2. 個室 ~chambre~
友香。
そう、彼女と僕は、幼稚園からの幼馴染みで、一緒にいるのが当たり前の存在だった。家が近所な事もあり、家族ぐるみの付き合いがあった。
幼馴染みとはいえ、小学生にもなれば、たいてい男女はお互い意識して、距離を置き始めるものだ。でも僕らは不思議とそうはならなかった。周囲の噂やからかいの声もあったに違いない。だが二人の自然な距離には何も影響しなかった。
小さな頃から絵に興味があった僕は、中学生の頃に美術関係のクラブに入った。
「小澤、なかなか筋がいいな!」先生からはそこそこ認められ、いい気になって画材を揃えた。自宅の庭にある古い離れを勝手に占拠し、棚や机を運び入れた。
僕だけの「アトリエ」が完成した時は誇らしい気分だった。
もとから出不精な僕が、そこに籠もりがちになったのは、無理もない。とにかく作業に集中したかった僕は、大事な場所に友人はもちろん親すら入れなかった。
けれど友香だけが例外だった。幼稚園時代の落書きから始まって今に至るまで、友香は僕の理想のモチーフだった。
ただ椅子に座り、両の手を膝の上に添える。背筋を軽く伸ばし、ひと呼吸して前を見る。その時から彼女はとても『静か』な存在になっていく。アトリエの中が静寂に満ちていき、外から来る音がいっさい聞こえなくなる。自分の呼吸音すら消える感覚は、僕を恍惚とさせた。
僕はこれまで、その静寂を何とかしてキャンバスの中にとらえようと筆を握ってきた。けれど一度も満足できた事はなかった。
「私は好きだけど」
そんな時はいつも、暗い顔の僕を察した友香が、完成した絵を褒めてくれた。そしてまたモデルを引き受けてくれた。
やがて僕たちは高校に進学した。友香は僕より遥かに成績が良かったはずだ。でもなぜか、彼女は僕と同じ公立の高校に通う事になった。
友香が変わり始めたのは、そして僕が彼女の絵を描かなくなったのは、この頃からだと思う。
明るく友達の多い子だったからこそ、影響は大きかったのだろう。長い黒髪はそのままだったが、唇や爪の色が――僕にとっては不自然に――変わり始めた。もともとおとなし目だった服も派手になり、他の女子たちと並んで歩いていても違和感がなくなった。
大人ではない僕が言うのも変だが、年頃なのだから仕方ない。年頃なのだから、幼馴染みと喋る機会が減っていくのは、自然なことに違いない、そう納得していた。
いや、そもそも僕は、当時からそんな不満は持っていなかった。僕が不安を感じたのは、変わりゆく友香から『静か』が消えてしまう事だった。
彼女のイメージをキャンパスの上に射止めたい焦りは、ちりちりと僕の胸を焦がした。「以前のようにモデルを頼めばいい。友香は断らないだろうし、今度こそ納得できる絵が完成するかもしれない」でも、もし静けさが消えていたら?
その事実を受けとめる勇気がないまま、僕はすっかり友香の姿を描くのを止めてしまった。
それは友香と同じ大学(これも偶然だった)に通うようになっても、状況は変わらなかった。
今日は偶然とはいえ、友香と久しぶりに面と向かって話をした。おかげで、引き出しの奥深くに隠していた想い出の箱を開けてしまった。
その日の夜、僕はなかなか眠りにつけなかった。
翌日は土曜日だった。
睡魔。暗いうちはいないくせに、朝方になって奴らはやってくる。
母親のヒステリックな呼び声に鈍いうめき声を漏らしながら、僕は布団から手を伸ばし、目覚ましのデジタル表示を確認した。もう一度うめく。
完全に二重(体調不良だとそうなる)の目をこすり、階段をおりた。
土曜日だというのに、リビングには父も妹もおらず、テーブルに僕の食事だけが置かれていた。冷えた朝食をもごもごと頬張りながら、何となしにテレビに目をやるが、内容はまるで入ってこない。
「今日はおばあちゃんの病院に、荷物持っていく日だから、忘れないで」
朝食の洗い物を洗いながら、母が言う。
そういえば友香もおばあちゃんの事を言っていた、と考えたら少し脳が復活した。
「忘れ物しないでよ。お医者さんの話は、母さんが週明けに聞きに行くから。個室に移るようなら、私も留守がちになるから、しっかり起きないと!」
口に目玉焼きを詰つめたまま、言葉にならない返事をした。
「…昨晩の小雨もあがりましたね。今日は一日、気持ちよく晴れるでしょう。さて、ここからは地域のニュースをお伝えします」
アナウンサーの声を聞いて、僕は時間の感覚を取り戻した。あらためて時計を見ると、針は思ったより進んでいた。病院は遠くはないが、バイトもあるしすぐに出ないと間に合わない。
「昨夜未明、B県C市D町の敷島神社の鳥居付近に――」
