▲11手 図星の苦味
こんな田舎のホテルにドレスコードなど存在するのか知らないけれど、恥はかきたくないので、緋咲はノースリーブのサマードレスで国際ホテルのラウンジにやってきた。
「さすがに中は冷えるね」
羽織っているカーディガンを脱ごうとしたものの、思い直してふたたび着る。
「そのワンピースかわいいね。だけどカーディガンない方がラインきれいじゃない?」
七瀬は良くも悪くも率直にものを言う。こういうところはやはり女友達だ。男よりツボを心得ている上に嫌みがないので、緋咲も素直に受けとる。
「でしょ? でしょ? 一目惚れして買ったの。でも素材的に汗吸わないし、冷房の中だと寒いし着る機会なくて」
緋咲同様カーディガンを羽織っている七瀬も深く同意を示す。
「こっちは夏も短いもんね。本っ当に暑いときは結局Tシャツ着ちゃって、気づいたら季節はずれになってる」
東京に住む七瀬ならまた違うだろうが、北国では残暑の季節もごく短い。「涼しくしてください」と流れ星に願う間に、秋は近づいている。
「そうなの。だからこれだって結局今日初めて着たよ」
ようやくメニューに手を伸ばした緋咲に、七瀬は驚いた声を出す。
「へー! あんた、本当に彼氏いないんだ!」
「いないよ。何? 憐れみ?」
口を尖らせる緋咲に、七瀬は身を乗り出す。
「どのくらいいないの?」
「こっち戻って来てからだから……半年くらい」
「そんなの初めてじゃない?」
メニューから目線を外して、本来なら思い出したくもない過去の記憶をたぐる。
「…………そうかも。私、やっぱりパンケーキはダブルにする」
「私はシングルでいいや」
七瀬が会釈するとスピーディー且つスマートにスタッフがやってきた。
「パンケーキダブルとアイスミルクティー」
「私はパンケーキシングルとエスプレッソで」
「かしこまりました」
スタッフが下がるやいなや、緋咲は悲鳴に近い声をあげる。
「エスプレッソぉぉぉ!?」
つい去年まではチョコレートケーキにハニーミルクティーを合わせていた七瀬だ。緋咲からするとエスプレッソなんて裏切りに等しい。
「私も飲むようになったのはごく最近」
七瀬は疲れた顔で近況を語り出す。
「最初は仕事覚えるのに必死でね。毎日残業、土日も勉強。せめて飲み物くらい癒されたいから甘いの飲んでたんだけど、」
水で口を湿らせて、深いため息をつく。
「だんだん気持ち悪くなってきちゃって。結局甘くないお茶とかブラックコーヒーになっていったの。疲れてぼんやりする朝なんて、エスプレッソくらいじゃないと目が覚めない」
緋咲の職場は比較的のんびりしていて、仕事に慣れるのはそれなりに大変でも、そこまで残業が続くことはない。特に四月五月は研修のようなもので、ほぼ定時に帰っていた。環境によって人は味覚も変わっていくものらしい。
「トッキーもブラックコーヒー飲むようになっちゃったし、みんな私を置いて大人になっていくよー」
仕事を思い出して暗くなっていた七瀬の表情がパッと明るくなる。
「懐かしーい。緋咲のかわいいトッキーね! いくつになった?」
「高校三年生」
「そんなになったの? なんだ、全然かわいくないじゃない」
頬杖をついて吐き捨てる七瀬は心底つまらなそうだ。
「最後に会ったときは小学生で、かわいかったのになあ」
緋咲と七瀬は中学校時代からの親友で、七瀬が遊びに来た折り、貴時とも会っていた。遠慮なく貴時を撫で回す七瀬の手を、緋咲は何度振り払ったかわからない。
「まだ高校生だよ」
「大学一年のバカな男ども思い出してみてよ。あと半年もすればあれと同じだよ? 全っ然かわいくない」
相手が貴時ということを抜いて考えると、七瀬の言うこともなるほど一理ある。が、一理あるだけだ。
「お待たせ致しました」
やってきたパンケーキは、プロの手によるものだけあって、分厚くうつくしい。ダブルになるとほとんどタワーに見える。
「これ久しぶり」
笑顔でナイフを差し入れる七瀬は、それでも以前のようにメープルシロップをひたひたにかけたりしなかった。バターをしっかりぬって、ほんのひとたらしシロップを落としただけ。その程度では物足りなく、結局たっぷりシロップをかけた緋咲は、寂しい気持ちで七瀬のパンケーキを見ていた。
「みんな変わっていくんだね」
「緋咲だって変わったよ。私、あんたは男がいないと生きていけない人だと思ってた」
「それひどい」
「ひどかったよ~。高校のときなんて『恋は消耗品』って言ってたし」
甘いパンケーキを口に入れたのに、辞書に実例として載りそうな渋面ができあがる。
「……思い出したくないこと思い出した」
「ふふふふ。岩永君の『トイレットペーパー』ね」
