▲13手 一番星の時間まで

 オリオンブルーの車が、今週末も団地の一角に停まっている。上げ膳据え膳目的で帰省する緋咲は、毎度お使いがてら家を追い出されるのだが、今日も今日とてクリーニング店から仕上がったジャケットを受け取って来るよう、紀子に命じられた。階段を降り、102号室の前を通ったとき、思いたってチャイムを押す。


「はい」


 インターフォンを通さず、直接ドアの向こうから貴時の声がした。


「こんにちはー。緋咲でーす」


 少し大きな声で告げると、カチャリと鍵が開けられて、Tシャツにハーフパンツスタイルの貴時が現れた。シャワーから上がったばかりらしく、髪の毛が濡れている。


「ねえねえ、トッキー。映画観に行かない?」


 唐突な誘いに貴時はひとつ呼吸してから答える。


「今から?」

「今から」

「何観るの?」

「ん? 決めてない」


 貴時は一度腕時計で時間を確認してから、


「着替えてくる」


 とドアを閉めた。


 色を落とし始めたカエデが、秋の陽光を受けて、繊細な葉陰をアスファルトに落としている。紅葉までまもなくだ。その秋色の影の中を、オリオンブルーが走り抜けていく。


「観たい映画もないのに行くの?」


 厚手のシャツを羽織った貴時が、助手席から周囲に目を走らせながら訊いた。


「映画なんて暇潰しか、誰かと一緒にいるための口実でしょ?」


 映画が好きな人の中にはひとりで観たい人も、大きなスクリーンで観たい人もいるが、緋咲にとって映画とはそういうものらしい。今日は暇潰しなのか口実なのか。あえて貴時は確認しない。


「あ、次の車線は真ん中」

「おっと、そうだった」

「あとはずっと道なり」


 ナビを終えてシートにもたれた貴時は、携帯で棋譜中継を確認し始めた。対局中継の多くは、対局者の映像はなく、棋譜だけ中継される。素人には何が何だかわからないが、将棋ファンや棋士にとってはそれこそが重要。


「よし、到着!」


 サイドブレーキをガチッと踏みつけて、緋咲ははあっと息を吐く。ショッピングモールに併設された映画館なので、週末は駐車場が埋まってしまう。ぐるぐる回ってようやく見つけたスペースに、緋咲は慎重に駐車をやり遂げた。


「ひーちゃん、ずいぶん上達したね」

「さすがに毎日車で通勤してるから慣れたよ」


 ヒールのあるストラップシューズを履いていても、貴時の目線は緋咲より高い。油断すると少し前を行ってしまうその背中を、シャツの裾を掴んで引き戻した。


「トッキー背伸びた?」

「前回会ったの先月だよ? さすがに変わってない。ひーちゃんの中で、俺はいつまで子どもなの?」


 “ちいさなトッキー”は確かにいつも緋咲の中にいる。しかし、改めて貴時を見上げて言う。


「もう子どもだなんて思ってないよ。身長の話だけじゃなくてね」


 メガネ越しに貴時の目が緋咲を捉える。見上げたまま、緋咲はにっこりと笑った。


「さすがに私も子どもをデートには誘わないよ」


 暇潰しか口実というのは真実だったようで、緋咲は「トッキー選んでいいよ」と映画の選択を丸投げした。


「俺、全然わからない」


 貴時が困った声を出すと緋咲は上映リストを確認して、


「これでいっか。トッキーはいい?」


 とすぐ次に観られる作品を選んだ。タイトルさえ確認したかどうかあやしいほどの適当さだ。暇ではない貴時にとっても、映画は緋咲と一緒にいるための口実なので特に異論はない。



「結構面白かったね」


 ショッピングモール内のカフェに貴時を引っ張って行き、緋咲は満足のため息をついた。日暮れ時になり人の流れはやや落ち着いたものの、カフェ内はまだまだ喧騒に満ちている。そんな店内を眺めていた貴時も、小さくうなずいた。


