☆6手 今日も星を戴いて

 貴時は小さな手に雪玉を握る。握る。握る。握る。クラスの他の子たちは、園庭に作られた雪の滑り台を転げ落ちたり、ネコ用のかまくらを作ったり、雪遊びの時間は笑い声が絶えない。その中にあって、貴時はひたすらひとつの雪玉を手の中で転がし続けていた。その目は虚ろで、まだうまく描けない頭の中の将棋盤だけを見つめている。

 ▲2三飛成り? 相駒されて……


「貴時君、みんなと一緒に滑り台しようか」


 先生の声に、やっと現実に戻り、


「はい」


 と立ち上がった。けれど滑り台に二、三歩向かってまた立ち止まる。

 先に金を打ってから、飛車を成ったら……

 雪玉を手に持ったまま、貴時はその場に立ち尽くす。友達の笑い声も、澄んだ冬の青空も、彼には届かない。従兄弟からもらったお下がりのジャンプスーツは、長い間雪の上に座っていたために、湿って冷たくなっていた。



「好きなことを一生懸命やるのはとてもいいことなんです。でも、貴時君の場合、ご飯の間も読み聞かせの間もずっとぼんやりしてるので、せめて切り替えることを覚えてもらわないと、小学校に行ってもちょっと心配ですね」


 心底心配してくれる先生に、沙都子はひたすら頭を下げた。貴時はおとなしい性格ではあったけれど、友達と外で遊んだり、出掛けたりすることも好きで、本来家に籠っているタイプではない。保育園でもいつも友達の輪の中にいて、先生の意識からはずれてしまうほど、これまでは問題なく過ごしてきたのだ。

 それが、将棋を始めてからというもの、朝はまだ暗いうちから将棋、朝ご飯もそこそこに将棋、家に帰れば将棋、夕食もちゃんと消化できているのかいないのか、そして将棋盤に突っ伏して眠る。保育園でも詰将棋の本にかじりついて、誰とも遊ばなくなった。


「保育園では保育園の遊びをしようね」


 見かねた先生が詰将棋を禁止すると、本来素直な貴時は本を持って来なくなった。それでも頭の中の盤まで取り上げることはできず、ずっとひとり別の世界にいる。

 「ご飯のときくらい食べることに集中しなさい」「時間になったらちゃんと寝なさい」どんなに口酸っぱく言っても、「はい」と答えるだけで、一向に変わらないのだ。まるで魂を将棋に取られてしまったようだと、沙都子は少し恐怖さえ感じる。

 大槻に頼んで説得してもらったけれど、貴時のそれはほとんど渇望であり、空腹をコントロールできないように、心が将棋に向かうことを止められない。意識が変わらないと根本的な解決には至らないものだった。



 春霞といううつくしい響きとは裏腹に、はっきりしない青空が寒さを呼び寄せるような朝。貴時は小学校の登校初日を迎えた。

 登校班は団地のⅠ号棟からⅢ号棟に住む五人で組まれ、住宅街の細い通りを六年生の緋咲を先頭に、一年生のひより、貴時、三年生の野々花、そして五年生の慎之介の順で歩いて行く。


「車来たから寄ってー」


 通勤時間帯で車も自転車も多い。緋咲はたびたび声をかけながら、ひよりに注意を払っていた。淡々と変わらない貴時は、相変わらずひとり将棋の世界にいるものの、これといった問題は起こさない。むしろ新しい環境に萎縮しているひよりの方が緋咲は心配だったのだ。


「ひよりちゃん大丈夫?」


 強張った顔で小さくうなずく彼女に、緋咲は何度も振り返って声を掛ける。けれど表情は固いまま。今にも泣き出すのではないかと、緋咲の気持ちはそのことでいっぱいだった。

 整形外科と薬局の前を通り、ケーキ屋さんの角を曲がって、まだまだ住宅街の細い通りは続く。


「おはようございまーす!」


 新学期とあって、PTAのおばさんが旗を持って立っているので、みんなできちんと挨拶する。


「おはようございます。赤信号だから、こっち側に寄って待っててー」


 主要幹線道路に差し掛かり、緋咲は言われた通りみんなを通り沿いに建つ民家のブロック塀に集めた。担当のおばさんが信号機の押しボタンを押す。


「危ないから動かないでね」


 近くに高校があるため、すぐ目の前の歩道をたくさんの自転車が走っていく。信号さえ守っていれば車はむしろ安全で、自転車の方がよほど気を使う存在だった。


「ここ渡ったら、あとちょっとで着くからね」


 緋咲ではなく赤信号を見たまま、ひよりはこくんとうなずく。その肩に軽く触れながら、じりじりした気持ちで赤信号を見つめていた。押しボタン式の横断歩道は、比較的すぐ青信号に変わるはずなのに、今日はいつもより時間がかかっているように感じる。

