☆10手 団地の中の星彩


「ひーちゃん!」


 暗がりの駐輪場を照らす街灯の下に、四年生になった貴時の姿があった。緋咲を認めると、熱中していた詰将棋の本を閉じて走り寄る。


「あ、トッキー! ただいま」


 高校受験を控えた緋咲は、週二回通っている塾から帰ってきたところだ。自転車に鍵をかけ終えるのを待って、貴時は黙って一枚の紙を差し出す。


「わあ! ありがとう、トッキー」


 丁寧にノートを破って四つ折りにされたその紙を、大切に受け取る。それは先日の子ども将棋大会の二回戦で、貴時が五年生に勝ったときの会心譜だった。結果は決勝で六年生に負けてしまったが。

 棋譜など見たところで緋咲にはさっぱりわからないけれど、街灯の下で紙を広げ、ひたすらに並んだ符号をざっと見る。


「頑張ったんだね。えらい、えらい」


 まだ見下ろせる位置にあるやわらかな髪を、ぐちゃぐちゃかき混ぜるように撫でた。手書きで書かれたその文字からは、貴時が緋咲のために一生懸命書いてくれたことが伝わってくる。きっと将棋の内容も、自分で納得のいくものだったのだろう。それならば、わからなくとも手離しで褒めるに値する。


『プロ棋士になりたい』

 一年生のあの夜、ひとりで将棋教室に行ってはいけない、と両親が言い出すより先に、貴時はそう告げた。その言葉で、たくさんの大人が動き、貴時本人の生活も変わることとなった。

 小学校一年生がひとりで学区外の将棋教室に行ってはいけない。但し、プロを目指すなら話は別。

 大槻の言葉を貴時はそう受け取っていた。将棋はただのゲーム。勉強より、学校のルールより優先していいものではない。しかし、それが将来の職業であれば、ただのゲームや習い事と同じではない。


「本当の本当にプロ棋士になりたいの?」

「なりたい」

「プロ棋士が何か、わかってるのか?」

「将棋で生きていくってこと」


 いつかこんなことを言い出すのではないかと、貴時の両親は大槻からプロ棋士について話を聞いてはいた。しかしそれがこんなに早く訪れるとは思っていなかったので、おおいに戸惑っていた。


「もう少し大きくなってから考えたら?」

「もっと他にもたくさん仕事はあるぞ?」


 これまで将棋に関して、貴時が両親の思い通りになった試しはなく、この時もまた断固として譲らなかった。

 結局両親はいつものように大槻に相談し、諦めさせないまでも、もう少し保留させようと考えた。ところが大槻はまったく別の覚悟を持っていたのである。


「市川君に初めて会ったときから、こうなるような気がしていました」


 そしてカウンターの引き出しから一通の手紙を取り出し、貴時の両親に差し出した。


「先日、プロ棋士の石浜和之先生に市川君の棋譜を見ていただいたんです。小学一年生、初段の将棋はまだまだ粗いし拙い。でも、市川君には確かな才能を感じるんです。それが私の贔屓目でないかどうか、確めたくて」


 博貴が手紙に目を通してから、沙都子に渡す。手紙の内容は、いつでもいいから一度本人に会いたいというものだった。


「いくら才能があって周りが期待しても、本人にやる気がなければプロにはなれません。でも市川君がその気なら、進んでみるべきだと思います」


 貴時の将棋熱はよくわかっているし、どうやら向いているらしいとも思っていたが、それでもあくまで趣味の範囲内だと思っていた。


「何も今すぐでなくても。もう少し、たとえば中学生くらいになって考えてもいいのではないですか?」


 子どもには健康で伸び伸び育って欲しい。沙都子の願いはそれだけだった。好きなものを一生懸命するのはいいけれど、可能性を狭めることもしたくない。

 ところが大槻の考えは真逆だった。


「プロ棋士を目指すということは、他の可能性を捨てるに等しいことです。中学生なんて遅過ぎる。市川君の伸び盛りは今です。それなのに将棋を取り上げられようとしている。もしご両親の都合でサポートが行き届かないというのなら、私がそれを担いましょう」


