4. 失認 ~agnosia~



「今日のノートはこれだけ。でさ、ツチヤの講義なんだけど…」

 ベッド脇に置かれた椅子に座り、僕は友香に笑いながら話しかけていた。

「新記録! 寝てるやつの人数がついに9割を超えたんだ! タカハシなんてわざわざ、マイ枕持ちこんで熟睡してるし。あいつ何しに来てんだろ? でもさぼらず授業には出てくるんだから真面目っていうか…」

 とりとめのない会話は続けながら、立ち上がって電気ケトルの水を注いだ。


 友香の隣でその日起きた出来事を語るのは、僕の習慣になっていた(個室でなければ周りからクレームが来ただろう)。

 頭の包帯が取れ、肌の血色も良くなった友香だが、例の症状は相変わらずだった。定まらない視線のせいで、いつも意識がくうに浮いているように見える。それでも風や光に何かを感じ、反応を見せる事がたびたびあった。

 悪くない兆候に思えた僕は、なるべくカーテンや窓を開け、外気を入れるようにしていた。


 その日も友香は変わらず、内面の世界をたゆっている。僕の声など虫の羽音ほども聞こえていないだろうと分かっていたし、一方通行でも良かった。それは僕にとっては久しぶりの、貴重な友香との対話の時間だった。思い出話、講義のノートの読み聞かせ…バイトの嫌な客の話題もした。とにかくいろいろな事をたくさん話した(そして自分の饒舌ぶりに驚いた)。話しぶりはつたなくとも、多くの言葉が友香を刺激し、僅かでも注意を惹ければという、願いもあった。

