☆2手 星のめぐり合わせ

 緋咲が貴時と出会ったのは、緋咲が四歳、貴時が母・沙都子のお腹の中にいたときのことだ。


「おばちゃん、いつ産まれるの?」

「予定日は八月だから、緋咲ちゃんの幼稚園が夏休みに入って、ちょっとしてからかな」

「ええー! あしたがいいー!」


 木々にようやく新芽が出たばかりだというのに、ほんのり膨らんだお腹に向かって緋咲は遠慮のない不満をぶつけた。


「緋咲、仕方ないでしょう。もっともっと大きくなってからじゃないと、赤ちゃんは病気になっちゃうの」


 駄々をこねる緋咲を母・紀子のりこは力づくで引き剥がした。

 どうあっても八月にならないと赤ちゃんには会えないらしい。それなら、と待ちきれず七月までのカレンダーを破って紀子に怒られるほど、緋咲はその誕生を楽しみにしていた。それが貴時である。

 緋咲と貴時が住んでいたのは古い県営住宅団地だった。同じⅡ号棟で、緋咲は三階の301号室、貴時は一階の102号室。母親の年齢が比較的近いことから、お互いの家を行き来するほどに親しく付き合っていた。年の離れた兄しかいない緋咲は、ずっとサンタクロースに“妹”をお願いしていたけれど叶わず、念願叶っての赤ちゃん誕生だったのだ。

 貴時は予定日より三週間早く、七月の終わりに小さな小さな身体で産まれた。妹を望んでいた緋咲は、男の子だと聞いて少し落胆していたが、


「……かわいい」


 初めて抱いた赤ちゃんは、ふわふわと頼りなく、いとおしさで壊してしまいそうだった。それなのに、サンタクロースがお茶を濁して贈ってきたリリちゃん人形とは違う、強い生命力を宿している。


「緋咲。赤ちゃんはもうママに返してあげて」


 どんなに見ていても飽きることがなく、ずっとずーっと抱いていたかった。


「まだダメ」

「緋咲。赤ちゃんもママがいいって」

「やだ」

「緋咲ぃー」


 ハラハラする紀子をよそに、緋咲は腕が痺れても貴時を抱いている。夏の盛りで、ゆるくかけたエアコンだけでは暑く、その腕は汗でベタベタになっていた。

 結局ほとんど無理矢理に取り上げられ、それでも緋咲は沙都子の腕の中にいる貴時にベッタリ寄り添う。


「やわらかーい」


 人肌というより、ホイップクリーム程度にしか感じないほど、その頬っぺたはやわらかかった。小さな拳に人差し指を差し入れると、細くガサガサした指が、魔法のように動いてぎゅっと握る。それは、血の繋がりはなくとも自分がこの子を守っていくんだ、と小さな胸に決意させるには十分な感動だった。


 この子の生きる時間はすべて、貴重で大切なもの。そんな想いが込められた“貴時”という名前は、残念ながら少し発音しにくかった。


「トッキー、オムツ替えるよー」


 一応の努力はしたものの、「たかときくん」と呼ぶと、どうしても話すスピードが落ちる。面倒臭くなった緋咲は勝手に呼び方を変え、変わらない愛情で貴時を慈しんだ。


「うわ! あーーーーん……」

「緋咲ちゃん、ごめんね! 大丈夫?」


 オムツを開いた途端、お気に入りのワンピースにおしっこをかけられたりもした。ミルクをあげたら、そのまま胸に吐き戻されたこともあった。もちろん気持ちのいいものではない。


「大丈夫だよ、トッキー。洗えばいいんだから」


 貴時はまったく気にしていないのだけど、緋咲は貴時を傷つけまいとそう言って笑ってやる。すぐ怒る兄がいるので、自分はやさしいお姉ちゃんになるのだと、緋咲なりに努力していたのである。


「おばちゃん、みてみて! トッキー、ひとりでおせんべい食べてるよー」

「あらー、本当ね。写真! 写真撮らなきゃ!」


 ふくふくの頬っぺたが、ベビーせんべいを噛むたびにもにもにと動く。カーペットの上に腹這いになって、緋咲はそれをひたすら眺めていた。頬っぺたの動きと一緒に、口元についたせんべいの欠片も揺れる。それがあまりにかわいくて、大福のような頬っぺたごと食べてしまいたい衝動に駆られた。


