▲5手 それは星を掴むようなもの


 わくわく将棋フェスティバルは、将棋連盟県支部連合会と子ども未来センターの共催で開かれる。フェスティバル自体は老若男女問わず参加可能であるが、子どもが初めて将棋に触れる機会を作りたい、というのが大きな目的だった。そのため将棋サロンコーナーは上級、中級、初級に分けられ、初級者にはかんたんな指導もしてもらえる。

 また、メインのイベントとしてアマチュア大会で県代表になった遠島アマ五段と貴時の席上対局があり、貴時による指導対局も予定されている。指導対局だけは有料で定員があるけれど、貴時の昇段の効果なのか事前の申し込みでほとんど埋まってしまったようだ。


「もう少し枠を増やしましょうか?」


 主催側のひとりである大槻に貴時はそう提案した。


「だけど時間的にもう一回やるのは厳しいですよ」

「一回の人数を二人ずつ増やすくらいなんとかなりませんか? たいした数にはなりませんけど、当日の参加枠ゼロよりはマシだと思うんです」


 指導対局は一度に五人を相手に一回一時間。午前一回、午後三回を予定している。それを七人に増やすということは、貴時の負担が増す上に一人あたりに掛けられる時間は減ってしまう。


「こちらは問題ありませんけど、市川君は大丈夫?」

「はい。大丈夫です」

「じゃあお願いします」


 指導対局のブースに、新しくテーブルとイス、盤駒が用意された。サロンの方はたくさんの長テーブルにソフト盤というゴム製の盤とプラスチック駒が用意されているが、指導対局のところは高価ではないけれど木製の盤駒だ。

 慌ただしく用意されたその盤に、貴時は駒箱から駒を出して並べながら確認している。立ったまま指先でカシャカシャと駒の山を崩す姿は、準備中で騒がしい環境の中にあって、ひとり不思議な静謐せいひつさを放っていた。

 手伝いを申し出たもののやんわり断られ、会場の隅のパイプイスに座っている緋咲は、そんな貴時の姿を黙って見ていた。

 ホールの窓からは、空気で膨らませた大きな滑り台が見える。ボールプールにあるピンク、青、緑、オレンジのボールが、すでに高い太陽の下で鮮やかに踊っていた。児童わくわく広場では、親子でダンスをしたり、クイズをしたり、またポップコーンが無料で振る舞われる用意があって、すでに賑わいが感じられる。

 対してこちらのホールは、ほとんどが男性で年齢層も高く、地味な印象は拭えない。ボランティアで来ている大学将棋部の学生はさすがに若いけれど、そこと比べても貴時だけがひときわ若かった。

 それでもこの会場の中心にいるのは貴時だ。駒に触れていると特に、空気がひとり違うように感じられる。いつからあんな佇まいを身につけていたのか。子どもでもなく将棋も指さない緋咲にとって、今日のイベントに居場所はないのだけど、そんな貴時の成長を感慨深く眺めていた。


「おはようございます」


 突然声を掛けられて驚いたため、座っていたパイプイスがガタガタと鳴った。


「あ、おはようございます。ご無沙汰してます」

「守口さん、でしたね」

「はい。覚えていらしたんですか?」


 にこやかに笑う大槻に、立って頭を下げると、手振りで座るように示された。躊躇ったけれど、大槻が隣のイスに座ったので、ふたたび腰を下ろす。


「もちろん覚えてますよ。印象的でしたから」


 大槻将棋教室に通うようになって、貴時の棋力はグングン伸びた。一年後にはアマ初段になっていて、それからはさらにハイスピードで昇段を重ねる。そして三年生のときにはアマ四段、小学生将棋名人戦の県代表になった。県内における将棋の最年少記録の多くは、現在貴時が持っている。