「今のCGってすごいんだね」

「感想が若者らしくないな」

「だって、映画なんて本当にずっと観てなかったから。ちょっとびっくりした」


 内容は時代劇のバトルものだったけど、異能の忍術使いなども出て来てCGは多用されていた。


「『ずっと』って?」

「えーっと、小学校の卒業式のあと、家族みんなで食事に行って、その流れで。なんか犬が出てくるやつ観た」


 ゆったりイスにもたれて話を聞いていた緋咲は、悲しげに顔を歪める。


「映画観る時間もないの?」

「そういうわけじゃないけど、ひとりでバスに乗ってわざわざ来るほど観たい映画もなかったし」

「友達は?」

「みんな受験だから」

「あ、そうだったね」


 貴時は大学受験をしないので緋咲も忘れていたけれど、高校三年生の秋はもう瀬戸際だ。授業以外にも講習に塾にと余裕などないだろう。貴時はいつでも受験生のような生活をしているから、緋咲も感覚が麻痺していた。


「そうそう。ちょうど渡そうと思ってたんだ。この前旅行行ったお土産」


 バッグに入れてあった箱と袋をテーブルの上に並べる。


「こっちはおじちゃんおばちゃんと一緒に食べて。で、これはトッキーに」


 小さな紙袋から中身を取り出して、貴時は怪訝な顔をする。


「……ありがとう」


 貴時が歓喜にむせび泣くとは思っていなかったし、この反応は緋咲も予想済みのことだ。もらったものが何なのかわからないらしい。


「それマスキングテープ。かわいいでしょ? トッキーの好きなものなんて将棋くらいしか知らないから」


 先日のシルバーウィークを利用して、緋咲は七瀬と隣県まで旅行に行ってきた。温泉と買い物を兼ね一泊二日で。市川家には温泉宿の名物である黒糖まんじゅうを買ったけれど、そこにたまたま売っていたのでつい買ってしまった。


「使い方がわからない」


 駒の柄がついたマスキングテープをピリッと剥がして、貴時は粘着力を確認する。


「例えば写真をデコレーションしたり、ちょっとした贈り物のときラッピングに使ったり」


 緋咲もさほど使わないものなので、貴時なら尚更だろう。メガネの奥でぱちくりと一度まばたきをした。


「機会があったらそうする」


 このマスキングテープは永遠に来ない機会を机の中で待つことになりそうだ。


「トッキーはよく東京とか大阪行くけど、ついでに観光したりしないの?」

「そんな時間ないし。毎月行くから目新しさはないよね。ちょっと友達とご飯食べるくらい」

「東京に……友達いるんだ」

「いるよ。一緒に研究会してる人もいるし」

「え? 将棋仲間?」

「そうだよ。交遊範囲狭いのは自覚してる」


 将棋仲間とは将棋の話ばかりするのだろうか? それとも好きな漫画の話や恋愛の話もするのだろうか? いずれにしても貴時がそんな時間を過ごす相手がいるとわかり、緋咲は心底ホッとした。微笑んだ口元のままカフェラテを飲むと、貴時はまた携帯を確認していた。