「緋咲! ダメよ!」


 厳しい紀子の声と手で、緋咲の唇は貴時に届く前に押さえられた。


「小さい子に口をつけたらダメ。虫歯になっちゃうでしょ」

「ちゃんと歯磨きしてるよ?」

「それでもダメ。赤ちゃんはすぐに病気になっちゃうから、大事にしようね」


 しぶしぶと緋咲は貴時から離れ、指先でせんべいの欠片をはじく。薄青のカーペットの上に、またひとつせんべいカスが増えた。

 もにもにと動く頬っぺたを、緋咲はじっと見続ける。そして紀子がトイレに立った隙に、すばやく口づけた。


「うふふふ。かわいー」


 貴時はまったく反応しない。この頃の彼にとっては、緋咲より将棋より、ベビーせんべいの方が大きな関心事であったのだ。


 赤ちゃんに対する一時の興味かと思われていたのに、緋咲はその後も貴時をかわいがった。貴時が歩き始めたのは一歳二カ月。夏の暑さは鳴りをひそめ、季節は秋へと差し掛かっていた。


「“ひさき”だよ。“ひ”・“さ”・“き”!」


 泣く以外にうーうー話し出した貴時に、緋咲は名前を呼ばせようと、常にない地道な努力を続けていた。


「トッキー。“ひさき”って言ってよう」


 貴時は大きな黒目を一度ぱちくりさせ、すぐそこにあったリモコンに手を伸ばす。興味はベビーせんべいからリモコンや充電器に移っていた。


「“ひさき”はちょっと言いにくいかもね。“ひーちゃん”にしようか」


 沙都子の提案を受けて、緋咲はもう一度貴時に向き合う。


「“ひーちゃん”! トッキー、言ってみて。“ひーちゃん”」


 貴時はリモコンをかじることに忙しくて、うんともすんとも言わない。


「もういいや。トッキー、お散歩に行こう」


 スパルタトレーニングを諦め、緋咲は貴時からリモコンを取り上げる。

 お散歩と言っても歩き始めたばかりの貴時がそんなに遠くまで行けるはずはなく、目の前の駐車場を少し歩く程度のものだ。夕方の駐車場は、団地の陰に覆われて少し暗い。念のため羽織ったパーカーが、ほどよく体温を保ってくれていた。


「トッキー! こっちだよー。ひーちゃんのところまでおいでー」


 しゃがんで目線を下げた緋咲は、手を叩いて貴時を呼ぶ。真っ直ぐ前には進めず、右に左によたよたしながらも転ぶことなく、貴時は緋咲を目指して歩いてきた。


「上手、上手! ほらほらこっち」


 貴時が近づいてくると、緋咲はほんの少し後ずさる。また近づくとまた後ずさる。貴時の歩く距離は、先週よりも着実に伸びていた。


「よしよし、あとちょっと!」


 さらに退がって団地の陰から出た緋咲の横顔に、まぶしい光がぶつかってきた。西日が緋咲の右半分をきらめく茜色に染める。よたよた歩いてきた貴時も、その強烈な明るさに驚いてバランスを崩した。


「おっと、危ない!」


 11kgの体重を伸ばした片腕で支えてから、緋咲は貴時を抱き直す。


「頑張った、頑張った! えらいよ、トッキー」


 腕の中で貴時は嬉しそうに笑ってから、燃えるような夕焼けを見た。改めて緋咲も、真っ赤な空と金色の太陽を見る。


「トッキー、すごい夕焼けだね」

「うーあー」


 何かを発した貴時の顔を緋咲は驚いて見る。


「おばちゃん!」


 近くで見守っていた沙都子が、何かあったかと駆け寄ってきた。


「うーあー」

「ほら! おばちゃん、トッキーが“ひーちゃん”って言った!」


 沙都子は一瞬気が抜けて、次に吹き出した口元を手で覆う。


「ふふふふ。本当ね。貴時、上手よ」

「うーあー」


 実際のところ、貴時が本当に緋咲を呼んだかどうかはわからない。恐らく違うだろうと沙都子は思っていた。


「トッキーーーー!」


 けれど、ぎゅうぎゅうと貴時を抱き締める緋咲がとても嬉しそうなので、沙都子も、もちろん貴時自身も否定しない。ひとつに重なり境がわからなくなったふたりの影は、長く長く伸びていた。

 それは本当に見事な夕焼けだったけれど、緋咲の記憶にも貴時の記憶にも残っていない。一緒に見た夕焼けなど、数多くあったからだ。そのくらい、この頃のふたりは連星のように寄り添っていた。

 けれど、貴時が這って、立って、歩けるようになったのと同じように、子どもの世界は目まぐるしく変化する。そして大人の事情も日々変化していくものだ。

 貴時がかろうじて“いーあん(ひーちゃん)”と発音できるようになった一歳八ヶ月頃、沙都子が仕事を始めた。貴時は保育園に入れられ、また同じ頃、緋咲も小学校に入学する。幼い頃の五歳差は大きく、次第に緋咲は緋咲の世界を、貴時は貴時の世界を持っていくのは自然なことである。