「そりゃそうですよね。三段にまでなっちゃうんだから」

「市川君はもちろんですけど、守口さんも。不思議なふたりだな、と思ったんですよ。最初から」


 大槻はスタッフとスケジュールの確認をしている貴時に顔を向けている。彼の目には十七歳になった貴時ではなく、六歳の貴時が映っているようだった。


「年齢的に姉弟きょうだいかと考えましたが、雰囲気が違い過ぎるし、友達にしては年齢差があるし、幼なじみと聞いて一応は納得したんですけど、」


 大槻はそこで言葉を一度切って緋咲の方に顔を向けた。


「幼なじみって、そんなに近しいものですか?」


 緋咲は大槻の目に浮かぶものを読み取ろうとするが、そこには初めて会ったときのような誠実さがあるばかりだった。


「今日久しぶりにお会いして、やっぱり少し不思議です。家族のような、親友のような、そのどれとも違うような」

「トッキーが生まれたときから知ってますから」


 大槻はうんうんとうなずいたけれど、それは同意とは少し違っていた。


「実の姉弟でも性別が違えば距離はできるし、性別が一緒でも歳の差があればそれぞれの場所を見つける。そういう人の方が多いように思います。同じ目標に向かって一緒に頑張ってる者同士なら別でしょうけど」

「私、将棋なんて指せませんよ?」


 カラリと明るい声で大槻は笑う。


「だから不思議なんですよね。それでもこうして、ここにいるんですから」


 いつの間にか会場には人が増え、テーブルが徐々に埋まっていく。大仰な開会宣言がなされることなく、フェスティバルは始まっていたらしい。

 指導対局の準備をする貴時に、幾人もの人が声を掛けていた。はにかむような笑みを浮かべて何か答えて会釈し、また別の人にも同じ対応を繰り返している。恐らく、お祝いの言葉を掛けられているのだろう。ただでさえ田舎の人間関係は狭く、将棋が絡むと更に狭い。ここにくる人の多くが、貴時の昇段を知っていて、応援しているのだ。


「今日はずっとこちらに?」


 何気ないその質問に、緋咲は苦笑いで答えた。


「……はい。そのつもりです。お邪魔でしょうけど、すみません」


 自ら送迎を志願してついてきたくせに、緋咲の運転手ぶりはひどいものだった。


『ちょっと待って! え? え? どこどこ?』


 ナビをつけているはずなのに、それを見る余裕もなく、後続車がおびえるような不安定な走りを続ける。


『マモナク右、デス。……右、デス』


 親切に音声ガイドが伝えるけれど、


『今から右なんて無理! 車線変更できないもん!』

『通りすぎちゃったよ。どこかで転回しないと……』


 貴時が辺りを見回して、入れそうなスペースを探すがやはり、


『転回なんて無理! なんとか別ルート探してよう~』


 結局貴時が口頭で車線まで指示しながら、大きく遠回りをしてたどり着いたのだ。オープン前だから広い駐車場はガラガラで、緋咲は枠内に頭から突っ込んで車を停めた。その駐車場も八割方埋まってきている。一度帰宅した場合、車庫入れも苦手な緋咲が、狭くなったスペースに駐車できるとは思えなかった。何より、もう貴時なしで帰れる気がしない。


「だったら、ちょっとやってみませんか?」


 膝に手をつきながら大槻がゆっくり立ち上がる。


「……私、駒の動かし方すら知りませんよ?」


 大槻はひらひらと手を振る。


「今日はアマチュア高段者から初めて駒に触れる人まで、広く対応する用意があります。まあ、こちらへどうぞ」


 半分ほど埋まったサロンのテーブルを素通りして、大槻はカラフルなマットが敷かれたキッズスペースに向かう。靴を脱いで、似合わないかわいらしい色合いのローテーブルの前に迷いなく座った。


「どうぞ、どうぞ。今は空いてますから」


 ピンクと黄色のローテーブルの上には、はみ出さんばかりに大きな盤が載っていた。しかしマスは縦に四マス、横に三マスだけ。手のひらサイズの大きな駒には、かわいらしいイラストが描かれてある。


