▲9手 星屑砂糖とブラックコーヒー

 社会人生活を順調にスタートさせていた緋咲は、会社の近くにアパートを借りてひとり暮らしをしていた。しかし何しろ実家までは車で十分。休日のサービス出勤なんてない、いたって善良な会社なので、ゴールデンウィークものんびり帰省していた。


「ゴロゴロしてるだけなら、帰って掃除でもしたら?」


 粘着クリーナーでコロコロと膝をつつかれ、緋咲は仕方なくソファーの上に避難する。


「掃除洗濯は済ませてきたよ」

「じゃあ、友達と出掛けたら?」

「みんな新生活で忙しいみたい」

「デートしてればいいじゃない」

「こっちに戻って来るとき別れたよ。遠距離なんて無理だし」


 さすがに就職してひと月は慣れるのに精一杯。恋愛に余念のない緋咲といえど、気楽に実家で休みたかった。


「あ、牛乳ないんだ。緋咲、ちょっと買ってきて」

「牛乳なんていらなーい」

「夕食はシチュー作るのよ! あんたもシチューは食べるでしょ?」


 ゴミだと言わんばかりに全身をコロコロされるので、やむなくソファーを降りる。


「牛乳だけでいい?」

「とりあえずは。何かあったら連絡する」


 ポケットに携帯を突っ込み、お財布だけを持って靴を履いた。五月の朝晩はまだ冷えるけれど、日のあるうちはアウターなしで行動できる。

 気持ちよく晴れているから歩いて行こうかな。……やっぱり面倒だから車で行ってしまおう。

 車のキーをチャリチャリ指で振り回しながら階段を降りて、駐車場を素通りした。すでにこの団地の住人ではない緋咲には、正式な駐車スペースはないので、敷地の隅の少し空いた場所を少々お借りしている。

 就職すると同時に買った車の色は、オリオンブルーというらしい。目立つその色のすぐ近く、駐輪場でよく知る背中を見かけて、緋咲は踊るような足取りで近づいた。


「ねえねえ少年、暇ならお姉さんとデートしない?」


 高校指定のシールを貼った自転車を、貴時は慣れた仕草で停めているところだった。


「しない」


 珍しく不機嫌を隠さずに、貴時は自転車に鍵をかける。


「えー! 行こうよ。おごるから」


 シャツの袖を引っ張ったら、それも乱暴に振り払われた。


「行かない」


 目も合わせずに貴時は自宅へ帰ろうとする。


「トッキー……」


 久しぶりに会えた高揚感が一気にしぼんで、反動でじわっと涙が滲む。何がそんなに気に障ったのか、それとも貴時にどんな心境の変化があったのか、緋咲には理解できなかった。

 緋咲にとって貴時は昔からずっと子どもだったから、まさか子ども扱いしたことを怒るなんて想像できるわけがない。貴時も貴時で、緋咲に対しては剥き出しになってしまう感情を、コントロールできるほど大人ではなかった。

 しかし声の変化を敏感に察知して、貴時は振り返った。慌てて緋咲のところに戻るけれど、涙ぐむ彼女を前にどうしたらいいのかわからず、さっきまでの強気な態度は、砂より脆く崩れ去る。


