☆12手 星蝕

 小学生将棋名人戦は日本将棋連盟の主催で、この棋戦で好成績を収めた小学生が、その年に奨励会入会を果たすことも多い、プロへの登竜門的棋戦である。当然たくさんの現役プロ棋士がこの棋戦を経験している。

 毎年三月に各都道府県予選が行われ、四月に代表者一名(東京都のみ二名)が東日本、西日本に分かれ、各チーム四名でのリーグ戦を戦う。リーグ通過者はふたつの山に分かれてトーナメント戦を行い、準決勝進出者二名を選出。そして五月、東日本代表と西日本代表の計四名がトーナメントで優勝を争う。

 この棋戦の準決勝・決勝の様子は録画され、地上波で放送されることも大きな特徴だった。ゆえに、小学生棋戦の最高峰とも言われている。


 貴時は大槻将棋教室に通うようになってから初めて教室を休んだ。去年に続いて小学生将棋名人戦の県代表になり、東京で開かれた東日本大会に昨日まで出場していたのだ。これまでも大槻は「遠征で疲れているだろうから休みなさい」と言ってきたけれど、貴時の方が休まなかったのだが、それを初めて受け入れた形だった。

 駐輪場の隅に座って、貴時は四つに折ったルーズリーフを開く。それは昨日の大会のトーナメント初戦で、埼玉県代表の六年生を破ったときの棋譜だった。今朝早起きして書いたこれを、緋咲はきっと褒めてくれるに違いない。

 四月半ばの地面は乾いているものの冷たく、貴時は鉄製の錆びた柱にもたれてお尻を持ち上げた。今度は膝が痛くなったので立ち上がる。しばらくして脚が疲れてくるとふたたび地面に座った。それを何度か繰り返すうちに空の色は変わり、気温はグッと冷え込んでくる。ルーズリーフを持つ指先がかじかんで、息を吹き掛けてこすり合わせた。手袋を取りに戻りたかったけれど、その間に緋咲が帰ってくるかもしれないと思うと戻れず、手を擦りながら頭の中で緋咲の笑顔を思い描く。

 そのうち、まぶしいほどの西日が広がり、団地の入口は暗い陰に覆われた。強い橙色と伸びる影は、たとえがたい不安を呼び起こす。緋咲はまだだろうか。約束のない彼女の頭には当然貴時のことなどあるはずがない。

 太陽をまともに見た貴時の目は眩み、暗い玄関口の人影に一瞬気づかなかった。太陽の残像が消え、見えてきたふたりの影のひとつが緋咲だとわかると、寒さで固まった身体を無理矢理動かして走り出す。

 ところが10mほど走って貴時の足は止まった。緋咲は隣を歩く背の高い影と手を繋いでいた。


「送ってくれてありがとう。じゃあ、また明日」


 緋咲は貴時には気づかず、繋いでいた手をほどいて団地の入口へと歩き出した。ところが背を向けた途端、離したはずの手がふたたび掴まれ、強く引っ張られる。反動で振り向いた緋咲の唇は、強引な唇によって塞がれ、乱暴に弄ばれた。貴時の目に、それは大きな黒い影が緋咲を覆って、蝕んでいくように見えた。


「んんんんんーーっ!! んんーーっ!!」


 抗議の声を上げる緋咲を、男はむしろ楽しそうに拘束する。身をよじっても頭と背中をきつく押さえられていて容易にはほどけない。ミルクチョコレート色の髪が、武骨な手によって絡まっていく。

 ようやく右手を抜いた緋咲は、全身の力を込めて相手の額を押しやって離れた。


「ちょっと! 家の前ではやめてって言ってるでしょ!」

「ははは。ごめん、ごめん」


 翔太は明るくて楽しいところが気に入って、緋咲が付き合っている彼氏だった。しかし最近無神経さが鼻についてきたところでもある。緋咲がハンカチを取り出して遠慮なく口を拭っていると、


「あー、お子さまには刺激が強すぎたかな?」


 と翔太が笑った。その視線にさらされても、貴時は無表情のまま立ち尽くしていた。


「おかえり、トッキー。今、将棋の帰り?」


 今のやり取りには触れず、緋咲はいつもと変わらない笑顔を貴時に向けた。貴時は何も答えず、緋咲の乱れた髪の毛に目を向けている。


「将棋?」


 反応したのは翔太の方だった。


「そうそう! この子、同じ団地の子なんだけど、ずーっと将棋頑張ってるの。すっごく強いんだよ!」


 誇らしげに緋咲は言ったけれど、翔太は鼻で笑って貴時に近づく。


「将棋もいいけど、男ならサッカーやれ、サッカー。その方が絶対モテるから」


 緋咲の眉間に皺が寄る。怒鳴らなかったのは、若干ながら残っている恋心が邪魔したせいだ。モテたいがためにサッカーをやり、事実その成果を出している翔太にとっては、絶対的真理なのだろう。

 貴時の頭を翔太の大きな手がポンポンと叩く。その瞬間、それまでピクリとも動かなかった貴時が、思い切りその手を払った。


「ぼくは将棋がいい」


 貴時の目に、翔太などは映っていない。誰に何を言われても、貴時が信じたひとは別にいる。大切に持っていたはずのルーズリーフは握り潰され、手の中でしわしわになっていた。


「将棋があればいい」

「へえ」


 振り払われた手で翔太はふたたび強く貴時の髪を乱し、言葉を失う緋咲に近づく。


「じゃ、緋咲。また明日」


 ミルクチョコレート色のセミロングにもう一度キスをして、翔太はニヤリと笑って帰って行った。


『緋咲』

 翔太に言われたどの言葉より、その呼び声が耳に残って、今は「ひーちゃん」と呼び掛けることはできそうにもない。

 余韻を消し去るように緋咲は髪の毛を払い、貴時と目線を合わせる。


「トッキー、ごめんね」


 貴時は黙って首を横に振る。悪いのは緋咲ではないのに、なぜそんな顔をするのか。それすら腹立たしかった。


「私はずっとずーっと応援してるからね」


 翔太によって乱された髪の毛を直すように、緋咲は貴時の頭を撫でる。生まれて初めて、その手を振り払いたいと思った。


『小学生名人戦で準決勝まで残ったよ!』


 一番伝えたいひとに、一番伝えたいことは、とうとう言えなかった。









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