▲7手 『誠心星為』
大きな窓に沿って並ぶカウンターの隅で、緋咲は地元ラーメン店の醤油ラーメンをすすっている。チャーシュー二枚にメンマとネギ。これといって特徴のないラーメンだ。イベントがあるときの昼、フードコートなど当然混んでいて、背後のテーブル席は喧騒に満ち満ちている。
感想戦が終わったのは十二時半を回った頃。サロンコーナーは交代で人が付くけれど、イベントも一旦お昼休憩となった。貴時は控え室で、提供されるお弁当を食べているだろう。
窓は中庭に面していて、広がる芝生もぐったり暑そうに見える。強い太陽光が池に反射して、水面の揺れに合わせてキラキラとその破片をばら撒いていた。
「ひーちゃん、それ好きだよね」
空いていた隣の席にまず紙コップが置かれ、続いて人影が座った。ラーメンをすすっている途中だったので、すぐには確認できなかったけれど、「ひーちゃん」と呼ぶのは貴時しかいない。
「『好き』っていうか、これなら失敗しないでしょ?」
ラーメンスープはその土地によって特徴が違う。地元に愛着がないようでいても、身体に染み付いたものには逆らえない。どんなにおいしいラーメンであっても、別の地域の出汁では満たされない何かがある。
「そういうのを『好き』って言うんじゃないの?」
「言われてみればそうかも。結局最後に食べたい味って、慣れたものだよね」
感心する緋咲に笑いながら、貴時は紙コップを傾けた。
「それ、まさかブラック?」
蓋で見えない中身を想像して緋咲は訊ねた。
「ううん。ミルクティー」
甘いものには甘くないものを。昨日そんな大人びたことを言っていた少年は、今日ずいぶんかわいらしいものを飲んでいた。
「頭使ったから糖分欲しくて」
頭の疲れを取るかのように、貴時はゆっくり左右に首を傾けている。
「でも余裕そうに見えたよ」
「今回は遠島さんの作戦負けなところもあったから」
何のてらいもなく貴時は言う。
「トッキーでもアマチュアに負けたりするの?」
「アマチュアでも強い人は強いよ? 元奨励会三段だってたくさんいるし、アマ名人あたりになるとさすがに楽じゃないよね」
重い頭を支えるように頬杖をつく姿は、すでにずいぶん疲れて見えた。
「これから指導対局ぶっ通しで三時間でしょ? 大丈夫?」
「将棋指すこと自体は問題ないよ。勝たなきゃいけないものじゃないから。だけど、複数の人の相手をするって、単純に大変だよね」
「指導対局だと負けてあげたりするんだ?」
「『
貴時ははっとして、
「ごめん。ちょっと気が緩んじゃった」
と恥ずかしそうに反対側を向いた。対局が終わった直後のせいか、いつもより饒舌だ。
「いいよ、いいよ。トッキーが頑張ってるのわかって嬉しいから」
貴時の将棋が、昔と比べてどのくらい強くなったのか、緋咲にはわからない。しかし、“緋咲のかわいい弟”とはもう違うのだと、感じざるを得なかった。多種多様な人に合わせ、時には人のプライドを傷つけないように気遣うことは、ブラックコーヒーを飲めること以上に大人だ。
「ひーちゃんは、いつも闇雲に褒めるよね」
俯いてメガネを直す貴時ににっこり笑いかけると、肩から髪がさらりと落ちた。
「だって将棋なんかわかんないもん。だから、私はいつでも無条件で味方でいる」
意識しての言葉ではなかったけれど、それはその通り実践され、これまで多く貴時を支えてきた。緋咲本人よりそのことを知っている貴時は、まばゆい夏の景色を前に、秋の夜空を思い出す。
「対局中って何考えてるの?」
ラーメンをすする隙間を利用して、緋咲は漠然とした質問を放った。
「え? それは将棋のことだよ」
「それはそうだけど! もっと具体的にさ。さっき大槻先生に少し教えてもらったけど、考えることたくさんあって、すっごく難しかった」
