☆14手 黒星

 新緑の風薫る五月下旬、日曜日の朝。

 緋咲がシャワーから上がると紀子がそわそわとテレビのリモコンを操作していた。


「えーっと、あれ、これかな? あ、違う……緋咲ぃ~~~」


 最近買い換えたレコーダーの使い方を、家族で紀子だけが覚えていない。ダメなら誰かを頼ればいいという甘えた根性ゆえだ。


「お父さんは?」

「知らなーい。パチンコじゃないの?」

「私、これからデートなのに」

「デートってサッカー部の?」

「そう翔太」

「へえ、続いてたの」

「まだ一ヶ月くらいしか経ってないよ」


 タオルで髪を拭きつつ、緋咲は面倒臭そうにリモコンを受け取る。


「何録画するの?」

「何言ってるの? 今日じゃない! 小学生将棋名人戦!」


 湿ったタオルがボタリと床に落ちた。


「なんで!? まさかトッキー出てるの!?」

「今さら何言ってんの? 準優勝よ!! 何であんた知らないのよーーー! 新聞にも出てたのに!」

「新聞なんて見てないもん! なんで教えてくれなかったのよ!」

「当然知ってるものだと思うじゃない!」


 録画予約を完了し、ちゃんと予約できたことも確認すると、緋咲は自室に飛び込んで電話をかけた。


「あ、もしもし翔太? 今日のデートなんだけど、ごめん! 午後からにしてくれない?」

『はあ!? なんでだよ』

「うん、あのね。トッキーが、ほら、この前会った将棋強い子。あの子がね、小学生名人戦に出てね、その放送日だったの。準優勝だよ、準優勝! それ観たら行くから」


 ベッドに腰掛け脚をぶらぶらさせながら緋咲は話す。完全に浮かれていたために、翔太の不機嫌に気づくのが遅れた。


『……遅れる理由、それ? もう結果知ってんのに?』

「だって早く観たいじゃない。もうすっごく楽しみ!」


 放送時間を気にして、時計を見上げながら答える。


『俺よりあのガキが大事なの?』


 さすがの緋咲もその声の冷たさに気づいた。


「どっちが大事って話じゃないでしょ」

『でも俺との時間削ってあのガキ観るんだろ!』


 髪の毛も乾かしたいし、放送時間も迫っている。その焦りもあって、緋咲の怒りの沸点は低くなっていた。


「たかだか二時間程度でしょ! 小さいことガタガタ言わないでよ!」

『時間の問題じゃねーよ! どっちを選ぶかっていう話してんだよ!』


 時間に追われる形ではあったが、緋咲は迷いなく腕を振り払った。


「うっるさいなー! じゃあ、トッキーを選ぶ。あんたとは別れる。それから、あんたがトッキーをバカにしたこと、私許してないから! バイバイ」


 通話を切り、そのまま電源も落として、緋咲は急いでドライヤーをかける。リビングに駆け込むと、紀子はテレビの正面を陣取って座っていた。


「デートは?」

「やめた」


 紀子は肩をすくめただけで、座る場所を半分譲ってくれる。


「ほら、これ」


 差し出されたのは数日前の新聞。中をめくると、

『市川貴時くん(小5)小学生将棋名人戦準優勝』

 という記事があった。紙面の四分の一ほどもあって、準決勝進出者四人が並んだ写真も載っている。優勝した子のトロフィーは若干大きいように思えるけれど、四人全員がトロフィーを持っているから準優勝が誰かなんて写真だけではわからない。

 彼らを取り巻くプロ棋士はみんな笑顔で、優勝者もへらっと笑っているけれど、貴時を含めたあとの三人は完全に無表情だった。


「あ、始まったよ」


 紀子の声に顔を上げる。番組は大会のダイジェストから始まり、参加者のインタビューなども交えて概要が説明されていく。


「なんかすごいね。トッキー、こんな中を勝ち上がったの?」


 みんな真剣なのはもちろんだが、手つきや雰囲気から、大人でもかんたんに勝てる相手ではないとわかる。参加者は全国で約3000名。予選敗退した子の中からもプロになる人はかなりいるレベルなのだ。

 続いてトーナメントの組み合わせ抽選が行われた。箱に入った四本の扇子を一本ずつ取り、開くとAかBいずれかが書かれている。同じ文字を引いた者同士が準決勝を戦うことになるのだ。貴時はAを引き、第一局で兵庫県の六年生と対戦することになった。


