5.人物画 ~portrait~
その日、僕はいろいろな事がうまくいかなかった。
家を出て3回、角を曲がってから忘れ物に気づき、バスの中ではしこたまヒールで足を踏まれた。友人に待ち合わせをすっぽかされ、欲しかった本は最後の一冊を他人に買われた。
常人なら
僕はいつものように、午後の病院を訪ねた。
その日も個室は静かで、友香の顔は窓際の木々の枝影に隠れて見えなかった。
ガサガサと鳴るスーパの袋をテーブルの上に起き、上着を脱いだ。椅子に座ろうとしてふと気づいた。
「誰かいたのかな?」
クッションに、人が座っていた気配のようなものを感じた。すぐに、来ていたのは友香の母親だとわかった。
テーブルの上に何冊かの本が残されていたからだ。僕が話かけるのと同じ理由で、母は面会に来るたび友香と会話し、子供にするように読み聞かせをしていた。
どんな本を読んでいるのだろうと興味本位で手を出した時、僕は一冊をうっかり落としてしまった。
本は床を滑るように進み、ベッドの下に消えた。
「やっぱり今日は何しても駄目な日なんだ」
悔やんでも仕方なく、這うようにしてかがみこみ、床下を覗き込んだ。
「あれ?」
目を凝らすと、落とした本のさらに奥――ベッドの反対側に何か赤い物が落ちていた。周り込んで拾い上げると、それも一冊の本だった。
「あ、これ。懐かしい」
よく知っている童話だった。本は表も裏も赤く、表紙にはウサギたち――兄と手をつないだ妹――が描かれている。昔は真っ白に塗られていた二匹は、くすんで黄色くなっていた。
友香はこの兄妹ウサギの話が大好きで、幼稚園の頃、僕と肩を並べてよく読んでいたものだ。
でもなぜ一冊だけ、あんな所に落ちていたのだろう。僕は訝った。母親が友香の家からこの部屋に持ち込んだのは確かだけれど…
ある思いつきに自分でもはっとし、僕は驚きの眼で友香を見た。
静かなので気づかなかったが、友香は木影にさらされ、枕に半分うずくまって、穏やかな寝息をたてていた。白い
「友香が本を?」
まさかと思った。こうして寝ている姿からはとても想像ができない。でもこんな時は、奇跡を信じたくなるものだ。
医師に知らせるべきかと焦り、思わずナースコールのボタンに手を伸ばしかけた。
いや待てと、冷静なもうひとりの僕が押しとどめる。
そこまでは考え過ぎだろう。実際に友香が本を手に取り、読むところを見たのならまだしも。
危うくモチヅキさんに笑われる所だった。僕は混乱した頭を冷やす為に、いちど深呼吸をした。普段は無反応なくせに、いざとなるとパニックになる。僕は自分の短絡的思考を呪った。
あらためて拾った本を整え、椅子に座った。テーブルに置いてある荷物を眺めていたら、本来やろうとした事を思い出した。
買い物袋から取り出した林檎を洗い、平皿を準備した。果物ナイフで四等分にカットする。ナイフがとおる感触で、よく熟しているのがわかった。僕は続けて皮を剥き始めた。
料理や家事に興味はないが、この手の作業は苦にならない方だった。サクッ、サクッっという規則正しい音を繰り返し聞いていると、外の景色を眺める余裕が出てきた。
本当に穏やかな日だった。薄い雲をとおして降りてくる柔らかい午後の陽光が、部屋の空気と清潔な白いシーツを優しく温めている。今日はずっとドタバタしていたから、こんな落ち着ける時間が喜ばしかった。ふたつ目のカットを終えた僕は、手を止めてその雰囲気に身をゆだねた。
葉の擦れる音が風のたびに繰り返し聞こえ、波のようだった。遠くの幹線道路で鳴るけたたましいクラクションは、広い空に拡散して棘を失い、管楽器のように音楽的に響いてくる。