 同じ団地に住んでいても、緋咲と貴時が顔を合わせるのは月に一度か二度。歳の差と性別の違いを考えると、その距離はどんどん開いていくはずだった。


「ん? これなんだろ?」


 だからその箱を緋咲が見つけたことは本当に可能性の低い偶然でしかなく、人によってはそれを“奇跡”や“運命”と呼ぶかもしれない。

 五年生になっていた緋咲は、貴時の家の押入れでかわいらしいダンボール箱を見つけた。たくさんもらったブドウをお裾分けに市川家に行き、


「お願い、緋咲ちゃん! ちょーっとだけ貴時とお留守番しててくれる?」


 と沙都子に拝まれたときのことだ。小麦粉を買い忘れていたことに、調理途中で気づいたらしかった。最寄りのコンビニまで片道五分。それでも貴時ひとりを残して行くわけにもいかない。手のかからない子ではあっても、貴時はまだ六歳になったばかりだった。


「トッキー、かくれんぼしようか」


 県営団地の造りは基本的に一緒で、玄関を入って正面にトイレやお風呂。左右に伸びる廊下の一方の先に六畳間がふたつ、反対側にはリビングとキッチン。リビングの奥に六畳間がひとつある3LDKになっている。緋咲が鬼に決まり、リビングで数を数えた。


「いーち、にーい、さーん、しーい、」


 狭い団地の室内でのことだ。隠れられる場所なんてたかが知れている。


「じゅーはち、じゅーく、にじゅう!」


 近くで気配がしなかったので、緋咲はリビングを離れて六畳二間の方へ向かった。右の部屋を覗くとそこは物置部屋になっていて、使わなくなったベビーカーやベビーベッド、冬を待つファンヒーターなどが雑然と置かれていた。ざっと見たけれど、隠れられそうなところもない。

 次に左の襖を開けるとそこには何もなかった。寝室らしく、押入れには布団が詰まっている。押入れの中は三段に分かれていて、一番下にマットレス、二段目に敷き布団や掛け布団、そして天井に近い三段目には、紙袋やダンボール箱が無造作に押し込まれていた。その中のひとつが、そのかわいらしいダンボール箱だったのだ。

 クリスマスシーズンに何か買った空き箱なのか、真っ白な箱に雪の結晶やクリスマスツリー、煙突のある家などが描かれている。ただのミカン箱であったなら気にも留めなかっただろうに、緋咲はそのかわいらしさに惹かれ、箱に手を伸ばした。


「痛っ!」


 ドスンと箱が落ちると、布団の中から声がした。


「あ、ごめん! 大丈夫?」


 掛け布団をめくると髪の毛をあちこち跳ねさせた貴時が、身体を丸めてそこにいた。驚いて声を出してしまったものの、ケガはないようだ。


「うん。大丈夫」

「えへへ。トッキー見っけー」


 笑いながら乱れた髪を直してやると、同じように貴時も笑う。


「ねえ、トッキー。これ何だと思う?」


 あっさり終わってしまったかくれんぼより、かわいいダンボール箱が気になっていた。まず貴時が押入れから出て、続いて緋咲も降りる。小ぶりのダンボール箱はそれほど重くなくて、緋咲ひとりでも楽に下ろせた。

 封もされていないその中身は、緋咲が期待したようなかわいらしいものではなく、いろいろなものが雑多に詰め込まれていた。ギターのピックに楽譜、ルービックキューブ、野球のグローブとボール、アンモナイトの化石……。それは貴時の父・博貴ひろきの宝箱だった。今はもう使っていなくても、決して捨てられない思い出の品々。

 緋咲が次々取り出すものを、貴時が受け取って眺める。その繰り返しの中で、緋咲の手が止まった。格子模様の小さな箱を開こうと、指に力を込めている。


「なにこれ。固い……」


 ググググッと押し開いたら、突然その箱がパァンと開いた。その中身が少しだけ畳の上に散らばる。


「それ何?」


 緋咲の手元を覗き込んで貴時が聞いた。


「……ああ、将棋かー」


 つまらなそうに緋咲は答えて、拾い上げたマグネット式の駒を貴時に渡す。箱だと思っていたのは、折り畳み式の将棋盤だったらしい。


「将棋。ゲームだよ」

「しょーぎ……」


 まだまだ小さな貴時の手のひらより、それはさらに小さかった。ベージュの五角形のマグネットには貴時には読めない漢字で“金将”と書かれてある。

 緋咲は開いた将棋盤を放り出し、色褪せた古い漫画をめくっている。貴時はしばらく、その“金将”を眺めていた。


 その後、貴時が人生をかけることになる将棋。その最初の駒は、くしくも緋咲の手によって渡されたのだった。










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