消失

西咲海

消失

 特別顔が気に入ったわけでも歌が好きになったわけでもなかった。それはたとえばたまたま視界に映った落ち葉を目で追うその瞬間みたいに、気づけば僕は彼女をみていた。


               〇


 彼女の名前は忘れてしまった。だからここでは、その名をKと表記することにする。K。それが僕のなかでの、彼女を意味する唯一の記号だ。

 Kはときたま(それは週に1・2回ほどであったと思う)1分ほどのオリジナルソングを自身のSNSアカウントじょうでアップロードしていた。アコギのギターのうえに歌を乗せるその至ってシンプルな曲は、お世辞にも上手と云えるような代物ではなかった。声は澄んでいたから、歌詞自体を聴き取ることは容易であった。彼女はよく、風や雨について歌った。星や酸素について歌うこともあった。それらが果たしてなにを意味しているのか、僕には理解することができなかった。Kの歌は抽象的にすぎたから、そこから具体的な意味を汲み取ることは不可能であった。

 2・3枚の写真を載せることもあった。そこには砂浜が写り、人混みが写り、あるいは朽ちた商店街の一角が写っていたりもした。それらの写真について、Kがなにかしらの説明をくわえることはなかった。自分で撮ったものなのか、あるいはどこかから拾ってきたものなのか、それすらも僕には判らなかった。

 白の背景に酷く青に染まった林檎がKのアカウントのアイコンであった。

 プロフィール欄のコメントにはひとこと、『自分を見失うな』。


               〇


 ある日Kは続けざまに4枚の林檎の写真を載せた。

 青の皿のうえに乗った1個の林檎を真上から撮った、至ってシンプルなものであった。当然のごとく、写真に対する説明は一切なかった。

 一見それはまったくの同一の写真であるかのようにみえたが、よくよく目を凝らすと、光の当たりかたや林檎の向きが微妙に違った。つまりこれら4枚の写真たちは、それぞれ個別に撮られたことを意味していた。

 そのころの僕はKの載せる写真について(あるいは曲について)、よく考察を巡らせた。大抵の場合は僕の敗北に終わるが、なにかしらのもっともらしい答えを導き出すこともあった。無論、答えあわせはできないのだけど。

 だからその日の僕も、Kの載せた4枚の林檎について考えないことにはいかなかった。

 その日はたぶん日曜日であった。早朝から霧のような雨が降り、風は穏やかであった。外では赤子の鳴き声や、女学生の声がした。雨音はほとんど聴こえなかった。だからもしかしたら、雨なんて降ってなかったのかもしれない。

 ――林檎はなにかしらのメタファーだろうか?

 薄暗い部屋、毛布にくるまりながら僕は考えた。丸くて赤いもの。そんなものは世界じゅうに無数に存在しているような気がした。けれど不思議と、具体的な名前を挙げることはひとつだってできやしなかった。そんなことはないはずなのに、僕はまるで、世界じゅうから林檎以外の赤くて丸いものすべてが消失してしまったような気持ちを覚えた。

 そのまま何度か眠りに落ち、目が覚め、それらを繰り返すうちにすぐ夜がやってきた。僕は気怠い躰を起こし、電気をつけ、シャワーを浴びた後に簡易的な夕食を摂った。

 そのあいだKはひとつの短い曲をアップロードしていた。詳しい内容は忘れたが、宇宙を漂い、遠くのほうから火星を眺めている、そんな風な歌だった。深夜帯のパーキングエリアでながれていそうな、そんな気配を感じたことを覚えている。

 曲を聴き終わってから、僕はハッとした。あの4枚の林檎たちは、きっと火星を意味していた。すこしだけ角度の違う林檎たちは、きっと火星の自転を示していたのだ。

 ――そうなんだろう?