「六年生になんて勝てるのかな」


 腕力は関係ないとは言っても、小学生の一年差は大きい。実際学年が下がるにつれて、勝ち残る割合は減っていく。相手の六年生は、平均的な身長の貴時よりも、頭ひとつ以上大きかった。

 始まる前にそれぞれの普段の様子を撮影したVTRが流された。兵庫県の六年生は、普段からプロ棋士が開いている道場に通い、プロ棋士や奨励会員と対局して腕を磨いているという。『優勝します!』『将来はプロ棋士になりたいです』どんな強気な言葉も、ただの夢には聞こえない説得力がある。

 対する貴時は、寂れた雑居ビルの小さな将棋教室で、地元のアマチュアと対局している映像が流れていた。『郷土の至宝』と紹介される。


『地元の代表が準決勝に進んだのも初めてなので、ぜひ優勝してほしいです』


 あまり多くを語らない貴時の代わりに、教室のみんなから激励のコメントが寄せられていた。大槻も、


『普段とは違う緊張感の中で、精一杯力を発揮してきてほしいと思います』


 と貴時を見る。


『がんばります』


 はにかみながら、貴時も答えた。

 続いて師匠の家に場面は変わる。広い和室で師匠と盤を挟む貴時は、普段のあどけなさなど微塵もなく、ひとりの大人と変わらなかった。


『本人はとても大人しいですけど、非常にアグレッシブな手を指す子です。以前はそれで自滅することもありましたが、最近は受けの力をつけて、安定感が出てきました』


 厳しい見た目に反して、穏やかな話し方をする師匠だった。


『いい報告が聞けるのを、楽しみにしています』


 少し微笑んでそう言われると、見ているだけの緋咲まで嬉しくなる。


「トッキーは愛されてるんだね」


 紀子も同意を示す。


「あんたも私もそうでしょ」

「そうだね」


『振り駒の結果、先手が西島君と決まりました。持ち時間は十分。それを使い切りますと一手三十秒未満で指していただきます。それではよろしくお願いします』

『お願いします』

『お願いします』


 準決勝からは放送があるので、棋譜の読み上げ係と記録係がつく。対局者を含めた四人全員で一礼して対局は始まった。


「結果わかっててもハラハラするわね」


 紀子も祈るように手を合わせて見守る。小学生の将棋はとにかく手が早い。持ち時間が短いだけでなく、ほとんど直感で指すからだ。貴時もときどき数秒手を止めて考えるものの、基本的にはパンパン駒を進めていく。


『この角を狙っていこうという手ですね』


 プロ棋士が将棋の進行と手の狙いを解説するが、


「それでどういう意味なの?」


 紀子は緋咲に聞き直す。


「私にわかるわけないでしょ」

「そうだよね」


 見ていてもわからないので、緋咲は盤の上を動く貴時の手や、表情を見ていた。


「将棋してるトッキー、ちゃんと見たの初めてかも」


 貴時はもともと感情の起伏が少ないけれど、将棋をしているとまったく顔に出ない。しかし相手の六年生が口を引き結んだり、イライラと頭をかいたりしているので、貴時が押しているのだとわかった。


『西島君は金一枚ですから、攻め方がちょっと難しいですね』


 六年生は唯一の持ち駒を力強く打ったけれど、貴時は表情を変えず、ふんだんにある持ち駒をパンパン相手陣地に打つ。


『@*&#た』


 六年生が首を振るように頭を下げ、早口で何か言う。


『ありがとうございました』


 貴時の声は大きくなかったけれど、はっきりと聞こえた。


『まで、112手をもちまして、市川くんの勝ちとなりました』

「やった、やった! トッキー勝った!」


 録画だということも忘れて、紀子と緋咲は手を叩いて喜び合う。

 対局後は、やはり淡々と博貴の待つ観覧席に戻った貴時に対し、相手の六年生は涙で声も出ないようだった。父親が、


『よく頑張ったな』


 と慰めるけれど、嗚咽が漏れるばかりだった。勝負事はいつでも誰に対してもシビアだ。


「さーって、コーヒー飲もうかなー」


 血も涙もない紀子は凝った身体を伸ばしてからキッチンに立つ。


「私も、私も!」


 ホッとしたふたりは準決勝第二局の間を休憩時間とした。お得用の醤油せんべいをかじりながら、お砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを飲む。


