3. 喪失 ~perte~



 翌日も寝不足だったが、僕は朝早くから起きていた。

 階段を降り、リビングに続く扉を開けた。薄暗くまだ誰もいなかった。ライトは付けず、コップを取り水で口をゆすいだ。

 昨晩から、心なしか緊張している気がする。精密検査の結果が今日の午前中に出ると、友香の母親から連絡があったからだと思う。

 すぐに、僕も行きますと返事をした。病院の匂いは嫌だが、家で結果を待つのは、もっと耐えられない。それでも「大丈夫」とか「何があっても」とか、その時の台詞を何度も反芻してみたが、湧き上がる不安を完全に押さえ込む事はできなかった。

 それから家を出るまでの時間は、ものすごく長く感じた。

 少し早めに出発したのに、途中事故があってバスが遅れた。おかげで病院に着いたのは正午近くになった。

「一本前だったら大丈夫だったのにねぇ」

 悪びれずこぼす運転手が憎たらしい。

「朝食、家で食べるんじゃなかった」

 僕は自分の運の悪さを呪った。

 面会票を握りしめたまま、僕は友香の病室へ急いだ。院内を走らないでくださいと、背後から追いかけてくる看護師の声は無視した。

 部屋が視界に入った時、ドアが開いて誰かが部屋から出てきた。

 僕はその男性をよく知っていた――昨日あったばかりの友香の父親で、今日はスーツ姿だった。彼は扉を閉めてからしばらくその場に立っていたが、やがて部屋の正面の椅子に座り込んだ。

「あの、小澤です…遅くなってすみません」

 僕から静かに近づき声をかけた。

「実はバスが…」

「ん…ああ、ヒデ君か。昨日は家まで知らせに来てくれてありがとう。ろくに礼も言わず、すまなかったね」

 友香の父は、僕の遅刻の言い訳には反応を示さなかった。

「今日も見舞いに来てくれたんだね。さあ、中に入って」

 形式的な反応。彼が立ち上がらなかったので、ひとりにして欲しいのだと感じた。

 落ち着かない手でドアを開くと、部屋には複数の人影があった。

 まずベッドの側で椅子に座る友香の母が見えた。憔悴しきっている様子で見るからに顔色が悪い。

 昨日会ったモチヅキさんもいた。看護師は膝をついて友香の母の手を握り、元気づけていた。

 視線の流れのまま、窓際の方を見て、僕は息を飲んだ。

 友香は眠っていなかった。半分起こされたベッドの傾きに体を預けていた。頭の包帯がまだ痛々しく、顔全体が青ざめて見える。それでも確かに開いているふたつの目は、物憂げに窓の外を眺めていた。

「友香!」

 緊張の糸がほどけ、胸が熱くなった僕は思わず名を呼んだ。

 があった。

 睫毛がぴくりと持ち上がる。ついで顔がゆっくりと動き僕の方を向いたが、瞳はまだ目の右端にあった。最後に遅れてついてくるように黒眼が動き、ようやく視線が交差した。僕は不気味な違和感を覚えた。

 友香の動作はひとつひとつが独立していて、まるで機械のようだ。そしてあの目――こちらを向いているが『見て』いない。まるで焦点があっていないのだ。視線は肩越しに僕を通り越し、つまらない壁の広告を眺めているように無感情だった。

「小澤くんだけじゃなくて、誰もわからないみたいなの。目の機能は正常なのに『認識できていない』って言えば解りやすいかしら」

 僕の反応を予期していたモチヅキさんが、説明してくれた。母親を気遣っているのか、声のトーンは抑え気味だった。

「この病院に運ばれた時、頭に血が溜まっていて、脳が圧迫された状態だったから…そういう人にまれに出る症状ね。圧が下がればすぐに回復するんだけれど、友香さんの場合――口をつぐむ――少し時間が必要かもしれない」