「このくらい大きな駒なら、失くす心配ないですよね。それに老眼にもやさしい」


 少し緊張していた緋咲は、その笑顔にホッとして駒を手に取った。


「これも将棋ですか?」


 ちゃんと角を丸く整えられた正方形の駒にはライオンのイラストと、黒い点が描かれている。


「立派に将棋です。ライオンは王将と同じ動き、ひよこは歩、ゾウは角に似ていて斜めにひとつずつ、キリンは飛車に似て前後左右にひとつずつ動けます。黒い点が進める方向です」


 そしてひよこをくるりと裏返す。


「ひよこはほら、一番上まで進むとにわとりに成れるんです」


 どこまでもかわいい仕掛けに、つい笑い声が漏れた。大槻も笑って駒を並べる。


「まずは難しいことは考えず、私のライオンを捕まえてみてください。先手を譲りますので。では、よろしくお願いします」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 心の準備が整わないうちに対局が始まっていた。駒はたった四つしかないし、動かし方もかんたんなのに、何をどうしていいのかさっぱりわからない。とりあえず、ひよことひよこがぶつかっているので、大槻のひよこを取ることにした。駒の動きを確認して、ひよこを取り、そのマスに自分のひよこを進める。うまくできたような気がして満足していると、すぐさま大槻が斜めにゾウを動かして緋咲のひよこを取り返した。


「……あれ? あ、そっか」


 大槻のゾウがそこに動けることをまったく考えていなかった。自分だけ得するようなうまい話が、そうそうあるわけない。今度はぶつかっている駒もなくなり、さっきよりもさらにどうするべきかわからなかった。

 時間制限があるわけではないのに、待たせているプレッシャーを勝手に感じて焦り出す。背筋を伸ばして座っている大槻の冷静な態度が、緋咲の焦りに拍車をかけていた。

 とりあえずキリンを前に進めると、大槻も間髪入れずにキリンを進める。悩んで悩んでやっと一手指したのに、またすぐに緋咲の手番になり、休む間のない脳が機能のほとんどを停止した。

 考えるにしても、考える取っ掛かりさえ掴めない。ちらっと大槻を伺うと、変わらない穏やかで落ち着いた表情をしているが、甘えを許してくれそうにはなかった。

 わからないまま何も考えずにまたキリンを動かすと、大槻はほんの少し口角を上げて、ライオンでそれを取る。緋咲の側から取り返すすべはなかった。

 そうして五分とかからず、緋咲の駒は盤上のライオンひとつになっていた。逃げ道はなく、目の前のひよこを取ろうと手を伸ばすと、


「そこはゾウが利いてるから取れませんよ」


 と、対局が始まって以来、初めて大槻が口を開いた。大槻の言う通り、ひよこを取ったら次の手で緋咲のライオンは取られてしまう。


「あの……これ、どうなってるんですか?」


 たった十二マスの状況を把握することすら、緋咲の手には余っていた。


「詰みですね」

「詰み……」


 将棋を指せない緋咲でも、その言葉の意味はわかる。


「自分の玉が詰んでいたら、どうするべきかわかりますか?」


 いつか聞いたことのある声だった。きっとこの声で、たくさんの子どもたちを、そして貴時を導いてきたのだろう。


「…………負けました」


 盤に額がつくくらい、緋咲は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 大槻も丁寧に礼を返す。


「こんなにかんたんそうなのに、結構難しいんですね」


 笑ってそう言ったものの、その目はほんのり潤んでいる。プレッシャーから解放されてホッとした部分もあるけれど、こんな子どものオモチャのようなものでさえうまくできない自分が情けなくもあった。