 言葉通り、大槻は両親とともに学校に出向き、貴時にとって将棋が遊びや習い事ではないこと、今後もそれによって学校を休んだり、遅刻や早退する可能性があること、またプロになる道の厳しさなどを一生懸命説明してくれた。運よく、貴時の担任はプロ棋士に関する知識があったため、その理解は早かった。そして将棋教室については、学校が終わったら大槻が迎えにくることと、帰りは両親が迎えに行くことで折り合いがつき、それ以来現在に至るまで貴時の都合で休んだことはない。



「トッキーも頑張ってるんだから、私も頑張らないとね」


 緋咲の手のぬくもりがまだ残っていても、別れの時間はすぐにやってくる。駐輪場から自宅まではほんの30mだ。


「じゃあトッキー、またね」


 引き止めるテクニックも理由も、貴時にはない。


「ひーちゃん!」


 それでもつい口から出た声に、階段の中ほどで緋咲は振り返る。


「……ひーちゃんも、がんばってね」


 貴時の目に映る緋咲の笑顔は、古い団地の階段には不釣り合いなほど輝いて見えた。


「ありがと、トッキー!」


 階段を上っていく足音を聞きながら、貴時は自宅のドアノブに手をかける。すると慌てたように足音がダダダダーッと戻ってきた。


「そうだ! トッキー、今週の土曜日、将棋教室お休みなんでしょう?」


 今週は大槻が東京で開かれる結婚式に出るからと、教室が臨時休業することになっていた。


「おじちゃんもおばちゃんも仕事なんだって。だからちょっとの間私と待っていようね」


 四年生にもなるのだからひとりで留守番くらいできるけれど、緋咲が来るなら断る理由なんてない。


「わかった」

「うふふふ。楽しみだね」


 タンタンタンと弾むように緋咲は階段を上っていく。その足音がドアの向こうに消えてから、貴時は今度こそ自宅へ入った。



 土曜日の午後、沙都子が仕事に出るのと入れ違えるように緋咲はやってきた。


「ごめんね、緋咲ちゃん。よろしくお願いします」

「はーい、大丈夫だよ。おばちゃんもお仕事頑張って」


 ひらひら手を振る緋咲の横で、貴時は無表情を作っていた。緩めてしまったら母親に何か言われそうで、できるだけ不機嫌に。


「トッキー、何して遊ぼうか。あ、トッキーの部屋見せてよ。そういえば入ったことない」


 許しを請うように顔を覗き込むので、貴時は黙ってうなずく。


「ありがと! お邪魔しまーす!」


 かつて物置部屋だったところは小学校入学を機に貴時の部屋になり、狭いながらきちんと片付けられていた。兄のいる緋咲は男の子の部屋は散らかっているものと思っていたけれど、想像とはまるで違う。


