7. 福音 ~bonne nouvelle~
翌日の朝食はまったく味を感じず、砂を噛んでいるようだった。味噌汁の豆腐をすくっていても、箸をつかむ手が重く感じた。
「なあ、ヒデ。昨日の夕刊に近くの病院の事が…」
正面から話しかけてくる父の顔は、新聞に遮られて半分しか見えない。
「英明、顔ぐらい洗いなさい。お父さん、食事の時に新聞を見ないで」
母が見かねて注意するが、僕も父も返事せず、ぼそぼそと食べ続けた。
家を出て空を見上げると、雲行きが怪しい。僕は縁起をかつぐ方ではなかったが、憂鬱な思いは増した気がした。
病院に近づくに連れ、足取りはさらに重たくなった。昨夜の決意はどこに行ったのだろう。
友香に会う、それだけだというのに――
誰もいなければ、友香の寝顔を見て帰るつもりだった。部屋の前に立ち、個室をノックする。(幸運なことに)人の気配があり、女性の返事が聞こえた。
ドアが開いてモチヅキさんが迎えてくれた。
「あら、英明くん! こんにちはーっていうか、久しぶり、だよね? しばらく来ないから心配していたの!」
腕を引かれ、僕は病室に入った。
看護師のテンションがいつもより高いのが不思議だった。でもその事はすぐ忘れてしまった。なぜなら思わぬ先客がいたからだ。
「こんにちは、確かお友達の…英明さんでしたよね? あらためまして、主治医のホンダです」
白衣の男性はベッドの横からすっと出てきて、慇懃に挨拶をした。
医者が病室にいる事は当たり前なのに、出鼻をくじかれたせいで、僕はひどく動揺していた。
挙動のおかしい相手を見て、変な理解をしてしまったのか、ホンダ医師は僕の返事を待たずに続けた。
「ん? なるほど、もうご両親から話は伝わっているのか…それで急いで、来てくれたんですね!」
医師は自らの察しの良さに気を良くしたようで、さらに言葉が止まらない。
「今回の事がなければ、それに気づかないまま、ご自宅で過ごして頂く事になっていたわけで…本当に不甲斐ない。ましてやとても長い間、友香さんをここに閉じ込めてしまったのですから、お詫びの言葉もありません。そちら関しては院内でもすぐに体制を整え…」
僕には白衣の彼が、何についてあれそれ熱弁を奮っているのか、まったく理解ができなかった。
「治療を始めれば、効果はすぐに現れるはずです。あともう少し僕らと頑張りましょう!」
医師は勝手に演説を終え、大げさに僕の両手をぐっと握りしめた。
「それでは私はこれで」
彼は足早に部屋を出て、ドアを閉めた。
取り残された僕は、両手を握られた状態で固まったまま、その場に立ち尽くしていた。
「効果…もう少し? 治療の効果だって?」
医師の最後の言葉をかき集め、反芻する。
「あーやっぱり、聞いてなかったかー。ホンダ先生の悪い癖。とにかく突っ走るのよね」
モチヅキ看護師は、持っていた体温計の先で、ポリポリと頭をかいた。
「モチヅキさん、どういう…」
「ちょっと待って、仕事してからね」
看護師はポケットに挿してある大量のボールペンからひとつを取り出し、いくつか数値をメモした。
「はい、終わり。まず、ここで落ち着いてね」
これから診療される子供のように、椅子に座らされた。
「よく聞いてね。友香さんは失認だと伝えたわよね? 脳に異常が見つからないから、先生はそれが心因性だと疑っていたわ。でもつい3日前の検査で、頭にとても小さな腫瘍が見つかったの」
指で、その部分らしき頭の上を指差す。
「どうして発見できなかったかは、検査技師たちと長い議論が必要になりそう。でもね」
看護師は友香の方を振り返った。
「今回の事は友香さんの治療にとって、とても大きな一歩になると思うの」
彼女は持っていたファイルのひとつから、何かの紙片を取り出した。
「これはあなたに見せようと取っておいた新聞記事。来週から日本で医師会の国際的なシンポジウムが開かれる予定なの。そこには海外の脳とか神経の権威が集まるわ。ホンダ先生の知り合いも、何人か来るみたいだから、今回の症状について良いアドバイスをもらえるって話してた。
友香さん、こういう所で運がいいのね」
モチヅキさんは心から嬉しそうに言った。
「ようやく追い風が吹いてきたみたい。彼女はまもなく夢の世界から帰れると思うわ」
僕の脳に、モチヅキさんの丁寧な説明がゆっくりと浸透してくる。
腫瘍、権威、そして回復への道。
それは乾いた地面を潤す希望の雨に違いない。僕は想像した。
『心配げに見守られる中、友香のまぶたがゆっくりと開く。彼女の瞳は順に僕たちを追い、やがて涙に潤っていく。ひとりずつ名前を呼ぶかもしれない。
この物語で最高に盛り上がる感動のシーンだ。やがて友香は回復し、この病院に別れを告げる。復学もすぐに叶い、学友たちに囲まれて彼女の生活はリスタートする――そう、いつもの友香に戻って』
おかしいと思った。頭に鈍い痛みが疼いている。ぽたぽたと垂れる希望は、毒薬のように一滴ずつ、僕の心を黒く染め、壊していく。鼓動のたびに痛みが全身へと広がっていく気がした。何がおかしいのだろう。今回の始まりは悲劇だったが、ハッピーエンドで終わるのだ。ストーリーを疑う必要などないではないか。
しかしようやく理由に気づいた。
僕はこの結果を喜んでない。
おかしいのは自分だった。
あんなに友香の回復を考えていたはずなのに、いま本心がこのままでいて欲しいと思っている。しかも、たかが自分の絵の為だけに!