 仮想のKへ僕は尋ねる。Kはなにごとかを呟いて、僕の目の前から消え失せる。

 確からしいことなどひとつもない、ある日の僕の日曜日。


               〇


 Kを知ってから、およそ半年ほどの月日がながれた。そのあいだKは飽きずにオリジナルソングをアップロードし、何枚かの写真を載せ続けた。

 僕の知る限り、KはSNSじょうで誰とも会話をすることはなかった。考えるに、Kにとってそこは、都合の良い日記帳のようなものだったのだと思う。僕たちの祖先が洞窟の壁に文字を刻んだように、KはSNSじょうに何バイトかのデータを刻み続けた。

 そう思うと、僕は自分がまるでなにかしらの罪を犯しているような気持ちを抱えざるをえなかった。けれど、だからといっていまさらKのことを忘れることなんてできっこなかった。

 あるいはこう考えることもできた。Kはデータを刻み、僕がそれをみる。そうすることで、そこになにかしらの意味が生じる。

 果たしてKはそんなことを望んでいたのだろうか?

 問い掛けに答える声はない。代わりに聴こえるKの歌は、正確さを欠いて判らない。


               〇


「たぶん私は、これから先のすくなくない未来に、消えると思う」

 それはおよそ11月の半ば、僕がKを知ってから1年ほどが経ったある日、Kのアカウントから投稿された文言。

 初めのうち、Kは新しく小説でも書き始めたのかとも思った。よく判らない歌や写真を投稿するようなKだから、特別不思議なことだとは思わなかった。

 5分も経たないうちに、Kはつぎの投稿をした。

「消えるのは、怖い。けれど、最高に怖いってほどではない」

 僕の頭の隅を不安な思いが掠った。なにか声をかけてやるべきなのかもしれないと思った。けれどどうやって?

 僕は君のことを密かに1年間みてきました。君のことならすこしだけは理解できるかもしれない。だから、どんな些細なことでも構わないから相談してみてほしい。

 そんな誘い文句、気持ち悪すぎる。

 色々考えた結果、僕は変わらずKのことを見守ることしかできなかった。僕とKは友達ではない。ましてや恋人でも、家族でもない。赤の他人なのだ。僕は1年という月日Kをみてゆくことで、僕たちのあいだになにか特別な関係性が結ばれているような気がしていた。けれどそれは錯覚だ。

 ──錯覚なのだ、と自分自身に云い聞かせた。

 それから1週間ほど経ったあと、Kは変わらず不器用な曲や情報の欠けた写真を投稿しはじめた。まるで、あの日の投稿が嘘であったみたいに。

 ほんとうに嘘であったのではないかと思い何度も確認した。けれどそれは確かに存在した。もしかしたら、あれはやはりKなりの短い小説の類いだったのかもしれない。そう思い込むことで、僕は陳腐な安心感を抱え込むことができた。

 それから1ヶ月が経ち2ヶ月が経ち、春の気配が鼻先をかすめ始めた頃、Kは消えた。なにもかものデータを抱えたまま、Kは僕の前から、SNSじょうから、忽然と姿を消したのだった。


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 恐ろしいことに、Kが目の前から消えてはじめて、僕はKが確かに存在していたのだということを理解できた。

 なにかの間違いだと思い何度も確認した。デバイスを変え、時刻を変え、僕はなんとかKの存在を確かめようとした。けれど、そのどれもが失敗に終わった。Kの存在していたはずのWebページには、ひとこと、このユーザーはすでに存在しないといった文言が短く並んでいた。ただそれだけだった。ただそれだけの文字の羅列が、かつてそこにKが存在していたことを明確に示していた。

 気がつくと僕は震えていた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。けれどどうして泣く必要がある? 僕にとってKとは、ただの無関係な赤の他人であるはずなのに。どうして泣く必要があるのか、僕にはまったく理解できなかった。