「でも、やっぱり男の子だね」


 カラーボックスの中にはミニカーや電車のオモチャが詰まった箱があり、部屋の色味も全体的に落ち着いている。


「親戚の人がよくくれるんだ」


 ブロックにパズル、粘土、折り紙。普通の家にあるものは一通りあるような部屋だけど、


「ここはさすがだね」


 本のラインナップはほとんどが将棋関係だった。


「これ全部読んだの?」

「うん」

「これも?」


『決定版! 将棋名局大全』

 緋咲が指差したその本は辞書ほどの厚さがある。


「うん。一応ひと通りは並べた」

「『並べる』?」

「それ棋譜だから。棋譜はそれを見ながら同じように駒を並べて勉強するものなんだ。それで手の流れとか、意味とか、思考なんかを勉強する」

「……ごめん。聞いてもわからなかった」

「うん。そうだと思う」


 緋咲はバラバラバラッと本をめくる。本のところどころには開いた癖がついていて、これが飾りでないことを証明していた。


「でも、トッキーがすごーく頑張ったってことはわかったよ。これ全部読むのだって大変だもん」


 ニコニコ笑ったまま緋咲は本をカラーボックスに戻し、そのまま隣にあるベッドの下を覗き込む。


「さすがにここはまだか」


 隙間には何もなく、きちんと掃除機もかけられている。


「何してるの?」

「何でもないよ。うちのお兄ちゃんはよくここに“大事なもの”を隠すからね」


 怪訝な顔をする貴時に、緋咲はそれ以上教えるつもりはないようで、学習机の上にある将棋盤を指先で撫でた。


「トッキーの大事なものは、これだもんね」


 窓から入る光が、微笑むその口元を掠めて、将棋盤の上に落ちている。いとおしむような指が、光に浮かぶ黒いラインをなぞっていく。


「ひーちゃんの大事なものって何?」

「そんなのトッキーに決まってるじゃなーい」


 盤に触れていた手で、今度は貴時の頭をグリグリ撫でたあと、緋咲は遠慮なくベッドに座った。桃に似た香りがようやく少し遠ざかって、貴時も机のイスに座る。


「師匠って怖い?」


 貴時は少し考えてうなずいた。


「見た目は、ちょっとだけ」

「どんな人?」


 貴時は立ってカラーボックスから将棋雑誌を取り出した。『石浜和之八段が分析 A級順位戦展望』というページを開いて写真を指差す。


「この人」

「あ、本当だ。怖そう」

「でもやさしくてかっこいいよ。将棋指せばわかる」



 貴時が石浜に初めて会ったのは、二年生になろうとする春休みのことだった。目まぐるしく変化する環境の中で、当の貴時もそのすべてを把握していたわけではない。それでもプロ棋士に会えるということが、とても貴重で重要だということは理解していた。


「はじめまして。市川貴時です。よろしくおねがいします」


 緊張しながらも事前に練習した挨拶をきちんとこなした貴時に、石浜はニコリともせず、視線で部屋の隅に寄せてある脚付の盤を示す。


「早速、将棋を見よう」


 本来必要な会話さえなく、石浜の指導は始まった。付き添った博貴と大槻は応接間で待たされたため、ふたりの間でどんなやり取りがなされているのかわからない。せっかく遠方から来たのだし、二~三時間じっくり指導して欲しいと思って待っていたふたりは、とうとう八時間待たされることとなった。

 夜九時。石浜とともに応接室にやってきた貴時は、疲れてはいたものの、顔は希望に満ちていた。ほんのり頬を紅潮させ、


「弟子にしてもらった」


 と、博貴と大槻を驚かせたのだった。



 どんな局面でどんな手を選ぶか、また対局に臨む姿勢など、動きの少ない競技にも関わらず、将棋にはその人の性格が如実に現れる。幼い貴時は盤を挟んで師匠のその人柄に惚れ込んだらしかった。

 緋咲には、髪の毛の薄くなった厳しい顔の老人にしか見えないけれど、貴時の憧れが本物であることは理解できる。


「そっか、そっか。いい師匠に出会えてよかったね」


 緋咲はペラペラと雑誌をめくる。当たり前だけど、将棋のことしか書いていない。棋譜の解説や戦法の解説、インタビュー、コラム、詰将棋。緋咲にわかるのは少ないカラー写真程度だった。


「トッキーも和服で対局したりするのかな?」


 険しい表情で駒を持つ写真の棋士は、黒っぽい和服を着ていた。

『王位戦第三局は竹藤七段が制し、一勝二敗に』


「和服はほとんどタイトル戦だけだから、プロになってもそうそう着ないと思う」

「じゃあタイトル戦に出てよ。トッキーの和服見たいから。七五三のとき、メッチャクチャかわいかったんだもん!」


 かんたんに言うなあ、と貴時は呆れてしまう。タイトル戦に出るということは、タイトルホルダーを除いた全棋士の中で、一番になるということだ。時にそれは、タイトル奪取よりも難しいとされる。緋咲はいつもかんたんに、貴時に大きなことを迫る。


