いつか、星の数よりもっと
木下瞳子
▲初手 白星ふたつ
時刻は17:54。カフェの中は大きな窓のおかげで解放感は抜群だが、日脚の長い五月の太陽が少し眩しい。入り込む光の反射で、肝心なディスプレイは非常に見にくかった。
「さっきからずっと、何見てんの?」
直前に観た映画の不満を楽しそうに話していた智哉が、一転、不機嫌極まりないという声で聞く。
付き合って一年になる智哉とは同い年の大学四年生だが、就職活動や卒業論文に忙しくて、すれ違いが続いていた。
いっそけじめをつけた方がいいと思いつつ、日々の生活に紛れて結論は今でも後回し。久しぶりのデートだというのに心ここに在らずなのは確かで、緋咲とて多少の罪悪感はあった。それでも面倒臭い気持ちの方が勝って、結局安易な返事をしてしまう。
「別に。時間見ただけ」
「何度も時間見るほど、オレの話は退屈ってわけだ?」
そうだ、と正直に答えたら絶対怒るので、この場合の選択肢は否定、一択。
「違うよ。ちょっと気になっただけだって」
「チラチラチラチラ何回も? ロケットの発射待ってるわけでもあるまいし」
このタイミングでユーモアを盛り込んできた智哉を、付き合ってから初めて見直した。
「ほんと。ロケットに乗って飛んで行きたいなー、千駄ヶ谷あたりまで」
釣られてつい軽口を返したことがあだとなった。
「調子に乗ってんじゃねーよ! どうせ浮気してんだろ!」
苛立たしげに智哉は隣のイスを蹴り、そのイスがテーブルにぶつかった。
「ちょっとやめてよ! 壊れたらどうするの!」
見たところ傷はなく、半分ほどに減ったカフェラテが小さな波紋を作っただけで被害はない。
「浮気なんてしてないよ」
疑われたことより、怒鳴られたことより、落ち着いたカフェで大声を出されたことに、緋咲も苛立った。
「前々からおかしいと思ってたんだよな」
「だからしてないって」
「じゃあ証拠出せよ」
「証拠……」
ないものをどうやって出せというのか。証拠を出すべきなのは、嫌疑をかけてきた智哉の方ではないだろうか。そんなことを考えて言葉に詰まると、それを証拠と採用された。
「お前みたいな軽い女が一途なわけないと思ってたよ」
「あー、はいはい」
わずかな罪悪感はそれこそ宇宙空間にまで飛び去り、もはや緋咲の中には面倒臭さしか残っていない。
「見た目がちょっと好みだから付き合ってみたけど、面白くもねえし、可愛げもねえし、時間のムダだったわ」
緋咲が携帯を見ていたことを責めたくせに、自分は携帯を操作しながら捨て台詞を吐く。少なくなったコーヒーをズズッと音をたてて飲み干した智哉は、
「もう連絡してくんなよ」
と席を立って出口へと歩いて行く。カフェを出るとき携帯に向かって「あ、一花。今から行く」と言っていたように緋咲には聞こえたけれど、すでに確認するほどの興味も残っていなかった。似たようなことが過去にもあったなあ、と懐かしい気持ちにさえなる。
「480円か。腹立つな」
残された伝票を人差し指と中指で挟み、ついたため息の半分は怒り、半分は諦め。
付き合って面白くもなんともなかったのはお互い様だった。浮気なんて断じてしていないけれど、真心を捧げていたかと聞かれたら、はっきりと否である。
そこにきて無実の罪を着せられた挙げ句のあの暴言。純粋な怒りは湧いてくる。それでも、良くも悪くも、諦めのいいのが緋咲である。智哉に対する怒りも、砂粒ほど残っていた愛情の欠片も、お冷やグラスの結露を拭いた紙ナプキンと一緒に丸めて捨てた。
言われるまでもなくタップ数回、連絡先消去。そんなことより、今は大事なものがある。
堂々と見られるようになった携帯をテーブルの上に乗せて、真っ黒な画面と時刻表示を交互に眺める。店員さんが回ってきてブラインドを下ろしてくれたから、ディスプレイもよく見えるようになった。
『市川沙都子』
しばらくしてバイブ音と共に表示されたその文字を見て、急いでメール画面をタップする。未だガラケーから送られてくるその内容は、とてもシンプルだった。
『二連勝で三段に昇段しました』
「よしっ!!」
画面を見たままガッツポーズ。そして、きゃあー! すごい、すごい! と拍手を続ける緋咲に、周囲からは興味本位な視線が向けられていたけれど、当人はまったく気づいていない。
「すみませーん!」
店員さんを呼び、智哉の残骸の片付けと、カフェラテのおかわり、そしてレアチーズケーキの追加まで嬉々としてお願いしている。
「三段かあ。すごいなー。これであとひとつ」
ブラインドの隙間から西日が見える。そこから顔を左に動かして、南、つまり東京の方向に向かって熱々のカフェラテを持ち上げた。
「トッキー、おめでとう!」
ひとり勝手に祝杯をあげる緋咲の頭に、もう智哉の影はなくなっていた。代わりに、普段は表情の乏しい顔を紅潮させて、見方さえわからない棋譜をくれる少年の姿が思い出される。あれはまだ小学校の三、四年生くらいのことだ。
緋咲が大学進学で家を出てから四年目。たまに帰省するたび大きくなっている弟分も、もう高校二年生。だいぶ前に越された身長は、また伸びているかもしれない。伸び盛りの身長より早いペースで、夢への階段を駆け上って行く姿を想像し、緋咲はブラインドで隠れた空を見上げた。
二週間後、地元新聞に手のひらほどの記事が載った。
『夢の棋士まであと一歩。市川貴時さん、奨励会三段に』
就職活動を機に読むようになった新聞を広げ、朝ごはんの納豆も放り出して食い入るように読む。
『本県出身の市川貴時(いちかわたかとき)さん(16)が、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関「奨励会」において三段に昇段した。それにより、十月からの三段リーグに参加することとなり、上位二名に入ると四段プロデビューとなる。
市川さんは直近の成績を14勝5敗として規定を満たした。昇段を決めた対局では「昇段を意識はしたが、目の前の一手一手に集中することを心掛けた」と語っている。
市川さんは六歳のときから地元の将棋教室に通い、その後石浜和之八段に弟子入りして指導を受ける。小学五年生のとき、小学生将棋名人戦で準優勝し、同じ年に奨励会入りした。今でも地元から東京の将棋会館に通って腕を磨いている。
現在、本県出身の現役プロ棋士はおらず、市川さんが年齢制限内にプロ入りした場合、約四十年ぶりのプロ棋士誕生となる。』
一緒に載っている写真は、地元の将棋イベントで指導しているもの。盤上の駒を動かしているその姿は俯いていて、表情ははっきりとは見えない。
緋咲はその記事を切り抜いて、使い込んだクリアファイルに挟んだ。いくつかの手書きの棋譜と、幼いころからたびたび取り上げられてきた新聞記事が無造作に、けれど大切に保管されていた。
小学生将棋名人戦の切り抜きは少し色褪せているものの、トロフィーを抱えた無表情はまだしっかり見える。
「大丈夫、大丈夫。トッキーならプロになれるよ」
悔しさを押し込めたその顔を、指先でそっと撫でた。この顔がはにかむように笑うところを、愛しく思い出しながら。
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