「将棋はとても難しいものですから」


 持っていた駒を盤上に戻しつつ、大槻は笑う。


「それにね、今はちょっとだけ、いや、結構意地悪をしました」

「意地悪?」


 大槻は駒を最初の位置に戻し、そこからひとりで駒を動かしていく。緋咲には何をしているのかわからなかったが、それは今の対局を再現していた。


「詰ますだけなら、ここでキリンを打てば詰んだんです。だけど守口さんがあまり考えてないみたいだったので、わざと駒を全部取ってやりました」


 身ぐるみ剥がされたときの、屈辱と心もとなさを思い出し、きれいに描かれた緋咲の眉が歪む。


「そもそもこの将棋は、正確に指せば後手必勝と言われています」

「後手必勝?」

「つまり、この将棋をコンピューター相手に指した場合、例え市川君でも先手では絶対に勝てないということです」


 お先にどうぞ、と先手を譲られた時点で、すでに“意地悪”が始まっていたらしい。


「守口さんには将棋の厳しさを知ってもらいたくて」


 本格的にむくれた緋咲に、大槻はきっちり頭を下げた。


「もう一度やりましょう。今度はちゃんと教えますから」


 駒を初形に戻し大槻が待つので、緋咲ももう一度だけ、と頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「はい。よろしくお願いします」


 今度は大槻が最初にひよこを取る。さっき大槻がしたように、緋咲はそのひよこをゾウで取った。


「駒を進めるときには必ずその駒が取られる危険性を考えます。取られない場所に進めるか、取られても取り返せるように他の駒にサポートさせるか」


 大槻はゾウを動かしたけれど、それはどの駒でも取れない位置だった。緋咲は考えて考えて、ゾウで大槻のキリンを取る。大槻はすぐさまライオンでそのゾウを取ったから、駒の損得は変わらない。けれど今回緋咲には、そこまでちゃんと見えていたため、さっきのような動揺はなかった。

 できることなら、自分の駒を取られずに相手の駒が取れた方がいいに決まっている。しっかり考えた末に、大槻のゾウの目の前に持ち駒のひよこを打った。それを見て大槻はにっこり笑う。


「悪くない手です。頭の丸い駒、つまり正面に進めない駒を前から攻めることは大切な基本ですから」


 褒められると嬉しいもので、緋咲の頬もつい緩む。大槻はそのひよこから逃げつつ、緋咲のキリンを取ったので、緋咲も冷静にライオンでゾウを取り返した。

 取ったり取られたりを繰り返すばかりで、緋咲にはどうしたらライオンが捕まえられるのか見当もつかない。大槻がしたように駒を全部取れたらいいだろうけど、そんな技術はない。現在どちらが勝ちに近いのか、自分は何を目指して駒を進めたらいいのか。駒の動きを考えるだけで余裕がなく、本来考えるべき最終目標まで頭が回らなかった。

 そうしているうちに、大槻のひよこが緋咲のライオンの正面に打たれる。相手のライオンの動きばかり気にして、自分のライオンのことはすっかり忘れていた。首筋に刃物が当てられたように背筋がざわっとして、反射的に緋咲はライオンを逃がした。


「王手というのは怖いものですよね。これだけ長く将棋を指してきて、何度も経験しても、心臓の片隅がヒヤリとする」


 逃げた緋咲のライオンを大槻は元の位置に戻す。


「逃げてばかりいては勝てません」


 言われて、今度はひよこを取った。大槻は緋咲のゾウを取ったが、王手はかかっていない。


「今取ったひよこを私のライオンの前に打って、」


 言われるままにひよこを打つ。


「私はこっちに逃げるしかないから、」


 大槻がライオンを逃がすが、それで行き止まりだ。


「さあ、ひと思いにどうぞ」


 緋咲は大槻のライオンを追いかけるようにキリンを打った。


「負けました」


 潔い声で大槻が投了した。


「……ありがとうございました」


 ほとんどため息で答えるほど、ぐったり疲れていた。駒ひとつ動かすために、駒の動きを考え、相手の駒の利きを考え、取られたら取り返せる配置を考え、その考え得るパターンの中で一番勝利に近いものを探す。