「ああ! 見てた見てた! いじめられたみたいだね。いいなあ。俺もひーちゃんに『負けました』って言われたい」
「絶対に嫌!」
あはは! と楽しそうに貴時は笑って、それから宙を見つめて考える。
「読んでるとき考えることだよね? うーん……そもそも序盤、中盤、終盤で違うんだけど」
「難しいことはわかんない」
「ひーちゃんは何が難しかったの?」
固いチャーシューを咀嚼する横顔を、貴時はおだやかな目で見つめる。
「駒の動きを考えて、取られないように、とか取られたら取り返せるように、とか考えるだけで時間かかっちゃって、どうしたら勝てるかまで頭回らない」
当然だが、緋咲の口にしたレベルのことなど、貴時は考えてもいない。そんなことは脊髄反射でできることだからだ。それでも貴時は笑ったりせずに、真剣に耳を傾けていた。どんなに初歩的なことでも、緋咲が将棋に興味を示してくれただけで、それは価値のあることなのだ。
「クローゼットを開けて、服を決めることに似てる、かなあ?」
緋咲にわかるように、かんたんな例えを貴時はひねり出す。
「攻めるか守るか、攻めるならどう攻めるのか。方向性によって当然指し手は変わってくるし、それを候補手の中から選ぶんだよ。出掛ける先を決めたら、なんとなく『これがいいかな』って思うでしょ? でも鏡で当ててみたら、ちょっと違う。じゃあ、こっちは? ……って感じ」
「鏡の前で服を選んでる状態?」
「うん、多分。その『これがいいかな』ってひらめきがセンスだったり、知識だったり、経験だったりするのも近い気がする。一張羅しかなくて、しかもその服がとんでもなく気に入らないこともあるけどね」
「着て行ったら『かわいいね』って褒められたり、場違いで恥かいたり?」
「そうそう。変な組み合わせなのに着こなして来る人もいたりね」
「でもさ、トッキーって服で悩んだりしないよね」
くたくたのシャツの袖を、緋咲はキュッとつまんだ。人前に出るというのに、気取りがなさすぎるほどにない。
「うん。手に当たったもの着る」
「全然将棋と違うじゃない!」
思い切り笑う貴時の顔を、緋咲は久しぶりに見た。やっと等身大の貴時に会えたような気がして、緋咲も素直な笑顔を返す。
「あ! じゃあ、私が悩んでた駒の動きや、取る取られるってのは、どういう状態?」
リズムよく続いていた会話がピタリと止まった。貴時の目は泳ぐように、窓の外に向かう。
「ねえ!」
「うわ! こぼれる!」
服を掴んで揺すったら、貴時がミルクティーを庇った。蓋ははずれなかったけれど、飲み口に少し雫がはねる。
「……Tシャツってどう着るのかな? とか、下着と服はどっちが先かな?とか」
全裸で鏡の前に立ち、パンツの穿き方をうんうん悩んでいる自分を想像して、緋咲は頭を抱えた。
「……恥ずかしい」
「そんなことないよ! 服を着ようと思ってくれただけで、俺はすごく嬉しいし……」
「その例えやっぱり嫌ーーーっ!!」
緋咲は少し赤い顔で丼の底に沈んでいたメンマを拾い上げる。
「ほとんどの人は服を着てもさ、近くの公園や、せいぜい映画館デートくらいしか行けないのに、トッキーは遠く遠く、海の向こうも、山の向こうも、宇宙にも行けちゃうんだよね」
真っ青な空の向こうを想像しようとして断念する。緋咲には行き止まりに見える空も、その先には果てなどない宇宙が広がっているらしい。
「別にひーちゃんは将棋の世界で遠くまで行きたいなんて思ってないでしょ」
「思わないけど、」
最後のメンマを食べてから、しみじみと貴時を見る。
「トッキーが将棋してるところ、初めてまともに見て思ったんだ。トッキーがピアニストならきれいな音楽が聴けたし、野球選手ならホームラン打つところが見られた。でも、トッキーの一番格好いいところ、私はわからないんだなーってね」