 貴時を意識外に置いていたと気づいたのは、黒いランドセルを背負った小さな背中が、ふらふらと歩道に飛び出したときだった。背の高いひよりの陰にいたせいで、貴時の姿はほとんど帽子しか見えない。だから、猛スピードで飛ばしてくる自転車を、危ないな、と見ていた視界の端に、沙都子が作ったアップルグリーンの給食袋が揺らいで見え、全身の血が引いた。


「トッキーーーッ!!!」


 危ないという認識は、すべてが終わった後に自覚した。キィィィィィィッというブレーキ音が派手にして、近くを歩いていた人々も振り返る。けれど衝撃はなく、「あっぶねぇ!」という怒声に近い声が頭の上でしただけ。真新しいランドセルとそれを背負う小さな身体を強く抱き締めて、緋咲は動けなくなっていた。その横を、自転車は再びキイキイと錆び付いた音を残して通り過ぎて行く。


「大丈夫!?」


 おばさんと他の子どもたちも集まってきた。


「ひーちゃん?」


 腕の中でか細い声がして、緋咲は抱き締めていた力を弱める。ぱちくりと目をしばたかせる貴時に、初めて声を荒げた。


「なんで飛び出したりしたの!」


 貴時の方は怒られる理由がわからず、きょとんとしている。


「だって、ボタンがちゃんと押されてなかったから」


 古いボタンは反応が悪くなっていたようで、本来ついているはずの「おまちください」というランプは確かに消えたままだった。

 当然のように答える貴時は、いつもの貴時だ。緋咲に飛び付かれて帽子が取れ、尻餅はついたものの、黄色い帽子に押し込んだはずの寝癖もそのまま。アップルグリーンの給食袋は汚れひとつない。それがわかった途端、緋咲の胸の奥から安堵の涙が溢れ出た。


「トッキーが死んじゃうかと思ったじゃない!!」


 うわああああん、うわああああん、と大声で泣く緋咲を、貴時は表情を変えずに見つめていた。いつもお姉さんぶる緋咲の、めったに見ない弱々しい姿だった。


「あらあら! ちょっと、すごい擦り傷!」


 おばさんが泣きじゃくる緋咲のそばにしゃがんで膝を見た。飛び出したときにアスファルトで擦れたらしく、緋咲の右膝はズルズルに剥けていたのだ。新学期だからと、寒いのを無理してスカートを穿いたことがあだとなった。


「大丈夫、大丈夫。泣かないで。とりあえず応急処置だけするからね」


 おばさんは自宅から消毒薬とガーゼを持ってきて、緋咲の右膝に充ててくれた。傷はやや大きかったけれど、所詮はただの擦り傷。その後学校で処置してもらったそれは、ひと月後には跡形なく治っていた。

 貴時に飛び出したという感覚はなく、暴走自転車もちゃんと認識していた。その上で問題なく間に合うと思って、ボタンを押しに行ったのだ。そしてその通り、緋咲さえ追いかけて来なければ、十分にやり過ごせたはずだった。

 それでも、大きな擦り傷を作りながら、何より先に貴時のことを心配する緋咲の姿は、貴時に少なからぬ衝撃を与えた。緋咲の腕の中から見た、歩道に残った血の痕は、実際のものよりずっと色鮮やかに貴時の脳裏に焼き付いていく。

 この世界には、自分のために泣いてくれるひとがいる。

 しばらくの間、将棋盤しかなかった世界に、一点赤い色が入り込み、次から次へと色が戻っていく。朝ごはんの卵焼きの黄色も、引き直されたばかりの横断歩道の白も、緋咲の黒い瞳の色も。

 将棋に夢中なことは変わらないけれど、同じだけ大事なものが、他にもある。そのことを、ようやく思い出していた。








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