☆8手 天満星に誓う
貴時はひとり自転車を漕いで家路についていた。補助輪は取れているので大きな音はしないものの、ライトの点灯するギュウーン、ギュウーンという重い音が響く。
小学生になってからまもなくして、貴時はひとりで大槻将棋教室に通うようになっていた。しかし、学校に知られればきっと禁止されてしまうので、誰にも言っていない。そして、そのことを唯一知っている緋咲が、誰かに告げ口することも絶対にない。
だから貴時の“趣味”が将棋であることはみんな知っていたけれど、アマチュア初段という段位を持つことまでは知られていないはずだった。
アマチュア初段とは、ある程度ひとつの目標となる段位である。ぼんやり指しているだけでは取れず、そこそこの勉強と経験がなければ到達できない。申請すれば連盟から棋士の直筆署名入りで免状ももらえるため、大人でも目標とする人はたくさんいるレベルだ。
従って、将棋を始めて一年、小学一年生で初段というのは、“異例”の部類に入る。小さな地方都市でそれは、どんなに隠していても目立った。
「おまえ、将棋強いんだって?」
五年生の
貴時のクラスで将棋を指せる子はほとんどおらず、貴時も学校で将棋を指したことはない。それなのになぜ自分が指名を受けたのか、考える間もなく雅希は貴時の前の席に座って将棋盤を広げる。駒を並べるその手つきから、それなりに指せる子であることはすぐにわかった。わからないことはたくさんあっても、目の前に駒を並べられたら、貴時に拒む理由はない。
「よろしくお願いします」
貴時はいつも大槻から厳しく言われている通り、はっきりした声で雅希に頭を下げた。ところが彼は答えもせず、歩をピシッとひとつ進める。美濃囲い四間飛車。学校で目にするとは思わなかったけれど、貴時にとっては珍しい戦法でもない。将棋教室でよく指す“中西さん”が得意とする戦法だったからだ。いつもそうであるように、貴時は相手の出方を伺いつつ玉を穴熊に囲う。初めて指す相手への期待でドキドキはしたけれど、緊張や恐怖はなかった。
昼休み終了まであと三分。雅希は黙ったまましばらく動いていなかった。穴熊は組むまでが大変だけど、組んでしまえば非常に守りが固い。貴時の玉はほころびひとつなく安全で、雅希は一方的に攻め潰された。もう投了するしかない状態なのに、すでに五分はこの状態のままだった。
「昼休み終わるよー」
担任の先生が入ってきて、雅希は慌てて駒をしまう。投了の声は、ついになかった。
「あら、将棋? どうだった?」
走っていく雅希は何も答えず、見ていただけのクラスメイトに勝敗はわからない。
「……いちかわくんが勝ちました」
悔しさを滲ませた声は、優希のものだった。
「五年生に勝ったの! すごいね、市川君!」
弟の微妙な心理を察することなく、先生は声を大きくした。
「でも先生! こいつズルい! 将棋教室に通ってるんだよ。だから初段なんだって!」
先生は驚いて貴時を見た。とっさに怒られると思ってぎゅっと目を閉じる。しかしその頭にあたたかい手がポンポンとのった。
「初段なの。それはすごい! 市川君、今度先生にも将棋教えてね」
貴時が目を開くと先生はすでに背中を向けて教壇に向かっており、
「はい、座ってー。授業始めるよー」
と声を張った。かぶさるように授業開始のチャイムが鳴っている。
優希も自分の席へと戻って行こうとして、貴時の横で足を止めた。チャイムの余韻が残る中、貴時にだけ聞こえるように低い声で言う。
「足も遅いし、勉強もできないし、将棋しかできないくせに偉そうにするなよ。バーカ!」
ひとつひとつの言葉を吟味するよりも、向けられた敵意に貴時は傷ついた。将棋を指せば勝敗がつくのは当然のことで、これまでそのことを責められたことはない。中西も悔しそうに頭をかきむしることはあるけれど、
「市川くーん、もう一回! もう一回だけやろう!」
と笑って手を合わせてくるのが常だ。貴時はいつも大人に囲まれていて、かわいがられてきたことに初めて気づいた。
それから二日間。自分に非がないからといって、さっぱり割り切れる性格でもなく、貴時は重苦しい気持ちで将棋盤に向かっていた。始まってしまえば読みに集中するから気にならないけれど、頭に余裕ができると、考えても仕方のないことで悩んでしまう。そんな時間を将棋教室で過ごした帰り際のことだった。
「市川君」
大槻に呼ばれて、貴時はカウンターの横にある応接セットに向かった。長年使われて色褪せたピンクのソファーは、貴時の身体には大きく、端に腰掛けても脚は宙に浮いた。
「ちょっと、確認の電話があったんです」
大槻には珍しく、言葉を選んで濁すような口振りだった。
「ここにひとりで来るのは、あんまりよくないかもしれません」
「……どうしてですか?」
すがりつくような貴時の声に、大槻は困り果てて白髪混じりの眉を下げる。
「詳しいことはお家に帰って、お父さんとお母さんから聞いてほしいんですけど、ここに通ってるお客さんのひとりが、学校に報告したみたいなんです」
直感的に、優希のお父さんか誰かだろうと貴時は感じた。貴時が初段を持っていることを知っていたのだから、この教室に来ていてもおかしくない。
「私が悪かったんですよ。市川君の熱意が嬉しくて、そんな基本的なところを見て見ぬふりをしてきました。今度はお父さんやお母さんと一緒に来てください」
貴時はパンツの膝のところをぎゅうっと強く握った。