 途中まで震えながら聞いていたが、最後の言葉に耐えられず、友香の母はハンカチで目をおおった。

「申し訳ないけれど、いまお伝えできるのはこれだけ。事故からまだ時間が経っていないし、しばらく安静にする事が第一です」

 看護師は冷静な面持ちで話を締めくくった。

 友香は再び外の世界に視線を戻していた。横顔を見ていると、特に傷跡は見られず、包帯を巻いていなければ怪我人に見えない。こんな普通なのに、まさか僕らがだなんて。

「友香」母親が感極まって悲痛な声で娘を呼んだ。我が子の掌を涙が残る自分の頬にあてる。シャツの袖がずり下がり、腕の擦り傷や青あざがあらわになった。

 僕は痛々しい様子を直視できなかった。

「英明くん…」

 モチヅキさんが無言の親子を見て、仕草で退室をうながす。

 僕はうなずいた。

「お母さん、また来ます」

 それだけ告げて個室を後にした。

 廊下に出ると、父親は座ったまま頭を抱えて静かにすすり泣いていた。

 その場の僕はただ、小さな看護師が無言で去っていくのを見る事しかできなかった。


 家に帰っても何も手につかず、その日の残りは無意味に過ぎていった。

 家族に病院のできごとを淡々と話した後、僕は質問を無視して2階の部屋に上がった。

 また長い夜と戦う覚悟をして床についたが、意外にも眠りはすぐにやってきた。



 週が明けて、最初の授業を受けに大学に向かった。想像したとおり、周りは友香の話題でもちきりだった。

 どうやら地方のニュースで事故として流れたらしい。大学の名前が映れば、お願いしなくても情報はまたたく間に拡散するに決まっている。

 校舎に入った僕は、さっそく友人たち――もちろん友香の――に囲み取材を受けた。

「何があったんだよ!」とまず真実を知りたがるのは男たちで「大丈夫なの?」と怪我の心配を訊くのは女性が多かった。

 僕は最初、彼らに半笑いでしか対応できなかった。まるで何かで賞を取って、ひと晩で名が売れた芸人みたいだと、不謹慎にも思った。

「おい、ヒデ!」

 友達のひとりが、煮えきらない態度に業を煮やし、解説をせっついた。

 我に返って僕は説明した。「事故についての事情は何も知らない」「病院にいて今は絶対安静の状態」「(女の子に向けて)顔には傷がなさそうだよ」など、正直に事実を話した。

 ただ友香の症状を除いては。すぐに治る可能性だってあるんだ、いま敢えて伝える必要はない。

 一応の納得があったようだ。間もなく講義の時間という事もあり、人の輪が散っていく。

 最後に僕の前に残っている者たちがいた。先頭はタカハシだった。先週会った時のふてぶてしさがナリを潜め、すっかりしょぼくれていた。

「お、小澤…すまなかった!」

 深々と僕に頭を下げた。タカハシの後ろの男子たちも続いた。

「ぼ、僕に謝られても…」

「俺が…俺達がよう、萩野を止めるべきだった! 酒がやたら強いから…が出ちまって、店で相当呑んでたけど、歩けないほど酔ってたなんてよ!」

 拳を握りしめる。

「ひでぇよな…何であいつがさぁ! かわりに馬鹿の俺が落っこちればよかったんだ!」

「誰が悪いとかいう話、やめようよ!」

 見かねた僕は、タカハシの肩に手を置いた。

「あの会に行ってれば…僕だって後悔してる」

 泣きべそをかく友人の顔を見る。

「一緒に友香に謝りに行こう! 今は無理だけど、しばらくしたら…とにかくあいつは病院が看てくれてるから、心配ないって!」

 僕の下手な慰めで、タカハシは何とか落ち着いたようだった。彼とその仲間たちは、しずしずと講義のある2階へ歩いて行った。

 勢いでつい「そのうち会いに行けるさ」的な事を口走ったのは、軽率だったかもしれない。でも真実をタカハシに伝えたら、走っていって敷島神社の階段からダイブしかねない。この嘘は仕方なかった。


 やがて僕の知らない時と場所で、両親と大学側の話し合いが行われた。

 未成年の飲酒という罪はあったものの、友香の普段の素行や成績等が考慮されたようで、大学は目に見える処分を下さなかった。ただし今の状態では友香の通学は難しく、大学は休学する事になった。

 僕は自分が参加したり友人の力を借りたりして、彼女の受ける講義の内容を全てノートに残した。バイトはなるべく削って、減らした時間を友香との面会に割り当てた。その為、毎日はこれまでより確実に忙しくなった。

 友香の両親には会うたびに礼を言われ、友人たちは僕の行動を称賛しているようだった。でも僕にできることは、本当にそれくらいしかなかった。


 せわしない毎日にリズムができ、体が生活に慣れてきた頃、世間ではもう2週間が経っていた。


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