「俺におごらせてくれるなら、行ってもいいよ」


 緋咲はうるんだ目で不思議そうに貴時を見上げた。


「なにそれ? 男のプライドか何か?」

「まあ、そんなところ」

「高いよ?」

「いいよ」

「国際ホテルのラウンジで、パンケーキダブルとか頼んじゃうよ?」

「いいよ。でも、その格好で?」


 デニムにカットソーはともかく、ヒールのないサンダル履きの足を見下ろして、ホテルのラウンジという選択肢は消えた。

 しかし元よりパンケーキやコーヒーが目的ではない。さっきの不機嫌の理由はどうあれ、付き合ってくれるとわかった途端、現金な緋咲の涙はまばたきひとつで吹き飛んだ。


「じゃあ、私の車乗って。高ーーーいコーヒーでも飲みに行こう!」


 自転車で冷えたのか、冷たい貴時の手を引いて車に向かう。何気ないその手を、貴時もそっと握り返した。



「生意気なトッキーのおごりだからね。贅沢にキャラメルラテにしちゃおーっと」


 緋咲がパタンと勢いよくメニューを閉じると、その風で前髪がふわっと散った。貴時が店員に向かって、すみませんと手を上げる。


「キャラメルラテひとつと、本日のコーヒーひとつ」

「かしこまりました」


 店員が下がってから、緋咲はふたたびメニューを開く。キャラメルラテ460円。本日のコーヒー480円。


「……これも男のプライド?」

「違うよ。どんなのかなー? って単純に」

「生意気~~~!!」


 ふんっと拗ねて窓の外を見る緋咲の姿に、貴時はふっと笑みを漏らす。お姉さんぶるくせに、背伸びしようとしないところがなんとも緋咲らしくて。

 半分下ろされたブラインドの隙間から、傾き始めた日差しが入り込み、緋咲の顔を照らしている。大学卒業を機会に色のトーンを落とした髪の毛が、光の中では透けるように明るくかがやいていた。緋咲の目線が外にあるのをいいことに、貴時はその横顔をじっと見つめる。


「今日はもしかして仕事だった?」


 パッと表情を変え緋咲が貴時を見たので、テーブルの端に立ててあるメニューを整えるふりをして、視線の先を誤魔化した。負の感情が持続しないところが、昔から緋咲の長所である。流れる車を見るよりも、貴時の話を聞いた方がずっと楽しいと判断したのだ。


「うん。月に一回の指導の日」

「学校もあるし、忙しいね」


 貴時は地方に住んでいるから引き受けていないけれど、奨励会員にはプロ棋戦での記録係の仕事が振られることもある。学校に通い、記録係や指導の仕事をして、自分の対局の準備をする。奨励会の例会は月二回だけど、ぼんやりしていると将棋に使える時間はどんどん減っていく。


「学校はあと一年で終わるから」


 昔、例会は平日に行われていて、奨励会員は学校を休んで例会に出席していた。記録係も平日の仕事なので、常に出席日数との戦いだったらしい。またプロ棋士の認知度も低かったために、学校側の理解を得るのも難しかったという。奨励会員の進学率が高くなって、例会は土日に開かれるようになったものの、それでも両立は相当に負担である。貴時もまた、奨励会員にはよくあることだけど、修学旅行も文化祭も、例会と重なったために欠席していた。


「本当ならもっと何も考えず、周りに甘えていい時期なんだけどね」

「いや、俺は全然足りてない」


 貴時最初の三段リーグは、8勝10敗。一期抜けどころか、勝ち越しもならなかった。そもそも4連敗スタートと、最初から昇段戦線を離脱していた。「必ず一期で抜ける」その意気込みが空回りしたようだ。

 三段リーグは、プロの順位戦同様、前期の成績によって、次期の“順位”が決まる。成績が同じ場合、前期の順位が上の方が昇段できるから、例え昇段を逃したからと言って、その後の対局をおろそかにはできない。連敗の後を8勝6敗。最終日は二連勝を決めた貴時のモチベーションは、落ちていなかったと言える。


「世の中には努力を努力とも思わず、呼吸するみたいに研究に没頭できる人間もいるんだよ。俺ももっと頑張らないと」

「本当に大変なんだね、将棋って」

「大変だけど、でも将棋は努力したらちゃんと成果が出るから。努力ではどうにもならないことだってたくさんあるでしょ?」

「そう言われちゃったら、その通りなんだけどさ」


 やってきたキャラメルラテは、緋咲の手に渡る前から甘い香りがした。貴時の本日のコーヒーは品評会で入賞した豆を使った、この時期限定のブレンドだとか力の入った説明がなされたけれど、甘い匂いに紛れて香りはよくわからない。ミルクの泡とキャラメルソースをスプーンで混ぜて口に含むと、貴時の方は一瞬メガネを曇らせながらブラックのままコーヒーを飲んでいた。


「品評会入賞の味はどう?」

「おいしいよ。どこがどうかはわからないけど」

「ちょっとちょうだい」


 一瞬躊躇ったように見えたけれど、すぐにソーサーごと渡してくれる。まだ熱いコーヒーは深い色味に反して軽く、さらりと喉を通っていった。


「あ、思ってたよりは飲みやすい」

「大人になれそう?」

「やだ。それでもやっぱり苦いもん」


 すぐさま口にしたキャラメルラテは、やさしく緋咲の舌を包む。


「トッキーはいつからブラックが飲めるようになったの?」


 貴時は少し首を傾けながら、もうひと口コーヒーを飲んだ。


「中三の頃かな。師匠に教えていただいたり、研究会に参加させてもらったりすると、みんなにまとめてコーヒーが出されるんだ。そういうとき、砂糖やミルクが欲しいっていうと、余計な手間をかけさせちゃうでしょ? それに残すのも申し訳ないし。それで最初は我慢して飲んでた」


