に去来する想いをじっと抱き締めながらハンドルを握っていた。それは緋咲が知っているものとよく似ていて、そしてもっとずっと強くあたたかいものだった。大槻は何も言わないので、先週換えたばかりのスタッドレスタイヤの音ばかりが身体の中を流れていく。


「トッキーはプロになれるんでしょうか」

「一度負けたくらいでずいぶん弱気ですね」

「だって……」


 単純に考えれば、三段がタイトルホルダーに勝てるなんて思わない。大金星はめったに起こらないものなのだ。けれど、貴時は自分の可能性を模索して、勉強して研究して、それを練習将棋でも研究会でもなく、この舞台でぶつけてきた。だからこそ、トップとの歴然たる差を見せつけられ、自分を見失いはしないだろうか。


「奨励会で段級位を上げるには七割以上の勝率が必要です。かなり高いハードルでしょう?」


 緋咲は腫れた目で大槻を見やる。


「プロ棋士で年間の勝率一位は、高いときで八割五分です。それでも、一割五分は負けるんですよ。十割勝つ棋士なんていません」


 一局一局必死に指すけれど、棋士であるからには必ず負ける。敗戦との付き合い方も仕事の一環であろう。


「良くも悪くも、負けることにも慣れます。気持ちの切り替え方は、市川君ならきちんと身につけているはずです」

「そんなの、身につけなくていいのに」


 泣けなかった貴時を想い、自分の目から涙をこぼす。視線だけは前からそらせないので、涙は自然と膝元に落ちた。


「笑わなくていいのに。泣いたらいいのに。トッキーはまだ高校生なんだから。もっと普通にワガママ言って、普通に遊んで、普通に恋をして、そんな人生も選べたのに」


 大槻の沈黙が悲しげに変わった。


「そこは申し訳なく思っています。つい舞い上がって背負わせてしまいました」


 大槻はその昔、年齢制限より前に奨励会を退会している。段位は二段だった。夢を自分から手放した大槻が、貴時に期待するのも無理ないことなのだ。

 元より大槻の指導は甘えを許さないものであったが、プロを目指すと決めてからは一層厳しいものになった。曖昧に指した手や、油断があったとみると容赦なく叱責する。課される課題も重い上に多く、時には学校の宿題が間に合わないこともあった。

 しかし、ただ厳しく当たるだけでなく、近隣で開かれる将棋大会やプロの指導対局には、自分の車で貴時を連れて行った。それ以外にも伝を使って、アマチュア高段者や奨励会員と指す機会を設けた。金銭的にも相当負担だっただろう。地方に住み、直接強い人と盤を挟む機会の少ない貴時に、大槻はできる限りの機会を与えてきたのだ。


「……すみません」


 赤信号で止まったとき、ささっとティッシュで涙を拭いた。視界ははっきりしたのに、フロントガラスには細やかな雨粒が落ち始める。


「市川君はプロになれます。必ず」


 動くワイパーさえ見えていないように、大槻は熱っぽい声で断言した。そして、その熱を含んだまま声を落とす。


「万が一プロになれず、退会するようなことがあれば、私も教室を閉めます。これ以上誰かの人生を狂わせられないですから」

「私には、何ができるんでしょう?」


 すぐそばにいるのに、メソメソ泣くことしかできない自分が歯痒かった。


「何もできません。見守るだけです。時にはその応援すら負担になることもあるでしょうから」


 胸で痛むこの気持ちの名前を、緋咲は知っている。もうずっと昔から心の中にあったのか、今初めて芽生えたのか、それはわからない。

 それでも、小さな身体で炎から緋咲を守ろうとしてくれたのも、緋咲が何の打算もなく手を伸ばせるのも、“いとおしい”という気持ちを教えてくれたのも、貴時だった。この世界に、どれだけたくさんの人がいたとしても、そんな人は貴時しかいない。

 消耗品などではない。むしろ、結晶のように少しずつ強く大きくなっていくものだ。今なら岩永に、素直な気持ちで『負けました』と言えるだろう。









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