8. 完璧なもの ~parfait~



 なぜここに来たのか、わからない。けれど確かに僕はここにいる。友香の部屋で、友香のそばに。


 救急患者搬送のどさくさに紛れたとはいえ、夜の病院に入れた事は奇跡だった。

 いちおう看護師のプレートをぶら下げていたが、いざとなると――私服だった事もあり――逆に目立つような気がしてきた。

 僕は守衛の目に止まらないよう壁際を歩き、例のスタッフ専用のエレベータを使って、3階に上がった。結局、個室の扉を開けるまで僕は誰にも止められなかった。


 面会時間はもちろん、消灯時間すらとうに過ぎている。室内の光は間接照明のオレンジ色の灯りだけだ。

 月夜なのか、カーテンの隙間から一条の銀色の線が、友香の胸と腕の辺りを照らしている。冷たく青白い光で、彼女の肌の色がモノトーンに見えた。

 息がつまる苦しそうな声がして、友香が身動きした。腕を跳ね上げて無造作に寝返りをすると、掛けていた布団がはだけ、肩がむき出しになった。

「風邪…引くから」

 母親同士の話から、友香の寝相が意外と良くないことを知っていた僕は、静かに布団を整えてやった。

 友香はかけられた布をぐっと両手で引き上げ、僕に背を向けた。布団の向こうから、言葉にならない寝言のような音が聞こえた。

 僕は医師のリハビリの話を思い出しながら、眠る友香に語りかけていた。

「もうすぐ友香は普通に戻るんだよね。だからと話すのは、これが最後になる気がする。だから…」

 だから、たくさん伝えたいことがあるし、喉元までせり上がってくるのに、吸い込む息に邪魔され、言葉はなかなか出てこない。

「眠っていても、僕を静かにさせるんだね」なかば自嘲気味にいう。

 それでも伝えなければ、僕には帰る所がない。拳に力を入れ、とうとう口を開いた。

「この場所で友香をみつけた時は本当に驚いた。それから、ただひたすらそばにいて、良くなることを願ってた。でも…あんな事があって、すべてがひっくり返った。閉じていた世界がもう一度広がったと思ったんだ!」

 僕の中で堰き止められていた想いが、一気に流れ出た。

「だって友香が変わったって感じてたから! もうあの頃は戻らないんだって諦めてたから!」

懺悔するように両手を組み合わせた。

「本当に身勝手だった。僕はそのままなのに、誰かが…何かが友香を遠い存在にしたんだと信じてた!」

吐き捨てるように言った。

「今ならよく分かる。遠ざけていたのは僕じゃないか! 大人になっていく友香に付いていけないから、卑屈になって、逃げ回って…そんな僕になんて、君も近づけなかったよね。自分への憤りをいつまでもくすぶらせていたのは僕だった。だから些細なきっかけでまた火がついて、延焼して、手がつけられなくなった!」

 そこまで言うと、僕は息切れし、膝をついてしまった。

 友香が再び苦しそうに寝返って僕の方を向いた。その勢いで長い髪のひと房が、頬をおおうように垂れ下がった。

 彼女は無意識に、人差し指と親指でその房を手に取り、先端を口元に持っていくと、唇の上をかすめるように動かし始めた。

「ゆーちゃん、かみのけをたべないで…」

 無意識にその一言が僕の口をついた。

 それは友香が赤ん坊の頃からの癖だった。母に抱かれないと眠れなかった幼少時代、掛けてあったタオルを手に取り、口に当て動かしているうちに、ひとりで眠れるようになったそうだ。

 その習慣は癖となり、いつしかタオルは髪の束に変わった。事あるごとに友香は前髪の『触覚』で口元を撫でていた。

 幼稚園の頃はその癖をよく親に叱られていたので、僕も真似して友香をからかっていた。『ちがうの! ひーちゃん、ままのまねしないで!』友香はいつも怒っていたっけ。


 凍てついた胸に温かいものが注がれた気がした。それは滋養となり、僕の荒れた心に染み入っていった。

「本当は変わっていなかったんだ。これまでも、今日も、これからも。どれもみんな友香なんだ」

 閉じた目からは悔し涙さえ出てこなかった。こんなあたり前の事を気づけずに、僕はすごく遠回りしていた。そして、ようやくたどり着いたけれど、僕はもう――

「ゆー、ごめん」

 それ以上、言葉がでなかった。それを最後に立ち上がって、僕は部屋を去ろうとした。


「ち、がう…たべてるんじゃないよ…ひーちゃん」

 背中ごしに声がした。寝言のように弱々しかったが、はっきりとした声だった。

「つまらないんだもん…はやくゆーの『え』かいてよ…もう…あきちゃっ…た」


 僕は立ち止まった。けれど振り返れなかった。大粒の涙があふれ、ワイシャツの襟に大きな染みを作った。



 僕は廊下に出た。肩がわなわなと震える。

 歩こうとしたが前が見えなかった。涙を拭おうとしたとき、突然明るい光が目の前で瞬いた。僕は反射的に手で顔を守り、後ずさった。

「あのぉー、巡回なんですが?」

 よく聞いた看護師の声だった。

「も、モチヅキさん…?」

 声がうわずる。袖口で涙を拭ってようやく、目の焦点が合った。

「静かにして!」

 モチヅキさんが唇の前で指を立てる仕草をする。

 怒られる事を覚悟したが、彼女は何も訊いてこず、ペンライトで僕の胸のあたりを照らした。

「あったー、私の名札! やっぱり君が拾ってくれてたんだ!」

 白衣の胸をなでおろす。

「良かったぁー師長にまた怒鳴られるネタを作ったって、ビクビクしてたんだよね! じゃあこれ、返してもらうね。」

 すみませんと謝る隙もなく、名札は持ち主の元に返された。

 看護師に先導されて僕は無事、通用口から病院の外に出ることができた。途中「大人しいと思っていたのに」とか「こんな大胆を見逃すのは今回だけ」または「私の少ない給料が」など、ネチネチと言われたが、僕がそこにいた理由についての詰問は、一切なかった。

「本当に、すみませんでした」

 僕は別れ際、モチヅキさんに頭を下げた。

「まったく…そんな顔色してどっちが病人だかわかりゃしない。いろいろとあるんだろうけど、ホドホドにね」

 呆れ顔の彼女は、そのまま通用口に向かっていった。

 僕はもう一度、深く礼をした。すでに電車はなさそうだった。タクシー乗り場を探していると、病院側から大きな声が響いた。

「英明くん、またね!」

 通用口の方に視線を戻すと、後ろ手を組んだ看護師は、ドアの奥に消えていった。


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