七瀬の言う通り、当時緋咲は恋は消耗品だと公言していた。恋のはじまりはドキドキワクワク楽しくて、それがだんだん少なくなっていくからだ。慣れたころにはもう恋心は使い果たし、嫌なところが見えてくる。そうなればお取り替えの目安。言葉通り短いスパンで彼氏をとっかえひっかえしていた緋咲に、同じクラスの岩永が言ったのだ。
『守口さんって、人生捨ててるの?』
むしろ春を謳歌しているつもりだった緋咲は腹が立って、
『どこに運命の相手がいるかわからないでしょ?』
と言い返したのだけど、岩永にはまったく響かなかった。
『ふーん。守口さんはトイレットペーパーみたいな恋愛に運命感じるんだな』
当時岩永には三上という中学時代から付き合っている彼女がおり、恋愛観は真逆だったのだ。
「岩永君、結婚したらしいよ。三上さんと」
ふわんふわんのパンケーキが喉に詰まり、ミルクティーで流し込む。
「うわーーー、最悪……」
「大学卒業を待ってすぐに。緋咲の恋愛は私もどうかと思うけど、あれはあれでレアケースだよね」
人は変わっていくものだし、取り巻く環境も変わっていく。その中で恋心だけ変わらないなどということが、緋咲には想像できなかった。岩永のそれは確かに恋だと思うけど、変わっていく中で見つける恋を認めない狭量な男など、緋咲とて願い下げだ。
「ヤツのは鋼鉄の恋心だったか。雨降って錆びてしまえ」
「緋咲が恋愛休んでるのは、何かきっかけでもあったの? 仕事忙しいとか?」
いつも恋が終わるころにはたいてい次の恋が見えていたし、たまに切れてもすぐに見つかった。中学校二年生で初めて彼氏ができて以来、独り身の期間はひと月と空いたことはなかった。
「前の彼氏と別れたのは、就職でこっちに帰ってきたからなんだけど、そういえばいないなーって感じ」
「職場で出会いはないの?」
「食事に誘われたりはするよ。だけど面倒臭いから断ってる。今は別にいらないかな。デートしたければトッキー誘ってるし」
「トッキーも彼女いないんだね」
これまで考えもしなかった事実に、緋咲の手が止まった。
「いるわけないよ。大変な時期なのに」
「ああ、受験?」
「そうじゃなくて将棋! あと段位ひとつ上がればプロになれるんだから!」
東京の大学に進学した七瀬は、当然貴時の記事を読んでいない。
「そうなの? じゃあすぐだね」
三段リーグの厳しさをここで語る気持ちにはなれず、パンケーキで口に蓋をする。
「でもそのうち彼女のひとりくらい作るでしょ。いつまでもトッキーに恋人の代打させてるわけにいかないよ?」
パンケーキに甘味を感じなくなって、緋咲はメープルシロップを足した。それでもふわふわのパンケーキがべちゃべちゃしただけで、元のおいしいパンケーキには戻らない。
「トッキーも、恋愛するのかな?」
「あんたの乱れた高校生活忘れたの? 男子高校生なんてあんなもんでしょ」
「トッキーはあんな男たちとは違うよ!」
「自分の元彼つかまえて本当にひどい女だね」
食べる気力が失せてフォークとナイフを置いた。七瀬は相変わらずパクパク食べているから、ここの味が落ちたわけではないらしい。
「トッキーに彼女できたら、緋咲、嫉妬に狂ったりして」
「……そんなことない。トッキーには幸せになってほしいもん」
誰より貴時の幸せを願う気持ちはある。だけどそれと貴時が恋愛することとが、緋咲の中ではうまく結びついていない。もしかしたらこれまでにも好きな人はいたのだろうか? 今だって本当はいるかもしれない。
「ところで、パンケーキとホットケーキって、結局何が違うのかな?」
唐突に話題を変えたのに、七瀬は特に気にした様子もなかった。
「さあね。私は同じだと思ってるんだけど、こんなふわふわのじゃなくて、家で作るペナペナのも好きだよ」
「あ、それわかる!」
「この前寝ぼけて作ったら卵を間違って二個入れちゃって、牛乳も足りなかったから半分お水入れたの。そうしたら生地べちゃべちゃで、このパンケーキの半分以下の薄さだったんだけど、すっごくおいしかったよ!」
「へえー! 今度やってみよう!」
「やってみて、やってみて。トッキーにも作ってあげな」
思わずすがった、小さな震える腕を思い出した。あの手は昔から緋咲の側にあって、そして駒を持つものだった。それがこれから先、誰かに向けられることだって当然あることなのだ。実際、貴時に憧れる女の子はいたのだから。
「ホットケーキ、作るの苦手なんだよね」
不思議そうな顔をする七瀬に気づかず、ミルクティーにガムシロップをもうひとつ入れて、からんとストローを回した。
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