「将棋って、考えることが多すぎます」

「そうでしょう、そうでしょう」


 大槻は嬉しそうに笑う。


「私たちはこれを八十一マス四十枚の駒で行っています」


 たった十二マス八つの駒でさえ、対局中は広く感じた。八十一マスという将棋盤が、今の緋咲にははるか地平線の彼方まで続いているように思える。


「想像もつきません」

「本将棋が幕府公認となってから約四百年。同じ棋譜はふたつとない、と言われているんです。将棋の手の数は、星の数より多いのだとも」


 広大な宇宙にひとり放り出されたような心もとない気持ちになって、緋咲は自分の腕を抱えた。


「プロになるなんて、それこそ星を掴むようなもの。市川君は、今、高く高く跳んで、手を伸ばしている最中です」


 幼い頃、貴時はショッピングモールにあった大きなクリスマスツリーの、一番上の星に手を伸ばしたことがあった。一生懸命ジャンプする貴時を、沙都子や紀子と一緒に微笑ましく見守っていた。今目指す星は、あれよりもっと高いところにあるのだろう。そして貴時は、他の人よりずっと高く飛ぶ力がある。

 過去をさ迷っていた視界に、小さな手が入り込み、ひよこの駒を触る。かろうじてつかまり立ちできるくらいの男の子が、不器用に手を動かして駒を引き寄せた。貴時がこのくらいのときは、駒などに縁はなく、リモコンばかり追いかけていたな、と緋咲は懐かしく思い出す。小さな手ではこの駒は掴み切れないようで、ひよこはカラーマットの上に落ちた。


「あ、こら! すみません」


 頭を下げる母親に、大丈夫ですと返事して、


「はい。どうぞ」


 その子に駒を渡した。じっと絵を見たその子はそれが何なのかわからないようで、マットの上に次々落として遊ぶ。それを見て大槻は、目を細めて笑っていた。

 会場には人がたくさん集まっていて、小学生くらいの子たちも真剣に盤を睨んでいる。大槻は立てた膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。


「最近すっかり膝も腰も痛くて。私の萎えた脚ではとても跳べませんが、まだまだお手伝いはさせてもらうつもりです」


 どこも何ともなさそうにキリッと背筋を伸ばして、大槻はテーブルの間を回り始めた。緋咲は黙って礼を贈る。将棋を知らなくても、自然と頭が下がる背中だった。



『それではただいまより、市川貴時奨励会三段と遠島潤一アマチュア五段の席上対局を行いたいと思います』


 前列は埋まってしまい、中ほどのパイプイスに座って、緋咲はそのアナウンスを聞いていた。会場全体から拍手が起こる中、貴時と遠島は軽く一礼して、用意のテーブル席につく。


『市川貴時奨励会三段。十七歳、高校二年生です。六歳で将棋を始めて大槻将棋教室に入会。小学校五年生のとき、小学生将棋名人戦で準優勝し、その年、6級で奨励会に入会しました。この五月、規定を満たして三段に昇段。十月からの三段リーグで、いよいよプロ入りを目指しております』


 プロフィールが紹介される中、貴時は一礼して駒箱に手を伸ばす。対局では、上位の人間が駒の出し入れをすることになっていて、これは年齢や経験は関係ない。


『遠島潤一アマチュア五段。三十六歳。小学校一年生で将棋を始め、中学三年生で中学生名人戦の県代表になりました。高校では高校選手権団体戦の県大会優勝。大学学生王将戦七位と、常に活躍を続けていらっしゃいました。現在は県名人戦を二連覇中。今後も活躍が期待されます』