 お砂糖が欲しい、そんな小さなワガママさえ遠慮するような環境に貴時は身を置いていたのだと、舌に残る甘さが罪のように疼く。


「甘ければもっとおいしいんじゃない? 今は好きなだけ入れてもいいんだよ」


 テーブルの端に置いてあるシュガーポットを引っ張り出すが、貴時は意外にも首を横に振った。


「そうとも限らなくて。ブラックだと気にならなかった酸味や苦味を、砂糖が入ると逆に感じたりすることもあるんだよ」


 そう言いながらも貴時はシュガーポットの蓋を開け、中からゴロゴロとした固形のコーヒーシュガーをひとつ取り出す。カップを外してソーサーの上にコーヒーシュガー置くと、スプーンの背でそれをつぶした。砕けたコーヒーシュガーは、真上からのライトを浴びて、星屑のようにキラキラと輝く。貴時はそのひと欠片を口に入れ、それからコーヒーを飲んだ。


「俺はこうやってバラバラに味わう方が好きだな。ちゃんと甘くて後味はすっきりするから」


 その飲み方が正しいのか行儀が悪いのか、緋咲にはわからなかった。けれど、貴時がずっと遠くに行ってしまったような、心もとない気持ちになる。

『幼なじみって、そんなに近しいものですか?』

 そもそも自分と貴時の距離は近いのだろうか? 遠いのだろうか? 結局緋咲は、甘いキャラメルとともにそれらを全部飲み込んだ。


「そういえば、今七連勝中だよね。おめでとう」


 今期の三段リーグは四月の下旬に開幕し、五月に入ってすぐ二回目の例会があった。貴時はどちらも二連勝し、現在4勝0敗。前期から合わせて七連勝中だった。


「ありがとう。でも三段になると連勝は関係ないからね。必要なのは今期どのくらい勝ち星を挙げたかだけ」


 去年『一期で抜けたい』と言っていたときと違って、力が入りすぎず抜けすぎず、冷静な声だった。


「落ち着いてるなあ」

「将棋はメンタル勝負だから」


 将棋というのはもちろん研究や経験、才能などの勝負ではあるのだけど、読む力には相当メンタルが影響する。苦手意識がある相手だと、恐怖や焦りから余計な不安を抱えて手が縮こまってしまったり、逆に勝てている相手だと思い切りよく指せて、形勢が悪くとも最後まで諦めずに粘れる。それが勝敗に直結していくのだ。奨励会では年齢制限が近く焦りを感じている人は負けやすく、若い人は伸び伸びと指せて勝ちやすい、とも言われるほどだ。


「AIみたいに安定して、怖がらず焦らず、常に最善手を探せたらいいんだけど」

「あ、ダメダメ、そういうの。そんなロボットみたいな人ってさ、少しのバグでエラー起こしてメチャクチャになるのがオチじゃない? 人間なら迷って悩んで苦しんで恋もして、そうやって強くならないと本物じゃないよ」


 貴時は身体を震わせ、身をよじって爆笑する。


「あははは! ひーちゃんらしいなあ」


 ひとしきり笑うと、またひとつコーヒーシュガーの欠片を口に含み、コーヒーを飲んだ。笑いを収めた貴時は笑顔のまま、少し切なげな目を緋咲に向ける。


「そうだよね。そもそも俺の将棋って、この心と一緒に育ててきたものだから」


 かつてクリクリと透き通っていた目は、複雑な色を湛えて言葉以上の何かを物語る。


「ひーちゃんは、メンタルの鍛練ばっかり積んでるからなあ」

「……なによそれ。今は仕事一筋で頑張ってるよ」


 貴時は一瞬驚いたように目を大きくして、それからふわっとそれを緩めた。


「そっか。だったらずーっとお仕事頑張っててよ」


 うなずけばいいのか、反論すればいいのか、緋咲はわからずにキャラメルラテを飲んだ。貴時との時間は慣れたものだし楽しいのに、表現しがたい居心地の悪さを持て余す。するとタイミングよく、ポケットで携帯が震えた。


『シチューのルーも買ってきて』


「牛乳もない。ルーもない。いったいどうやってシチュー作るつもりだったのよ。もうポトフでよくない?」


 買い物のことなんて、今の今まですっかり忘れていた。


「トッキー、帰りにちょっとだけスーパーも付き合ってね」


 母からのメッセージにどこかホッとして、緋咲は携帯をポケットにしまい直した。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る