その考えは心底恐ろしかった。昨晩のあの声が、実は僕の心の主人だったのではないか。ずっと学友だった明るい「いつもの友香」が、黒い渦に飲み込まれ消えていくイメージが離れない。
エゴだ! やめろ! 拳を握りしめて耐える。だが耳の奥で容赦ない囁きが続く――髪を染めず、目もとを塗らず、唇を濡らさず、爪を飾らず。
「英雄くん? ど、どうしたの? まさか、嬉しすぎた?」
モチヅキさんは予想しない僕の反応にうろたえた。だが、すぐに看護師ならではの母性的な優しさを見せ、僕の両肩に手をかける。
「触るな!」
混乱のあまり、僕はそれを振り払ってしまった。
看護師は勢いで尻餅をつき、持っていた記録用のバインダーやペンが、音を立てて床に落ちた。
一瞬、我に返り後悔したが、すでに遅かった。
「何なの…あなたが訊いたから! 喜ぶと思ったから、教えてあげたのに!」
僕の知る限り初めて、モチヅキさんの顔にショックと悲しみの表情が浮かんだ。
看護師は顔を背け、足早に廊下に出た。と思いきやもう一度戻ってきて、落ちたバインダーやペンを拾った(僕の方は全く見なかった)。
そしてドアが閉まり、彼女は二度と戻って来なかった。
その後の僕が、いつ個室を出て、どうやって自宅の部屋に戻ってきたのか、誰かに説明する自信はない。
食事に呼ばれてリビングに降りたが、何を食べたかすらわからなかった。
ただ気がついたら、僕はアトリエにいた。
完成する予定のない絵の前に座って、手には絵筆を持っているが、何をするわけでもない。
目は空を泳ぎ、髪は乱れたままだった。背伸びをして体をほぐす。力を抜くと一気に姿勢が崩れ、背もたれがそれを支えた。
僕自身は眠りを求めているけれど、暗闇の中に身を投じるのが怖い。だが体力的な限界には敵わなかった。
神様は残酷だ。少しでも眠ろうとすると、夢の中であの鮮烈な彼女を見せつけるのだから――案の定、何秒か意識が飛んだあと、僕はすぐにびくっと起きてしまった。
ただその夢はいつもと違った。僕の背筋に悪寒が走った。慌ててもう一度、きつく目をつむる。
駄目だった。あの輝きの中にいる友香の姿が見えない。懸命に記憶を探っても、一枚の薄布を被せて見ているように、光量不足で呆けた人物の輪郭と影だけしか浮かばない。
恐れていた事が起きてしまった! このままでは僕の静かな世界が失われてしまう…何も残せていないのに! 焦りが羽虫のように首筋を這い上がってきた。
感情のままに筆を持ち上げてみたが、今さら何もできない。手が力なく垂れ下がった。
僕は愕然とした。どうしようもない…子供の頃に失った宝をせっかく取り戻したのに、何もできずに再び手放すことになるなんて。
しかも状況はもっと悪い。「いつもの友香」が戻ってきても、二度と顔を合わせられる気がしなかった。
僕の心は暗い声に反論できず、負けを認めていた。僕は全てを失うのだ。その結末に立ち向かう勇気がなく、体が震える思いがした。
いや、実際に震えていた。まわりはもう暗く、気温がかなり低くなっていたのだ。
記憶が後からよみがえった。僕が看護師を突き飛ばした時に、ペンと一緒に外れ落ちたのだ。動揺していたモチヅキさんは、それを忘れて行ってしまった。
僕が無意識に拾ったのだろうか。そんな事も覚えていない。だが受付にこれを返した記憶も同じようになかった。
病院の名が書かれた台紙を見ながら、僕はしばらく押し黙っていた。やがて財布とジャンバーを手に取ると、僕はアトリエを後にした。
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