 遠島の経歴も普通ならば見上げるほどに立派なものだ。年齢も貴時の倍近く恰幅もいいので、貴時はひときわ小さく細く見える。が、“王将”を取る貴時の手つきは堂々としていた。遠島も小さな頃からずっと将棋を指してきたのだから、手つきも態度も慣れたものだけれど、貴時の肘から先の流れるような動きには、それ以上の凄みを感じる。それが何による違いなのか、緋咲にはさっぱりわからなかった。

 さっぱりわからなかったのは対局内容も同様。対局はチェスクロック(対局時計)という独特の機械を用いてなされた。時計がふたつ並んだもので、それぞれの上にボタンがついている。持ち時間をセットし、スタートすると、手番の方の時間が減っていく。一手指して自分の時計の上にあるボタンを押すと、今度は相手の時計が進んで時間が減っていく、という仕組みだ。

 対局は平手(ハンデなし)で、遠島が先手となった。


「先手、遠島アマ、▲7八飛」


 チェスクロックの後ろには、記録係がいて、指し手の読み上げと棋譜の記録を取っている。その読み上げを聞きながら、対局の隣にあるホワイトボードで解説が行われていた。将棋道場でも棋譜の解説会をするところもあるし、講義をするところもあるから、解説者のトークも流暢だった。しかし、慣れている分どこか授業に近い雰囲気もあり、さきほど将棋の入り口を覗いた程度の緋咲では内容についていけない。

 気合いを込めて一手一手しっかり指す遠島と違って、貴時の肩の力は抜けている。なめらかに動いた指先が、水面に歌でも綴るように軽やかに動いている。しかしその指先から高濃度のエネルギーでも注ぎ込んでいるのか、貴時が一手指すごとに遠島にのしかかる空気が重みを増していった。

 遠島は時折座り直したり、首の角度を変えたり、頭をかいたりしながら時間を使って指して行く。貴時にもその様子は見えているはずなのに、ただひとり自分の世界にいるみたいにしずかだった。

 正解のわからないものを自分で判断し、決めることはとても怖いものだが、貴時は宇宙をさ迷って、たったひとつを自分の意志で決めている。


「負けました」


 遠島が両手を膝に乗せて頭を下げた。


「ありがとうございました」


 貴時もすぐに頭を下げ、会場中が拍手に包まれる。緋咲も貴時をじっと見たまま拍手を送った。遠島が盤を指差しながら何か話しかけ、貴時も考え考え答える。ふたりの表情は明るい。今、貴時の目はしっかりと遠島や盤を見ていて、はにかむような笑顔は緋咲がよく知る“トッキー”だった。


『それではお二方、こちらにお願いします』


 司会の言葉で、ふたりはイスを離れてホワイトボードの前に並んだ。ふたたび拍手があってから、それぞれにマイクが渡される。将棋は対局が終わると、感想戦といって、その対局を振り返って意見交換がなされる。そこである程度、事前の作戦や対局中の読みなどが明かされるのだが、今回はその感想戦も公開で行われるらしい。


『遠島さんが振り飛車党なのは知っていましたが、三間飛車は少し驚きました』


 マイクを通しても貴時の声は会場の喧騒に紛れそうだった。自信に満ちた対局の態度とまるで違って、勝者のそれとは思えない。


『この前、中飛車でボロボロに負かされたので、このままだと勝てないかなって』


 遠島は身体つきのせいか、低くてよく通る声をしている。ここでは貴時より貫禄を示していた。


『最初にと金ができた辺りで、ちょっと良くなったかと思いましたが、この▲6六歩のところ、▲5四歩だったらわからなくなってたと思うんです』

『結果的に粘れずズルズル負けてしまいました。二年くらい前は勝てたのに、十代は成長が早いですね』


 「十代は寝ている間にも棋力が上がる」と言われる。貴時は寝てる間に上達し、寝てる間に身長も伸び、寝てる間にどんどん緋咲の知らない人になっているらしい。駒を動かしつつ貴時が語る言葉は、確かに貴時の声なのにまるで外国語のようで、ただ身体の中を通過して行った。





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