 僕は目を瞑って、深く息を吐いて、Kの曲たちを思い出す。風や雨、星や酸素について歌うKの澄んだ声を。不器用なアコギのギターを。それらの輪郭は酷く不透明で、まるでネオンライトのように記憶の奥底へ消えてゆく。でたらめな写真たち、そして消えるかもしれないと云ったあの日のKの言葉が、やけにスローモーションに、思い出の底のほうへ落下してゆく。

 僕はそれらを眺めることしかできない。なぜなら僕は完全な傍観者であるから。僕はKに手を差し伸べることができなかった、単なる赤の他人であるのだから。

 ひとつひとつが確かに消えてゆくなか、青い球体が僕の目の前へ落下し、静止する。おおきく裂けた口だけを持つそいつは、すしゃりと口を開け僕の耳元でこう囁くのだ。

「お前のせいだ」と。


               〇


 ハッとして目が覚めた。

 またあの夢だ──とすぐに思った。

 まるで鉛玉を埋め込まれたみたいに、頭の奥が鈍く痛んだ。その痛みの確かさを認めれば認めるほど、夢の情景は淡く失われていった。

 ──K、また君なのか?

 もうずいぶんと昔のことだ。あれは僕がまだ大学に通っていたころのことだから、いまからおよそ5年ほど前のことになる。

 5年という月日がながれてもなお、Kの呪縛は僕を離さない。むしろここに来て、それはより強固なものになってゆく気さえした。

 僕はベッドから降り、窓辺に立つ。網戸越しの8月の風は、僕の肌をゆっくりと撫でる。どこかで野良猫の声がした。トラックの走行音。草木の揺れる音。そのどれもが静かに息をしていた。

 月は出ているのだろうか──そっと、窓辺から夜空を仰いだ。

「どうしたの」

 背後から声がした。僕は振り向かずに答える。

「夢をみたんだ。それで目が覚めた」

「悪い夢?」

「さあ、どうだろうね」

 月の姿はない。

「どんな内容?」

 僕はすこし考えた後、Kについて話した。特別隠しておくようなことでもないし、それに妻に話すことで、なにかが好転するかもしれない、と淡い期待を抱いていたから。

「ふうん……」聴き終えてから、妻はなにかを考え込むような素振りをみせてから、云った。「ねえ、あなたってドッペルゲンガーを信じる?」

「ドッペルゲンガー?」と僕は聞き返した。僕たちの会話のあいだにどうしてドッペルゲンガーが関わってくるのか見当もつかなかった。けれど妻はときたま突拍子もないことを云う癖があるので、特別気にすることはなかった。

「信じないと思う」とすこしの間をおいて僕は云う。「ほんとうの意味で完璧におなじ人間なんて、そんなの気味が悪いから」

「そうね」と妻は答えた。「私もそう思う」

 それから僕はしばらくのあいだ夜空を眺め、雲のながれをみた。雲は酷くゆっくりとした速さでながれてゆく。そのもどかしさが、不思議と僕を緊張させた。

「私思うのだけど」

 唐突に妻が呟いた。

 てっきりもう寝ているものだと思っていたので、僕はびっくりして振り向いた。ベッドに腰かける妻の姿が、青白く浮かびあがる。月が出ているのだと思った。月明かりが、妻の姿を照らし出しているのだ。

「生まれ変わったんじゃないかな、その子。消えたんじゃなくて。新しく生まれ変わったんじゃないかな」

 酷く澄んだ声が、月明かりに満たされたこの青い部屋に、ゆったりと交じってゆくのが判った。風も、音も、温度も、それらすべてが、いまこの空間でだけたったひとつになったような気がした。

「ねえ──あなたはどう思う?」

 その問い掛けの声が誰なのか、僕はきっと知っている。知っていてもなお、僕は君に問い掛けたい。

 ――君はいったい誰なんだい?

 その問い掛けへの返答もまた、僕はきっと知っている。知っていてもなお、僕は君に問い掛けたい。

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消失 西咲海 @umi_nishizaki

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