「準優勝ってことは、この次負けちゃうってことだよね」


 二局目を流し見ながら緋咲は切ない声で言う。


「そうね。負けるのを観るのは辛いわね」


 観るだけで辛いなら、勝負している本人はもっと辛かっただろうと、緋咲は新聞の中の貴時を見る。準優勝は本当にすごいことだけど、ここまで来て優勝を狙っていないはずはない。


「だから、教えてくれなかったのかな?」


 準決勝まで残ったことも、準優勝したことも、放送があることも、貴時は何も言わなかった。


「あれ? こっちも五年生が勝った」


 やはり体格差のある対局で、こちらは大阪の六年生と東京の五年生だった。


「この次トッキーが負けるってことは、この五年生の子が優勝するってこと?」

「そうみたいね」


 紀子も新聞を確認してうなずく。相手の五年生は貴時よりほんの少し背が高いけれど、そんなに差はない。

 いよいよ決勝が始まった。緊張はしているだろうに動きも表情も少ない貴時と、それに比べたら落ち着きなく飄々とした相手は対称的に映る。


「見た感じは六年生ふたりの方が強そうなんだけどね」

「それを言うなら貴時君なんて一番弱そうよ」

「ケンカでは勝てないだろうね」


 ケンカではないながら、パシン、パシン、と激しい駒音の応酬は続く。貴時の様子は変わらずあまり時間を使わずに指していくが、相手の方は手が止まったり、わずかにため息をつくようなところもある。


「これ、本当にトッキー負けるの?」


 結果はそのはずでも、貴時が勝てるような気がしてきて、緋咲も紀子も前のめりになる。相手は髪の毛をくしゃくしゃと握り、体勢も斜めに傾いていて苦しそうだった。その状態でも盤を見る目は鋭く、闘志はまったく衰えていないけれど。


『これは明らかに形勢が良くないので、思い切って指すしかないです』


 プロ棋士の解説でも明確に貴時が勝ちに近づいていると言っていた。緋咲はもう何度目になるのか、新聞を確認する。


「でも勝ちそうだよね」


 紀子も黙ってうなずく。


「決勝は何試合かやって勝敗決めるのかしら?」


 貴時は相手玉の近くにパシン、パシン、と駒を打ったり進めたり、どんどん追い詰めていく。


『これは詰みですね』


 解説でも貴時の勝利を確信した言いぶりになってきた。飲み残しているコーヒーも忘れて、緋咲と紀子は祈っている。


『ん?』


 貴時が飛車を進めた瞬間、聞き手の女流棋士が声を上げた。その疑問にプロ棋士が答える。


『ちょっと、手順の前後がありましたね。詰むには詰みますけど、難しくしてしまった気がします』


 そこから数手貴時が駒を進め、相手はその駒を取ったり、自玉を逃がしたりしていたが、突然相手の子が貴時の陣地に桂馬を打った。


『これは先手玉、大丈夫でしょうか?』

『いや、危ないです。非常に』


 急転直下、貴時の方が追い詰められる形となっていた。さっきまでの様子と違い、相手は落ち着いた手つきで駒を打ったり進めたりして貴時の玉を追い詰める。貴時は防戦一方となっていた。


『10秒ー。…………20秒ー』


 残していたはずの時間も使い切り、秒読みの中で玉を逃がす。その行く手をパシーンと打たれた香車が阻む。貴時はふっと肩の力を抜き、一瞬上を仰ぎ見た。その瞳にライトがキラリと反射する。


『負けました』


 両手を膝に置いて、これまでの誰よりもはっきりと貴時は投了を告げた。緋咲と紀子の方が肩を落として、緋咲などはソファーに倒れ込む。


「負けたーーーー」


 わかっていたはずなのに悔しくて仕方なかった。何が悪くてこうなったのか、緋咲にはわからない。だけど、あと少しだったことだけはわかる。あと少し。そのあと少しを、長らく貴時は背負うのだろう。

 終局後のインタビューでも、貴時の表情は変わらなかった。


『悔しいです』


 と、それだけを繰り返していた。その姿を見ていた緋咲の方が目に涙を溜める。さっきの六年生のように泣いてくれたらいいのにと思う。準優勝のトロフィーと賞状をもらってもにこりともしない貴時の内側を、煮えたぎる涙が焼き尽くしている。そんな気がしてならなかった。