「お父さんもお母さんも仕事が忙しくて、なかなか来られません」
「来られるときだけ来ればいいんです。無理することじゃありません」
「でもぼくは来たいんです。将棋が指したいんです。毎日」
貴時のうるんだ視界では見えていなかったけれど、大槻もひどくやさしい目に、うっすらと涙をたたえていた。
「市川君」
しかし声に変化はなく、いつものやさしくも有無を言わさない迫力を持って、ゆっくりと話した。
「将棋はただのゲームです。何より優先していいことじゃありません。決まりを守ること、お父さんとお母さんの言うことを聞くことの方がずっとずっと大切です。プロ棋士になるならともかく、本来なら友達と外で遊んだり、学校の勉強をすることの方が大切でしょう。人生は長い。この先いくらでも将棋を指す機会はあります。私はいつでもここで待ってますから」
跨線橋の急坂は、小さな自転車の貴時には上れず、いつも降りて引っ張って歩く。まだ五時だというのに世界はフィルターを通したように薄暗く、弱々しい自転車のライトは行く先を明るくしてはくれない。足取りが重いのは、自転車のせいでも、坂道のせいでもなかった。
『将棋はただのゲームです』
大槻からそう言われたこともショックだった。親と一緒なら来てもいいと言われたが、実際には禁止に近いものだろう。これが書道やサッカーであれば、何も言われなかったような気がするからだ。
事実、ひと昔前はガラの悪い大人が出入りし、煙草の煙が充満する道場が存在したことも確かだった。大槻のところも含め現在の将棋教室は健全であるが、出入りする大人と自由に将棋を指す空間が、習い事と認められるのは難しいかもしれない。
将棋を好きなのはダメなことなのかな。サッカーや勉強の方がよかったんだろうな。
上り坂が終わっても自転車に乗ることを忘れて、足をひきずるように前に進む。いつもの倍以上時間をかけて帰ったせいで、団地に着く頃にはすれ違う人の顔さえはっきりわからないほど、あたりは暗くなっていた。
「あれ? トッキー?」
やってきた自転車のライトがまぶしくて目を伏せていたら、頭の上で声がした。
「すっかり寒くなってきたねえ。今将棋の帰り? 相変わらず、頑張ってるね」
緋咲の自転車のかごには、少し離れた大きなスーパーのビニール袋が入っていた。中身は牛乳らしい。緋咲は牛乳が嫌いだから、頼まれたものに違いない。身長も自転車のサイズも違う緋咲を貴時は見上げる。その差は、いつも以上に高く感じられた。
ひーちゃんなら、ひとりでおつかいも頼まれる。きっと将棋教室に通うことも許される。その自転車で、どこまでも行けるんだ。
実際のところは六年生といっても緋咲とて小学生で、貴時と同じルールに縛られている身だった。けれど、このときの貴時はそんなことは知らず、緋咲は自分の無力を強く感じさせる存在だった。
「将棋を指すのは、そんなに悪いことなのかな?」
前触れもない質問だったのに、緋咲は間髪入れず、
「なんで? いいことでしょ」
と、あっけらかんと答えた。
「でも、足が速い方がよかったよね? 頭がいい方がよかったよね? 将棋じゃない方がよかったよね?」
好きなものが勉強だったら、人気のあるサッカーだったら、もっと人生に役立つものだったら、理解されやすいのは事実である。将棋はただのゲームでしかなかった。
貴時の様子がおかしいと感じた緋咲は、自転車を降りてストッパーをかけた。同じように貴時の自転車も停めてやり、暗くて見えにくい分、貴時のすぐ目の前にしゃがんで顔を見る。
「トッキーは足も遅くないし、勉強だってできるよ。将棋ができすぎちゃってるから、ちょっと目立たないけどね」
優希にはああ言われたけれど、貴時は決して運動も勉強も不出来なわけではなかった。飛び抜けてできるわけでもなかったから、将棋だけが異常に得意なことは否めないが。
「トッキーは将棋が好きなんだから、将棋を一生懸命頑張ればいいんだよ」
それは単純な励ましだったけれど、貴時が今一番欲しい言葉だった。貴時の頬を涙がとめどなく流れていく。おつかい帰りの緋咲は、それを拭ってやるハンカチもティッシュも持っていない。かつて、歩き始めたばかりの貴時をさんざん支えたように、緋咲はこのときも、倒れそうな貴時を全身で支えた。行き場のなかった貴時の涙は、嗚咽とともに緋咲の肩にどんどん染み込んでいく。
「トッキー、何かを好きになることに、悪いことなんてないよ」
貴時はもう答えられず、緋咲に強くしがみつく。緋咲からは桃のようなやさしい匂いがした。
「例え他に何もできなくたっていいじゃない。大切なものは少ない方がいいよ。トッキーの手は小さいから、たくさんだとこぼれちゃうって」
このとき貴時の目には、緋咲の肩越しに一面の星空が見えた。しかし後にあれは事実ではなく、ただ自分の心が見せた幻だったのだろうと貴時は回想する。秋の日暮れは早いとは言え、まだ夜の入り口。まして住宅街でそんな星空など見えたとは思えない。それでも、星によく似た希望の光は、何年経っても色褪せることなくかがやいて、貴時を支え続けた。
地平線に日の名残はあるものの月はなく、澄んだ夜空に痛いほどの星がきらめいている。貴時の頬に触れる緋咲の真っ黒な髪の毛にも、そのかがやきが照り映えるようだった。
あたたかい緋咲の腕と星の光。貴時の小さな身体は、そのふたつで満たされていった。
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