9. 下絵 ~equisse~



 朝、だろうか?


 少し冷えた空気の気配から、そんな気がした。

 掛け布団から出ている右足が氷のようだ。足を引き戻すと今度は背中に隙間ができて、背筋が冷たくなった。身震いして布団をたくし込み芋虫のように丸くなった。

 もうしばらく、まどろんでいたかったが、ズキンという痛みが左の頭を突き抜けて、無理やり起こされてしまった。

 しまった、二日酔いだ…痛む頭をかばい、腕だけを動かして、机の上のスマホを探そうとする。しかしいくら指を伸ばしても、電話どころか机のふちにすら、中指がかからない。

「はれ?」

 少しずつ意識が覚醒してくるにつれ、色々と異変に気づいてくる。

 私の枕ってこんなに硬かったっけ? シーツが何だかゴワゴワして、クリーニング屋の匂いがする…

 ばっと布団をはがして起きがった私は、頭痛のことをすっかり忘れていた。顔の血が一気に下がり、眼の前に星が飛んだようになって、気持ち悪くなった。

「いちち…」

 耐えられずまた枕に倒れ込み、しばらくこめかみを抱えて呻いていた。

 頭だけじゃなく、全身も半端なく痛かった。ズキズキが鈍くなってようやく、薄目を開けて周囲を観察する余裕ができた。

 無機質な蛍光灯のついた天井、柄のない厚手のカーテンに、見たことのない窓からの景色。

 全然、うちじゃない。第一に、私の部屋はこんなに広くも殺風景でもない。

 横になったまま頭だけ左右に動かすと、頭側の壁にいくつかのスイッチやボタン、そしてぶら下がるマイクのような物が見えた。『呼出』の文字がプリントされている。その機械をTVドラマで見た覚えがあった

「もかしてここ、りょういん病院?」

 喋ってみてわかったが、口がまともに動かない。まだ昨日の酔いが残っているのだろうか?

 唇の感触を確かめようと持ち上げた腕に、見慣れない赤や青の傷跡がいくつも残っているのを見つけた。さらに痛みのもとの後頭部を触ると、包帯が何重にも巻かれていた。頭が重く感じたのも無理はない。

 とりあえず私は何かをやらかしたらしい。大きな諦めのため息をついた。

 混乱してもらちが明かないので、冷静に考えないといけない。痛みを意識しないようにして、私自身の記憶を探ることにした。


 昨日はコージたちと、大学近くの大きな駅に繰り出したのは、覚えていた。さっそくやったボーリングは絶好調でストライクを連発したっけ。カラオケはあんまり歌わなかった。コージの選んだボッタクリ料理屋が頭にきて、2件目の居酒屋で、あいつに説教しながら一気飲みしてた頃までは、忘れていない。

 それからどうしたかな…何かが引っかかっていた。私はぼんやりする頭を振った。

 誰かの事だったはず。私がこんなに悪酔いしたきっかけの、まだ思い出していない話があったはずなんだけど…

 悩んだ末、ようやく思い出した。誰かが、そう、コージの連れのひとりが、英明の話を始めたんだ。

「あいつまた来ないとか」とか「トロい」とか…挙句の果てに「あんなヤツが友香の幼馴染みだなんて信じられない」とか。

 つい頭にきてそいつを呼び出してから、私のお酒と説教は止まらなくなったんだ。

「まったく…バカヒデ! その場にいないくせに面倒かけて!」

 怒りが口の回りを良くしたのか、今度はちゃんと喋れていた。

 そしてそのあとの私は? その答えがこの包帯の理由わけに違いない。

 だんだんと核心に迫ってきたせいか、妙に体が暑くなってきた。

「私、覚えている」

 閉店まで店にいて、終電を逃した事。思いっきり酔いが足にきていたけれど、絡んでくる男どもを蹴り飛ばした事。

 そして、習慣で立ち寄ってしまった暗い神社の階段で、足を踏み外した瞬間の事も。


 それを思い出したとき、私は突然、息苦しさを感じ、激しく喘いでいた。心臓の鼓動が鳴るたびに、激痛が早鐘のように耳の奥に鳴り響く。その痛みに耐えていたが、だんだんと辛くなり、額に玉の汗が浮かんできた。

 必死にナースコールのボタンに手を伸ばす。指がスイッチに触れる直前、ガーンという衝突音に似た大きな耳鳴りがあり、私の意識は暗闇に落ちていった。



 それから私の心は、しばらく霧の中の住人だった。

 常に乳白色のもやが、眼の前を覆っている。誰かが私を覗き込むけれど、みな同じ仮面を被っている人形のよう。時々、体を持ち上げられる感覚があったり、風のようなものが感じられたり、柔らかい地面を歩いている感覚があった。けれど、それだけ。時間の感覚はなく、明るくなって暗くなって、それの繰り返し。