 ケトルがカチンと音をたて、保温のランプが点いた。紅茶の準備を始めた時にノックがあり、扉が開いた。

「萩野さん、失礼します。あ、英明くん、もう来てたのね。こんにちは!」

 軽いノリで看護師が入ってくる。今日は髪をおさげにしていたので、余計に幼く見えた。

「こんにちは、モチヅキさん」

「今日は一段と来るの早いんじゃない? あ、ダージリン?」

 大きな目を閉じて深呼吸をする。

「香りは脳の刺激になるんだよね。英明くん、勉強してるわ。うん、せっかくだから、私も一杯頂いちゃおう!」

 いたずらっぽく笑い、個室のドアを閉める。人の目が気にならなくなった彼女は、完全にリラックス状態で伸びをした。

「うーん! 引き継ぎの連中の手際が悪くてね、朝から嫌にさせられたから、ここで小休止!」

「安物ですけど、良ければどうぞ」

 用意したティーカップに湯を注ぐ。

「砂糖は…ああ、無しで。ええと、今日は急に休講になったので早く来れたんです」

「そのおかげで私は一杯の紅茶にありつけたワケなのです、と。アチチ…あー美味しい」

 僕も自分の湯呑みを手に取った。外から優しい風が部屋に入ると、ふたり分の湯気と沈黙が流れた。

 くつろいだ看護師は、ベッドに腰かけた時に指に触れた講義のノートを、リズミカルにめくった。

「もしかして友香さんの授業の分? 全部、英明くんの字じゃん」

 マメさに驚いたようだった。

「友香さんは幸せ者ね」

 モチヅキさんはカップをテーブルに置くと、顔を友香の耳もとに近づけ、小声でささいた。

「こんな素敵な幼馴染み(かれ)が、いつも献身的に見守ってくれてるなんて」

 そう言うと、友香のこめかみを、人差し指で(優しく)つついた。

「気づいてあげてよーって、ね。わたし、ちょっと灼けちゃうわ」

 僕は自分の世界に入りほうけていたので、モチヅキさんの大胆な行動にぎょっとした。

「ご、ごめんなさい! 何か言いました? あれ、友香の顔に何か付いてました?」

 看護師は最初キョトンとしていたが、ついには笑いだした。

「ははは! あーおかしい!」

 腹を抱え、ついには涙目になっていた。

 「こーんな鈍い人なのに、信じられない!」

「僕…何かしちゃいましたよね? たぶん」

 僕は恥ずかしくなって、いまだに笑っているモチヅキさんに訊いた。

「いや、何でもない! 英明くんはいつも来てくれて、偉いねって話」

「…なんか、はぐらかしてませんか?」

「あ、看護師長が呼んでたんだ! ごめん、またね」

 モチヅキさんはぶら下げていたPHSを握りしめ、出ていってしまった。

「お茶だけ飲んで、そもそも何しに来たんだろ」

 残されたティーカップを片付けながら、僕は呟いていた。



 入院3週間目に入っても、友香はまだベッドの上にいた。

 運動のため定期的に看護師同伴で敷地内の庭を散歩していたが、外出は許可されていなかった。たまに来る看護師や家族の見舞いはあっても、基本的に部屋を訪れる者は少なかった。

 彼女の意識が混濁としていなければ、時間をもて余すだけの、退屈な体験になっただろう。

「先生、友香はいつ退院できるのでしょうか」

 いちど友香の母が切実に訴えた事があった。

「いまは点滴もしていないですし、検査だけなら通院すれば済みますでしょう?」

 僕はその場にいたから、母親の気持ちが理解できた。入院の負担よりも、娘が家にいない事の方が両親の心を不安で蝕むのだ。

 後ろにいる父親も同じ思いなのだろう。

「お気持ちは理解しています、萩野さん。友香さんの症状、医学的には失認しつにんといって、物や人の表情などを認知する能力の欠如が――」

 医師は口を紡ぎ、言い直した。

「つまり『皆さんに気づけない症状』がおありになっても、娘さんはご家族と共に過ごせると考えています。今は忘れているようですが、言葉もいずれ発するようになるでしょう。ええ、安心してください」

 母親の安堵の声に応え、医師は続けた。

「むしろ長年過ごした自分の部屋で過ごす方が、言語の回復は早いかもしれません」

 回復という言葉の温かさに、僕も表情が明るくなった。

 医師は職業的プロフェッショナルな配慮から、すぐには皆の安堵感を壊さないよう、ひと呼吸分の間を置いた。

「ただし、問題は言葉それだけではありません」言い方は穏やかだったが、僕たちを現実に引き戻すには充分な一節だった。

「以前お伝えしたとおり、通常であれば時間と共に回復に向かう症例なのです。それを阻害している要因が、まだ明確になっていないのです」

 そのあと「エビデンス」がどうとか、難しい単語が続いたが、僕にはよく理解できなかった。

 ひとしきり言い終わると、若い医師はふと考え込んだ。次の言葉を慎重に選んでいるようだった。

「まれな例なのですが、外的な原因が取り除かれたにも関わらず、心が回復しないケースがあります。何かのショックが引き金となって、必死に自分を守ろうと殻に閉じこもり、外からの刺激を謝絶してしまうのです。そういった患者は、むしろ自分の中に閉じこもっている分、精神は安定している状態にあります。

 外の世界が安全だと判れば、心は開放されるでしょう。ただしそれは力づくであってはいけません」

 医師は個室の白い内装を指さした。

「この壁を一枚超えれば、たくさんの強い刺激があります。友香さんが自室で過ごしたとしても、同じだと思います。さらに通院するとなれば、なおさらです。

 何かの小さな切っ先が、彼女の心の殻を壊してしまうかもしれません。その時にであれば、パラメディカル――つまり専門のスタッフが、文字通り最短距離で対応できます」

 友香の父が、諦めとも納得とも取れる声を漏らした。まだふっ切れない様子の妻の背中に、優しく手を置く。

「とにかく、まずは言葉の回復を目指しましょう。最初は単語のような一言でも、やがて会話に繋がります。そうなれば言葉を使ったリハビリのプログラムが試せます。心配しないでください。娘さんをお預かりする期間は、そう長くはないと思いますよ」

 最後の一言がどれだけ両親を勇気づけたに違いない。母は祈るように手を合わせていた。


そう、僕らはただ祈り、待つしかなかった。


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