フードコートのカウンターは元々が狭い。会話をするうちに、さらにふたりの距離は近くなっていた。肩が触れ合うほどの距離は、貴時の目に太陽光の欠片が宿るところまで見える。
「俺の格好いいところ、ひーちゃんは知りたいって思うの?」
そんなことは当たり前なのに、緋咲は言葉に詰まった。知りたいと思う気持ちはあるけれど、踏み込んでいいのかどうか、判断ができなかったからだ。大槻の『幼なじみって、そんなに近しいものですか?』という言葉にも引っ掛かっていた。何より貴時の目が、中途半端な答えでは許してくれないような気がして。
逸らせずにいた視線は、貴時の方から外された。緋咲の真後ろにあった時計を見上げて、慌てて席を立つ。
「遅刻!」
走り出そうとして、ミルクティーの紙コップを気にしたので、緋咲は声を掛ける。
「捨てておく」
「ごめん! お願い!」
未だ賑わうフードコートのテーブルをくねくねと避けながら、貴時はホールへと走って行く。動きの少ない競技をしていても、バネを感じる若々しい背中だった。
指導対局は、一回に七人で一時間。終局すれば少し感想戦をして終了。時間がくれば途中でも終了となる。通常の対局では上位者が駒の出し入れをして、お互い順番に並べていくのだけど、人数も増えたし、時間的な関係もあって、参加者とスタッフがあらかじめ並べておいてのスタートとなった。
「こんにちは。四枚落ちでいいですか? では、よろしくお願いします」
集合時間には遅刻したものの、指導対局には間に合い、貴時は順番に駒落ちを確認し挨拶をしてから対局を始めた。参加したのは県内のアマチュア高段者や将棋部の学生が多く、あまり詳しくない手筋について質問され、内心焦ることもある。中には将来プロを目指したいという小学生もいた。
プロ棋士になった人は後悔などしていないし、奨励会員もほとんどがそうだろう。けれど、同じ道を子どもたちに勧めるかと聞かれたら、多くの人が「勧めない」と答える。プロ棋士は将棋を好きでなければなれない。好きなだけではなれない。そして、なれなかったときのリスクは高い。
結局曖昧に「頑張ってね」と声をかける貴時は祈るだけだ。何かを懸命に求めたことは、きっと無駄ではないはずだ、と。それは、まだ何も実を結んでいない貴時自身をも励ます言葉だった。
『大切なものは少ない方がいいよ』
『たくさんだとこぼれちゃうって』
その少ない大切なものさえ、掴めるのかどうかわからないのだ。
昼食を終えた緋咲は、ミルクティーの紙コップも片付け、貴時より二十分遅れでホールに戻った。
指導対局は始まっていて、貴時は真剣な顔で指したり、少し悩みながら質問に答えたり、目線を合わせやさしい表情で話しかけたりしていた。その様子を見守る人たちもたくさんいて、参加者と一緒になって貴時の話しに聞き入っている人もいる。小学生の後ろには父親らしき男性が立っていることもある。参加者以外もあんなに近くで観覧してもいいのだとわかったけれど、緋咲にそんな勇気はなく、結局遠目に貴時を追うばかりだった。
さすがに少し疲れた緋咲は、車で二時間ほど休憩してからホールに戻った。指導対局は三組目に入っていて、これが終わればイベントもまもなく終了となる。
貴時は、参加者ではなく、その後ろに立つ男性と何か話していた。しばらく見ていても、男性は一向にそこから動く気配がない。連れている男の子も飽きてTシャツの裾を引っ張っているけれど、構わず話し込んでいる。
自分の指し手に悩んでいる参加者はいいけれど、すでに指し終って貴時を待っている人は、不機嫌そうにその様子を見ていた。時折貴時も、参加者たちに目を向ける。困っているのだな、と緋咲は感じたし、スタッフもそわそわして見ているのに、誰も出てこようとしなかった。
一体何を話しているのだろうと、緋咲はゆっくり近づいていった。
「あれ?