 でもある時から霧の外で音がするようになった。

 周期的なようで不規則、何か意味があるようで、とらえられない変な音だった。どこかで聞いた事があるけれど、思い出せない。懐かしいようでイライラさせる、でも耳障りに感じなかった。

 音はだいたい決まった間隔で聞こえてくる。いつの間にか私はそれが鳴るのを楽しみに待つようになっていた。

 ある時、一度だけ霧の向こう側がはっきり見えた事があった。

 あの時は驚いた。光、色…あと音とか、一気に私の心に飛び込んできて、洪水のように鮮やかになったから。

 そして霧の向こう側の影の中に、泣いている小さな男の子がいた。なぜか私は彼を知っている気がした。霧が幕となって再び閉じるまで、その子は口を動かして何かを喋っていた。

 私はそれを聞いて、いつもの音はこの子の声だったんだと、初めて知った。何だか嬉しくて笑っていた。

 でもその事があってから、音は鳴らなくなった。霧の世界に囚われてから初めて、私の心は寂しさを感じた。相変わらず霧は明るい・暗いを繰り返しているけど、それが徐々につまらなく感じてきた。

 私はあの男の子の事を考えるようになっていた。

 名前は何だろう。なぜずっと喋っていたんだろう。あの時どうして泣いていたんだろう。思いながら私は、いつかきっとまた逢えると思って、その声を待ち続けた。


 もう何回目かもわからない、ある暗闇の時に、あの少年はやってきた。音は前よりずっと低く響いてきて、まるで子供から大人になったみたいだった。

 そのうち彼はまた泣き始めた。今度はとても辛そうで、聞いている私にも、その切ない気持ちがわかった。別れの時みたいだ。彼が私にさよならを言っているように感じる。

「待ってほしい! 行かないでほしい!」

 私は霧の向こうへ思い切り手を伸ばした。


「ゆー…」

 霧の隙間から、音がはっきりと意味をなして、私に届いた。それは幼い頃から耳にしていた、私の知っている声だった。

 今度は私が涙する番だった。

 英明ひーだ。ずっと私の所にいてくれたんだ。

 幼馴染みの声が暗号を解く鍵となり、それまで聞こえてきた音は、私の頭の中で意味のある言葉に復元されていった。

 あいつの家族の話、学校の話、授業の内容まで…馬鹿、そんなの後でいいのに。

 看護師との会話も聞こえてきた。英明らしいと苦笑した。

 ずっと前から近くにいてくれたから、当たり前だと思い込んでいた。ついには鬱陶しがって、馬鹿にして、無視までして…でも英明は私を見捨てなかった。距離は遠くなっても、あいつなりに私を見ていてくれたんだって、気づけなかった。


「ひー、ちゃん」私は精一杯の声で応えた。

 霧は再び閉じてしまい、あたりは元の暗闇に戻っていった。でも、もう寂しさはなかった。

 今は私の声が霧の奥まで届いたと信じていよう。いつかこの霧が晴れたらもう一度、昔みたいに英明と話をしよう。そしてまた私を描いてもらって――


 そう思いながら、私は再び長い眠りに落ちた。



 まぶたに越しに柔らかい光を感じる――友香は目を開いた。今度もまた朝なのだとわかった。

 まだ病室のようだった。でも今度は激しい頭痛は感じられない。友香が頭に手を伸ばすと、指と指の間に自分の髪の感触が通っていく。もう包帯は巻かれていなかった。

 友香は、傷の跡がうっすらと残る自分の真っ白な腕を見て、その細さに驚いた。

 力はまだあまり入らなさそうと思い、慎重にゆっくりと、上半身を起こしてみた。

 ベッドの脇には簡素な椅子があり、その上に二冊の本――赤と青――が置かれていた。懐かしく見覚えのあるウサギの童話と速記帳クローキー。友香は愛おしげに表紙のウサギたちを眺めた。そして使い古して退色した青いスケッチブックを手に取った。

 静物や景色が描かれたページをめくっていくと、やがて白紙となったが、最後の1枚だけに、下絵が描かれていた。


 鉛筆で描かれた黒髪の少女の肖像画。


 簡素なスケッチだった。女の子は6歳くらいだろうか。ゆったりと椅子に座り、行儀よく手を膝の上にのせている。淡いタッチで表現された降り注ぐ光の中、少女は静かに――瑞々しい瞳の中に、信頼しきった者が見せる幸せをいっぱいにして――たたずんでいた。

 この単色の世界の中でただ、少女の唇と指先だけが、鮮やかな桜色で染まっていた。


 友香はスケッチブックを強く胸に抱きしめた。

「英明?」

 そこにいるかのように訊く。返事は無かった。それでも彼女は言った。

「わかってる。私、待っていたの…」





パンとワイン Bread and Wine


(終わり)

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