 紀子が作ってくれた玉子焼きに、箸をぐさぐさ突き刺しながら、緋咲は深いため息をつく。昼休みの教室はざわついていて、緋咲の悲嘆は目の前の七瀬にしか届かない。


「それですっっかり気落ちしちゃって、昨日からなーんにもやる気しないの」

「あんた、ただの傍観者でしょうに。そんな理由で英語の予習もサボったの?」

「予習なんてやってられないよ! トッキーの気持ち考えたら、ちょっとそっと怒られたって痛くも痒くもない」

「先生かわいそ……」


 七瀬は購買で買ってきた生クリームサンドをいちごオレで流し込む。この組み合わせを彼女はこよなく愛しており、毎日三食これでいいと豪語しているが、カロリーを考慮して週一回で我慢しているらしい。


「そんな状態で映画観て面白かった?」


 ブサブサにした玉子焼きを咀嚼しながら、緋咲は首をかしげる。


「映画?」

「昨日、翔太君と観に行くって言ってたでしょ」


 それを聞いて緋咲は、箸をひらひら振り回す。


「ああ、別れた別れた」

「ええーーーーっ!! トッキーの話よりそっちが先でしょ! なんで!」

「『トッキーと俺どっちが大事?』的なこと聞いてきたから面倒臭くなったの。そんなのトッキーに決まってるじゃない。なんで同列に並べてんのよ、図々しい」


 七瀬は無言で手を振る。言いたい言葉が生クリームサンドに邪魔されて出てこられないので、いちごオレでごっくんと押し流した。


「いやいや、普通彼氏優先でしょ」

「じゃあ、七瀬は自分のお父さんと陵君だったらどっち取る? お父さん取るでしょ?」


 七瀬は心底嫌そうに、顔を歪めて言い切った。


「まさか! 陵を取るよ。緋咲はお兄ちゃんと彼氏ならお兄ちゃん取るの?」

「なんでよ。彼氏取るよ」

「ほらね。トッキー選ぶのはおかしいって」


 そう言われても緋咲にはわからない。彼氏は代わりがいるけれど、貴時に代わりはいない。“代わりがいない人”の代表として、七瀬には“お父さん”を提示したけれど、それでは納得してもらえなかった。確かに“お兄ちゃん”に例え返されると、緋咲も彼氏を取る。それならば貴時は一体何に当たるのだろう?


「ま、あんたたち、最近微妙だったしね。どうせ次が決まってるんでしょ? 今野君? 『別れるまで待ってますー』って言われてたよね」


 中学時代から何度も告白を断ってる人の名前を挙げられ、唐揚げのおいしさが半減した。


「やだよ。『ずーっと好きです』なんてなんだか怖いじゃない。別れるときこじれそう。もっと当たり障りなく、後腐れなさそうな人がいい」

「その考え方がよくないと思うんだけどね……」


 緋咲の頭の中には、少し前からよく話し掛けてくる翔太の先輩の姿が浮かんでいたが、それよりも今は貴時のことが心配だった。


「そんなことよりトッキーだよ。考えてみれば昨日のは録画だし、この前会ったときも普通に元気だったんだよね」


 何も知らずに無神経なことを言わなかっただろうかと、会話を思い返してみたけれど覚えていない。


「緋咲、将来トッキーの結婚式で泣きそう」


 呆れ顔で鏡を見ながら、七瀬はクリームがついていないかチェックしている。


「泣く泣く! 絶対泣く! 考えただけでうるうるしちゃう……。もう母親の気持ちだもん。トッキー、幸せになるんだよ……」

「お嫁さんにもトッキーにもトッキーのお母さんにも迷惑な話だよね。トッキーのお嫁さんにはなりたくない」

「七瀬なんてダメダメ! もっと優しくて純粋で、トッキーだけを一途に愛してくれるかわいい子じゃないと」

「つまりは緋咲と真逆の子ね」


 七瀬に話したおかげで、緋咲の食欲は戻ってきた。


「七瀬、帰りにドーナツ食べに行こうよ」

「ごめん。私、陵と約束ある」

「ええー! 薄情ものー!」

「そんなにかわいいならトッキー誘えばいいじゃなーい」

「トッキーは毎日将棋だもーん」


 高校生活はまだまだ新緑に彩られていて、目の前の蝶を追うのに忙しい緋咲には、たくさんのものが見えていなかった。










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