いつしか僕のまぶたはどんどん重くなり、体が自然と前後に揺れ始めた。
その時、何の前触れもなしに少し強い風が吹き、窓際のレースカーテンが一気に水平近くまで持ち上がった。僕はまどろみながらも薄目を開け、その様子を見ていた。
薄手の布地が生きているように大きく波打ち、僕の目からベッドの半分を覆い隠してしまう。やがて風が止むと、カーテンはいったん空に停滞したのち、ゆっくりと重力に引かれるままに落ちていった。
落ちていく薄いレースの幕の向こう側に、ぼんやりと黒い影が見えた。
風のいたずらが完全に終わった時、僕はその影の正体を知った――それは友香だった。眠ってはいなかった。
ベッドの上で半身を起こし、手を腿の上で組んでいた。
そして目は――あの誰をも見つめる事のなかったふたつの瞳は――いま、しっかりと、僕をその焦点の中に捕らえていた。
彼女の表情には生気と認識の輝きがあった。長い髪に半分隠されてはいたが、口元にうっすらと笑みが浮かんでいた。
僕の目が、口が、開いたままになった。
友香が僕を見て、僕に笑いかけている。
こんな事があるなんて! 何かを思い切り伝えたいのに、今度は僕が喋れなくなってしまった。近づこうにも、脚が固まって立ち上がる事すらできない。
ちょうどその時、空を覆う薄雲から太陽が完全に顔を出した。白色の光は放射する矢となって、友香の姿を照らした。
影と同化していた髪が、光を浴びて闇からすべり出てきた。単色に見えた黒髪は、反射して幾重にも重なるぬばたまの短冊となり、立体的で鮮やかな濃淡を作り出した。
薄いピンクの艶をおびた唇が、肌色の自然な頬が、何も塗られていない透明な爪が、すべてが――不自然な飾りの産物ではなく――今を生きる命が発する、純粋な輝きに満ちていた。
「静かだ…」
僕は心の中でつぶやいた。何も音がしなかった。指に力が入らない。握っている感触がないのに、果物ナイフが床に落ちた音がしなかった。窓からは騒音も風の音も聞こえてこない。
「友香が…友香が完全な『静』を作り出している」
僕は幼少の頃を思い出していた。
…背筋を軽く伸ばし、ひと呼吸して前を見る。その時から彼女はとても「静か」な存在になっていく…
目頭に熱いものがこみ上げてくる。僕は感動のあまり、こぼれる涙を拭う事すら忘れていた。これをもう一度描きとめたい、強くそう思った。
ふいに手の感覚が戻った。
催眠術を説かれた患者のように、僕は驚いて目をしばたいた。
一瞬、自分の居場所がわからなくなる。眠くて意識が飛んでいたのだろうか。あわてて壁の時計を確かめるが、長針は僕が部屋に入った時から、ほとんど進んでいない。手もとには、まだナイフと林檎が握られていた。
「友香?」
今度は声が出たし、体も動いた。
何度見ても彼女は先程と変わらない位置にいて、影の中で静かに眠っていた。あれだけ暴れたカーテンはまったく揺れていないし、太陽は雲の上にあった。
混乱の収まらない僕は、腰が抜けたように、また椅子に座り込んだ。
「いまのは何だったんだろう。これも『短絡的』な思考の産物か? 違う…夢にしては鮮烈すぎる!」
まぶたを閉じてみて安心した――あの姿は心に焼き付き離れてない。興奮で火照った頬には、温かい涙の筋が残っていた。
「間違いない。友香が帰ってきたんだ」
僕はカバンからハイユニ数本と青いスケッチブックを取り出した。
長く使っていなかったせいで、紙の感触が新鮮に感じられた。空白のページ出し、急ぎ削った鉛筆をかまえ、目を閉じていちど深呼吸する。
僕は時も場所も忘れて、夢中で鉛筆を走らせた。
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