「トッキー、もしかして迷惑だった?」


 難しい顔でディスプレイを睨む貴時に、緋咲はおずおずとそう聞いた。三拍ほど遅れて、貴時は緋咲に向き合う。そのときにはいつもの貴時の顔だった。


「ごめん。なんだっけ?」

「やっぱり、誘って迷惑だったよね?」


 視線で携帯を示すと貴時はそれを確認して、首を横に振った。


「迷惑じゃないよ。今ちょっと気になる対局があって。ごめん。落ち着かないよね?」


 今度は緋咲が首を横に振る。


「トッキーが大変な時期なのわかってるから、無理して付き合ってくれなくていいんだよ」

「無理な時は断ってる」


 確かに誘っても二回に一度は断られる。だからこそ二回に一度は無理して会ってくれているんじゃないかと思うのだ。


「時間のこともそうなんだけど、この前七瀬に言われてね。あ、七瀬って中学校からの友達で……」

「わかるよ。何回か会ったから」

「その七瀬がね、『トッキーを彼氏の代打に使うな』『彼女になる人がかわいそう』って」


 いつもの貴時でも、棋譜をチェックしている貴時でもなく、感情の読めない表情で緋咲をじっと見つめ返す。


「…………だから?」

「うん。だからね。トッキーももしかしたら迷惑だったかなーって」


 貴時はゆっくりコーヒーをひと口含み、そっと深呼吸して、身体の奥からせり上がる感情を必死に落ち着けた。


「ひーちゃんは、俺に彼女ができたらどうするの?」

「さすがに誘えないよ。彼女に悪いもん」


 目を閉じて、今度は浅く何度も呼吸を繰り返す。緋咲はこういう人だ。昔からずっとこういう人だ。

 貴時の気持ちなど考えない緋咲は、この時もまた大きな爆弾を投下した。


「だけど、やだな。トッキーに彼女ができるの」


 貴時の心を揺さぶることなど、緋咲にとってはスティックシュガーの空袋を折り畳むついでにできることなのだ。


「……それは、どういう意味?」

「どういうって、そのままの意味だよ?」


 本当にそのままの意味だろう。貴時に彼女ができるのは嫌。会えなくなるのは嫌。恋愛遊戯に興じてきても、相手の気持ちを深く考えたことのない緋咲は、自分の気持ちに素直であり、同時にその先まで考えることはしない。

 諦めることにも、感情を出さないことにも慣れた貴時は、自然な口振りで返した。


「昇段するまでは彼女作ってる余裕なんてないよ」


 外はずいぶん暗くなり、カフェの灯りとふたりの陰が窓の外に漏れ出している。それでもまだ家々の間をたゆたう太陽の残滓と、まばらに散っている雲に遮られて星空は遠い。身体が千切れるほど高く手を伸ばしても、今は届かないだろう。


「そんなこと言われたら、応援したくなくなっちゃう……」


 折り畳まれたスティックシュガーの袋に向かったつぶやきは、さっきより幾分重いものだったが、店内の喧騒に紛れて貴時の耳には届かなかった。

 夏の名残が失われて、十七時を過ぎると夜の気配がする。子どもだと思っていなくても、高校生を連れ回すには不適切な時間帯である。緋咲自身は母親の顔色をうかがいつつ、月明かりの下でも遊んだものだが、立場が違えば行動も変わるものだ。


「帰ろっか」


 古く男女は朝の訪れを恨んだものであったが、貴時との別れの時間は一番星が告げる。これが成人相手なら、いや、せめて高校を卒業している人であれば「もっと一緒にいて」と袖を引くところなのに。

 楽しかった時間を惜しむ以上に重い気持ちで、緋咲は車のハンドルを握る。助手席の貴時は黙って座っていた。その目はフロントガラスを通して行く先だけを見ている。昔からあまり自分の話をしない貴時が何を思い、何を望むのか、緋咲には想像もつかなかった。


「トッキーは免許取らないの?」


 田舎の移動のメインは自家用車である。緋咲もそうであったように、大抵は高校卒業後か大学生のうちに免許を取って、就職と同時に自分の車を持つ。


「昇段してから考える」


 今の貴時からは、何を聞いてもこの答えしか返ってこない。そして、昇段できないなどという考えもない。


「昇段したらますます忙しくなっちゃうね。免許取って、映画観て、旅行も行って。あと……恋愛も」


 貴時は返事をせず、窓枠に肘を乗せて、連なるテールランプを眺めていた。


「今だってたまにしか会えないけど、全然会えなくなっちゃうのかな。トッキーが団地を出ちゃったら、偶然会うこともなくなるもんね。トッキーをテレビやネット中継でしか見られなくなるんだろうな」


 すれ違う車のライトが、表情のない緋咲の顔の上を次々に通り過ぎていく。


「それで何年かしてお正月に実家帰ったとき、『家族が増えました』って年賀状見つけたりして」

「俺、ひーちゃんの家には年賀状出してない」


 呆れたような温度の低い声で、ようやく貴時は反応した。車の振動と一緒に、その声は胃の奥に響く。


「そんなことより、曲がるところ通り過ぎるよ」

「え? ……あ!」


 交差点を通り抜けながら、曲がるはずだった道を見送る。


「ごめん。次の道曲がって戻るから」


 道路は一本道に入り、しばらく曲がれるところはない。


「いいよ、ゆっくりで。ところでさ、」


 ダッシュボードの上から、貴時が紙を持ち上げた。


「これ、行かなくていいの?」

「…………忘れてた」


 一体どこまでジャケットを取りに行っているのか。貴時はクリーニングの引き換え券にある住所を確認して、頭の中に地図を開く。


「次の信号を左」

「……はい」


 ふたりの“デート”はもう少しだけ延長された。







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