横から男性の顔を覗き込んで、緋咲は思わず声を上げた。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
男性も緋咲を見て表情を明るくしたけれど、言葉に詰まっている。
「久しぶり。えーっと、えーっと、」
「301の守口緋咲です」
「そうだった、緋咲ちゃん! 懐かしいなあ。元気だった?」
「はい。おかげさまで」
視界の端で、貴時がそっとその場を離れて、小走りで席を移動していくのが見えた。
「今日はお子さんの遊び相手ですか?」
「そうなんだよ。それでついでに寄ったら見たことある子が将棋やってたから」
河村は数年前まで緋咲たちと同じ団地に住んでいた。202号室で、緋咲の家からは斜め下、貴時の家の真上にあたる部屋だった。
当時から河村は、悪気はないのだが、自己中心的なところがあって、資源ゴミを回収日の十日以上前から出したりして、問題となっていた。やんわり注意しても「生ゴミじゃないから問題ない」と聞き入れてもらえず、河村が引っ越すまで結局直らなかった。
「こんにちは」
河村の隣で緋咲を見上げていた男の子に挨拶すると、途端に河村の背中に隠れてしまった。二~三歳だろうか。河村が団地にいたときには生まれていなかったため、緋咲とは初対面。
「あっちにおっきい将棋あるんだけど、見に行かない?」
男の子は返事をしなかったけれど、河村が興味を持ったので、キッズスペースに案内した。
「新聞に載ってるのはチラッと見たけど、こんな将棋教室開くようになったんだね」
いまいち状況を理解しきれていない河村に、ちゃんと説明しようか一瞬考えて、緋咲は結局笑顔で聞き流した。河村の息子である
「これはどうかな?」
緋咲はマットの上に駒を立て、バタンバタンと倒し始めた。八枚しかないドミノでも、一枚が大きくて重さがあるから迫力がある。健也がせがむので、緋咲は何度もそれを繰り返した。
「それで、緋咲ちゃんは貴時君と付き合ってるの?」
バタンバタンと駒が倒れる中でも、その声ははっきり聞こえていた。
「……え?」
明らかに驚いた表情をしていたのに、河村は緋咲の返事を待っている。
「いえ、まさか! ないです、ないです!」
両手と首をぶんぶん振って否定した。
「じゃあ今日は将棋しにきたの?」
「将棋は、できません」
「じゃあなんで?」
健也が駒を自分で立てようとして失敗し、癇癪を起こし始めた。河村はそれにも慣れた様子で、駒を立ててやっている。
「単に送迎です」
「ふーーーん」
河村は納得できていない表情で、倒れるドミノを見送った。
「大体、私とトッキーじゃ、年齢が違いますよ。トッキーなんてまだ高校生ですから」
「え? そうだっけ?」
河村は振り返って指導を続ける貴時を見た。大人も子どもも相手に将棋を教える姿は堂々としていて、何も知らない人が見たら高校生とは思わないかもしれない。
「そうです。高校二年生です。私とは五歳も違うんですから」
「五歳差は別にたいしたことないけどね」
そこはあっさり否定して、河村はまた駒を並べる。
「うちの奥さん、俺より八歳年上だし。暮らしていけばどんどん気にならなくなるな。あ、出産とか年金の話のとき考える程度」
かつて階段ですれ違ったほっそりした女性を思い出す。河村と並んでいても、特別違和感も持っていなかったが、奥さんが二十歳のとき、河村はまだ小学生だったことになる。あと五年したら貴時は二十二、緋咲は二十七。確かに差は小さくなるような気がする。
さすがにドミノにも飽きた健也が河村を引っ張るので、面倒臭そうに立ち上がり、靴を履いた。
「アイスでも食べに行くか?」
「いくー!」
健也にも靴を履かせ、河村は緋咲に手を振る。
「じゃあ、どうもー」
「はい。ありがとうございました。健也君、バイバイ」
結局緋咲に馴れなかった健也も、小さく手を振ってフードコートの方に歩いて行った。
開会宣言もなかったフェスティバルは、やはり閉会宣言もないまま曖昧に終了し、館内は急にからんとし出した。閉館まで三十分あまりのフードコート。しずかな座席に対して、店舗の奥は閉店準備に忙しない。
『俺、挨拶してから帰るから、ひーちゃんはフードコートで待ってて。アイス食べて帰ろうよ』
そう言われて、一日中貴時を待っていた緋咲は、疲労でややむくんだ脚を軽やかにはずませて、人気アイスクリーム店の前までやってきたのだった。
「ひーちゃんはヨーグルト系にした方がいいよ」