「がんばる」


 満足そうに笑って緋咲は雑誌を閉じた。


「お腹すいたね。ホットケーキ焼いてあげるよ。ミックス持ってきたんだ」



 失礼しまーす、と市川家の冷蔵庫を開けて、緋咲は中身を物色する。


「あ、よかった。卵も牛乳もある。ボールとフライパンある?」


 貴時がガスの下からフライパンを、シンクの下からボールを取り出す間に、緋咲は泡立て器とフライ返しを探し出していた。


「すぐできるから、ちょっと待ってて」


 楽しそうに卵を混ぜる緋咲を残して、貴時はリビングのソファーに移動した。


「フライパン、あっためておいた方がいいかなー」


 聞こえてくる緋咲の声に口元を緩めながらも、最新の研究書の続きを開いた。

 一瞬で没頭していた貴時が異変を察知したのは、動物的本能だったのかもしれない。静まり返ったキッチンの様子に、貴時は研究書を置く。


「ひーちゃん?」


 呼び掛けても返事はなく、キッチンを覗くと、緋咲は燃え上がる炎を前に立ち尽くしていた。あたため過ぎたフライパンに油を入れた瞬間、一気に炎が上がったのだった。


「ひーちゃん!!」


 貴時の声にハッとして、緋咲は我に返る。


「水!!」


 慌ててボールに水を入れる緋咲に貴時は叫んだ。


「水は入れちゃダメ! 爆発する!」


 ガシャンとボールを取り落とし、振り返った緋咲の顔には色がなかった。


「ちょっと待ってて! ガス止めて、あとは離れて何もしないで!」


 貴時は風呂場へ走り、掛かっているバスタオルを掴むと残り湯の中に沈めた。軽く絞ってふたたびキッチンへ走る。緋咲は言われた通りガスを切って、少し離れたところから衰えない炎を見つめていた。


「これ掛ければ収まるはずだから。ちょっとさがってて」


 緋咲を庇うように貴時は前に出る。バスタオルを広げてフライパンにゆっくりと近づいた。炎は貴時のすぐ目の前。暖房とは違う原始的な熱さに手が震えるけれど、構っていられない。


「貸して。私がやる」


 震える貴時の手に、震える緋咲の手が重なった。炎は身長約130cmの貴時の顔の高さにある。貴時より20cm以上高い緋咲の方が危険は少ないはずだ。こんな小さな子に、守られているわけにいかなかった。


「トッキーは離れてて」


 真っ赤に燃える炎は辺りに熱と光を放っていて、近づくほど熱さもまぶしさも強く感じる。腕を目一杯伸ばし、俯きそうになる顔を必死に持ち上げながら、炎に近づいた。息を止め、フライパンの上に覆い被さるようにしてバスタオルをかける。


「熱っ!」


 バスタオルを持つ指先が、一瞬炎の中を通り、逃げるように手を離してしまう。それでもバスタオルはフライパンを覆って、炎は見えなくなった。十秒、二十秒、三十秒……待っていても炎が上がってくる様子はない。ホッとすると力が抜け、その場に座り込んでしまった。手も身体も膝も小刻みに震えている。


「……よかった」

「ひーちゃん!」


 貴時の腕が緋咲の肩と頭を抱き締めた。支えているようにも、すがるようにも見える、幼い腕。守らなければいけないはずなのに、大きく見えた背中だった。

 貴時にしがみついて、緋咲は泣いた。情けないとか、みっともないとか、考える余裕はなかった。貴時はただひたすら、腕に力を込める。


「トッキー、ありがとう。よく知ってたね」


 涙が落ち着いた頃、緋咲はそう言って、まだ少し濡れている貴時の手を握った。


「幼稚園のとき、テレビで実演してるの見たことある」

「そんなの覚えてたの? やっぱりトッキーはすごいよ」


 フライパンはしずけさを保ったままだが、まだ近づく勇気は出てこない。床にポタリ、ポタリと滴を落とすバスタオルは水色で、車の柄がついていた。







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