6.アトリエ ~atelier~



「駄目だ、こんなんじゃない…」

 筆を持つ手が、また止まった。湧き出た苛立ちが虫のように腕を這い登り、指先を震わせる。その感覚を振り払い、同時に筆を木製の机に投げ捨てた。

 僕は久しぶりに自宅の離れに籠もっていた。

 もとの倉庫に戻ってしまっていた離れを、夜遅くまでかけ掃除した。画材や机を運び込み、本来のアトリエに戻すのにさらに半日を費やした(家族からの非難の目は無視した)。

 その後の2日間、僕は夜遅くまで下絵を描き続けていた。

 ろくに寝ていないので節々が痛み、体調は最悪だった。そこまで無理した理由は、あの印象を忘れるのが怖かったからだ。

 どんな良い夢を見ても、朝食の時になるとぼんやりとして、説明できない事がある。そうなる前に何とかして、その瞬間を細部まで、僕なりの形に繋ぎ止めたかった。

 やっと何枚かの下絵を候補として残すことができた。だが、それからさらに2日が経っていた。

 僕はかすれる目をこすった。足元がふらついてバランスを崩しそうになり、何とか椅子に座り込んだ。こわばった体を伸ばす為に、背を反らし天井を仰いだ。

 部屋を照らす白熱球のひとつはとっくに切れていて、破れた蜘蛛の巣が未練がましく垂れていた。

 ブランクは短くないが、ここまで思い通りに描けないとは、正直思っていなかった。数をこなせばと突っ走ったが、流石にがむしゃらに描きすぎた。少し時間を置いた方が良いと本気で思った。


 僕はふらふらとアトリエを出た。

 母屋に戻り冷蔵庫を物色していると、母親から声がかかった。

「こんな遅くまで、お風呂にも入らないで。顔色悪くない?」

「そんな事ないよ」

 僕は相手を見もしなかった。

「最近は友香ちゃんのお見舞い、行ってないの?」

 牛乳に伸びた手が止まった。母の言葉に他意なかったけれど、なぜかひどく苛ついた。

「母さんに関係ないだろ!」

 ぴしゃりと言う。僕は何も取らず冷蔵室のドアを締め、足早に2階へ上がった。自室に入るとドアも閉めず、顔からベッドに突っ伏した。

 頭の中で親の言葉がまだくすぶっている。ずっと気にしていた事を、ああも簡単に言い当てられて、つい怒鳴ってしまった。

 あの日から僕はいちども病院を訪れていなかった。

「いま学校が大変で」「バイトが忙しい」

 他人ひとには何とでも理由を並べられる。でも自分に嘘はつけない。

 あの部屋に行けば友香に会える。会って僕のくだらない日常の話を伝え、笑いたい。本心はそう思うのに、躊躇してしまう訳を僕はよく知っている。

 横を向いて寝転がると、画材で汚れた指が目に入った。これが真実こたえだ。失うのが怖かった。

 今なら目を閉じてもまだ、まぶたの奥に映る友香が僕を見つめてくれている。しかし現実の彼女の意識は、あの狭い個室のなか、浅い眠りと共に灰色の世界をたゆっている。会いに行けば行くほど、現実という絵筆が、僕の中にある静かな友香の顔を塗りつぶしてしまう気がするのだ。

「そんなのは嫌だ!」

 2つの友香の姿が僕の中で交錯し、渦となってぐるぐると周り出す。やがて渦は意識を持ち、問いを投げかけてくる。


  お前の本当のはどっちだ?


「わかってるよ!」

 頭を抱え、力なく反論した。僕は疲れている。だからこんな気持ちが湧いてくる。


  幼馴染みとかいって、薄っぺらな友情をひけらかすな。

  本当はお前の欲を優先しているんだろう?


「うるさい! うるさい!」

 声をあらげ、容赦なく振るわれるムチのような言葉から逃げた。僕は深々と布団をかぶり耳と目を強く閉じた。


 そのままどれくらい過ぎただろうか。布団から這い出ると、暗い部屋は静かで、あの声は聞こえてこなかった。だがこんな気持ちでは、下絵どころか何も描き続けられない気がした。僕は答えを確かめる必要があると真剣に感じた。


 誰に宣言しているか、わからなかったけれど、僕は暗闇に向かって声を出して言った。

「明日友香に、会いに行く」


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