メニューボードの前で腕組みしていた緋咲の頭上で声がした。
「お疲れ様。思ったより早かったね」
「イステーブル片付けたら終わりだからね。で、どれにする? この『ヨーグルト』って書いてるやつ以外はミルクベースだからやめた方がいいよ。牛乳嫌いでしょ?」
ストロベリー、ブルーベリー、オレンジ。貴時のアドバイスにより、アイスクリームの選択ではなく、フルーツソースの選択になった。
「じゃあブルーベリーにする」
「すみません」
貴時が声をかけると、ドリンクマシーン付近を拭いていた店員がわずかに眉を寄せた。
「ブルーベリーヨーグルトとキャラメル」
「あ、キャラメルおいしそう!」
「ミルクベースだからひーちゃんには無理だって」
「ふたつで432円です」
店員がふたりのやり取りを斬って捨てるように金額を伝えた。緋咲がバッグからお財布を取り出す前に、貴時が一万円札をトレイに乗せる。
「あ、ちょっと待って。細かいのが……」
小銭を確認する緋咲のお財布を貴時が手で抑えた。
「いらないよ」
「そんなわけにいかないでしょ、未成年」
「俺は今日しっかり働いて報酬を頂いてます」
ポケットに無造作に突っ込まれた封筒を貴時は軽く叩いた。
「ずっと待っててくれたんだし、ごちそうするよ」
「生意気~~~!!」
「9568円のお返しです」
ふたたびやり取りを遮って店員がお釣りを渡す。それを貴時が財布にしまうのを待って、すぐにアイスクリームが手渡された。
「ありがとうございましたー」
「はい。ブルーベリーヨーグルト」
勝ち誇ったような笑顔にむくれても、「はやく。溶けるよ」と促されて受け取った。
「……いただきます」
昼間の賑わいが幻のように、フードコートには貴時と緋咲のふたり以外に二組しかいない。ワッフルコーンにのったアイスクリームを、添えられたスプーンでひとさじ口に入れて、緋咲は本日一番の笑顔を見せる。
「あ、おいしーい! トッキーの努力と汗の味がする」
「それ、おいしくなさそう」
突然ピルルルと着信音がして、貴時は緋咲の顔を見る。緋咲はスプーンを口にくわえて、ポケットから携帯を取り出し、ディスプレイを確認するとそのまま切った。
「出ないの?」
「いいの、いいの。彼氏だから。後でかけ直す」
貴時は何も言わず、俯いてアイスクリームを口に運び始めた。前髪とメガネで表情は見えない。
プラスチックスプーンを持つその手は、ごく普通の男性の手に見える。これが駒を持つだけで急に空気が変わるのだから、駒には何か職人の念でも入っているのだろうかと、緋咲は愚にもつかない妄想をした。
「ちゃんとオシゴトしてたね」
イベントでの対局や指導は、将棋の棋力以外にもたくさんの能力が必要となる。人前に出る度胸も、初対面の人と話すコミュニケーション能力も、人によって対応を変える応用力も必要だ。
「慣れてはきたかな」
「指導も向いてそうだったよ」
「嫌いじゃないよ」
「そういう道もあるのかもしれないね」
時にやさしく、時に厳しく、たくさんの子どもを見守り育ててきた大槻を思い浮かべながら緋咲は言った。しかし、貴時ははっきりと言う。
「俺の道はひとつだよ」
じっとスプーンを見つめて、貴時は繰り返した。
「……ひとつでいいんだ」
貴時がふたたびアイスクリームを口に運ぶのを見て、緋咲も止まっていた手をようやく動かし始めた。
「あ、そうだ。今日はありがとう」
沈黙が降りると貴時は手を止め、深く頭を下げる。
「それは無事帰れてから言った方がいいよ」
「送り迎えもそうなんだけど、」
溶け始めたアイスクリームを、とりあえずすくって口に入れて続ける。
「指導対局のとき、河村さんを連れて行ってくれたでしょ?」
「ああ、あれね」
河村のことなど、緋咲はすっかり忘れていた。それより溶けるアイスクリームをスプーンですくう方が大事だ。
「たまにいるんだ。指導してるのに後ろからいろいろ言ってきたり、ものすごく近くで覗き込んだりする人」
指導対局のやり方は、基本的に棋士に委ねられている。棋士と指導を受ける人がやり取りして、その日の方針を決めているのだ。従って、例えおかしな手を指したり気になることがあっても、外野から口を挟むのはマナー違反。時間とお金をかけて指導を受けている人の権利を奪う行為なのだ。
それでも指導対局を観覧すること自体は自由なので、棋士やスタッフはなかなか厳しく対応できない。そこは個人のモラルに頼っているのが現状だった。
「河村さんには指導中だからってやんわり言ったんだけど聞いてくれなくて」
「あの人、話聞かないからね」
「本当に困ってたから助かった」
「助けるつもりじゃなくて、単に流れっていうか、自然とああなっただけなんだけど」
あれが河村ではなくまったく知らない人だったら、緋咲では場を収められなかっただろう。うまくいったのは結果論だ。
「大槻先生なんか感心してたよ。『見事な手腕だ』って」
「えへへ、そう? じゃあそういうことにしておいて」
「あ、ごめん。『多分たまたまです』って言っちゃった」
「私に感謝してるんじゃなかったの?」
ブルーベリーヨーグルトは甘いのにさっぱりとして、するすると喉を通っていく。溶けるペースに合わせてスプーンを動かすから、あっという間に半分ほどになっていた。
「あの、すみません!」
せっせとスプーンを動かすふたりの横で、緊張で震える声がした。小学校高学年くらいの女の子が少し息を切らして立っている。
「市川三段ですよね? さっきは指導していただいてありがとうございました。教えていただいた本、今度絶対読んでみます!」
貴時は落ち着いた笑顔を彼女に向けた。
「頑張ってください」
彼女はほんのりと頬を染めて、真っ白な色紙を差し出す。
「それで、あの、サインをいただけませんか?」
「え? 俺?」
「はい! それを飾って毎日頑張りたいので」
躊躇った貴時もさすがに断るのはかわいそうだと思ったようで、スプーンをアイスクリームに刺して色紙を受けとる。
「あ、私それ預かっておくよ」
コーンを立てておくスタンドはないので、緋咲もスプーンをアイスクリームに刺して、貴時のキャラメルアイスを受け取った。
「ペンもないんだけど……」
「わたし、持ってます!」
用意のいい彼女は、筆ペンを差し出した。それを受け取りキャップを取ると、ゆっくり深呼吸して色紙に向かう。
棋士のサインは、スポーツ選手や芸能人のものとは異なり、揮毫と言って基本的には毛筆で書かれる。座右の銘やオリジナルの詰将棋などを書いてから、段位と名前を記すのが一般的だ。
真っ白な色紙に貴時は筆ペンを走らせる。市販の筆ペンは通常揮毫に用いられるものより、細くて趣に欠けた。それでも貴時らしい丁寧さで、ゆっくり書き進めていく。
ふと、このアイスクリームを色紙にぶちまけたら、この子は泣くだろうかと、どろりとした考えがよぎって、そのことに緋咲は自分で動揺した。間違いが起こらないように、アイスクリームを持つ手を少し強める。
『誠心星為
三段 市川貴時』
「ごめんなさい。落款は持ってないんです」
「いえ、ありがとうございます! 大切にします!」
嬉しそうに受け取って、彼女は笑顔で帰って行く。その背中を見て、不思議な安堵が胸に広がった。
「はい、トッキー。アイス」
緋咲は貴時にアイスクリームを返そうとして、思い付いてパクッとひと口食べた。甘いキャラメルでも隠しきれない濃厚なミルク味がして顔をしかめる。
「これ、おいしくない」
「だから言ったでしょ」
緋咲からアイスクリームを受け取って、貴時はふたたび食べ始めた。
「ねえ、あれ、どういう意味? 『せいしんせいい』?」
「そう、そのまま。『誠心誠意』のダジャレ」
「『勝ち星の為に、真心を尽くす』?」
「まあ、そんな意味もあるかな」
「あの子は、あれ見て頑張るんだね」
「あの色紙に価値が出るように、俺も頑張るよ」
すでに見えなくなった背中を、緋咲は見つめる。
「何年生くらいかな」
「六年生だって言ってた」
指導した相手のことは頭に残っているようで貴時はすぐさま答える。
「トッキーより五つ下か。そんなに離れてないんだね」
憧れをいっぱいに含んだ目を思い出して、緋咲はつぶやいた。十年後、あの子は二十二、貴時は二十七。ちょうどいい。
「ひーちゃんにも六年生のときがあったよ」
貴時は、ふっと上を見上げて言った。
「もう覚えてない。昔過ぎて」
「黒い髪だった」
「さすがに小学生でカラーはしてなかったからね」
「きれいな髪だったよ」
貴時の声の中にさっきとは違う色味を感じて緋咲は手を止める。
「ひーちゃん、溶けてる」
手の甲を流れていくブルーベリーヨーグルトはもうスプーンでは止められない。仕方なく流れ落ちるままにして、会話もせずに食べ切った。
「手、洗ってくるね」
貴時は窓の外に広がる夕空をぼんやり見ながら、小さくうなずいた。
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