僕はあわてて皿の残りを片付け、髪を適当に整えると、家を出た。
その日はよく晴れていた。
家からバス停まで走ったせいで、汗がにじみ出てきた。そのおかげで2分前に乗車待ちの列に並んだ。まずはバスに乗ってしまえば安心だった。
総合病院は市内で最も大きい医療機関で、ひと通りの診療科がそろっていた。
祖母の病室は5階にある。面会票を受付で受け取り、すぐ右のエスカレーターに乗った。せっかちな僕は右側を登って行こうと思ったが、老婆たちの集団に遮られ進めなかった――結局、最後まで追い抜けなかった。
ようやく牛歩の歩みから解放され、僕は早足で祖母の病室に向かった。
4つある名札から小澤の名を確認して部屋に入る。
おばあちゃんと声をかけ、いちばん奥のベッドの遮蔽カーテンをそっと開けた。横になっている祖母の姿が見えたが返事はない。
どうやら眠っているようだ。近づくと口呼吸の寝息が聞こえてきた。
待つほどの時間は無かったので、起こさないようそっと荷物を棚に起き、そばにメモを残した。
去り際にあらためて祖母の顔を見ると、以前来た時より痩せたように感じた。母からは食事を残すようになったと聞いていたが、そのせいだろうか。僕は声に出さず口だけで別れを伝えた。
病室を出た後も、さきほど見た痩せた顔が、しばらく脳裏から消えなかった。僕はむりやり、元気だった頃の祖母との明るい記憶を思い出すようにして歩いた。
何か違和感を覚え、思考が途切れた。来た時に歩いていた場所と違う場所にいると、すぐに気づいた。どこかで行き過ぎてしまったのだろうか。戻ればいいと振り向きかけて、足を止めた。
このまま少し歩いた先に、エレベーターがあると案内のサインが教えてくれている。ただ、そちらは少し薄暗かった。
「また戻って老人たちの行列に並ぶ気か?」
せっかちな自分が警告する。僕はその言葉に従って、戻らずにそのまま歩いた。
エレベータを見つけて乗り込み、1階のボタンを押した。病院の設備だからなのか、箱の中が通常より広く感じる。それはそれと、僕は頭を切り替え、取り出したスマホで乗換案内のページにアクセスしようとした――
いきなりガクンと音がした。明らかに地階に着くよりも早く、足に大地の力を感じた。
外から移動式のベッド(ストレッチャーというやつか)が、何人かの付き添い看護師と共に、大きな音を立てて滑り込んできた。ベッドにはいかにも重症そうな患者が乗せられていた。スマホを持っている僕を見たスタッフのひとりが、医療用のマスク越しにくぐもった声で言う。
「すみません、ここ、関係者専用のエレベーターなんです。この階で乗り換えて頂けませんか?」
僕はそそくさとエレベーターを降りた。こんな気まずい思いをするくらいなら、潔く老人の列に並ぶんだったと後悔した。
むろん病院の3階には降りた事がないので、たちまち方向感覚を失った。
「多分、フロアの反対端まで来てしまったんだ。とりあえず戻ればいい」という声に従い、だらだらと廊下を歩いた。
病室壁の名札ホルダーを見ると、各部屋に名前がひとつしかない。この付近が個室のエリアだという事が分かる。「ウエノ…タカオカ…スギモト…」戻りながら、何の気なしに通り過ぎる部屋の名前を、口に出さず読み上げていく。「サカキバラ…荻野…オオツカ…イケダ…」
個室のエリアが終わり、廊下の曲がり角に差しかかった時、僕は背筋に強烈な悪寒を感じた。今度は足早に、もと来た廊下を引き返していく。「イケダ…オオツカ…」繰り返しながら、どんどん心臓が高鳴っていくのが分かった。
『萩野』
確かにそう書かれた部屋の前に僕は立っていた。次に見るべき場所は分かっている――だが視線を動かすのが、とてつもなく怖く感じた。
『萩野 友香』
同姓同名の可能性――そんな思いつきも浮かばず、僕の手は勝手に個室のドアを開けていた(鍵は掛かっていなかった)。
部屋は昼だというのにかなり暗かった。蛍光灯は消えているようだ。窓からの陽光だけが部屋の角を照らしていた。
部屋に入っていくと、リネンで覆われたベッドの上にパジャマ姿の女性が横たわっているのが見えた。目は閉じているようだ。包帯に覆われた頭を柔らかそうな枕に埋めていた。耳が黒く長い髪に隠れて見えなかった。
「友香?」
その名を呼ぶのには覚悟と勇気が必要だった。僕の口は動いたが、声に出せたかどうか分からなかった。唇を湿らせても、喉がカラカラだ。震える指を反対の手で握りしめ、もう一度呼んでみた。
硬いノック音が突如として静寂を破った。
「萩野さん、入りますね」
返事がいきなり背後から返ってきた為、僕は無反応が売りとは思えないぐらい、飛び退いていた。
「あ、あなた誰ですか!?」
彼女はペンライトを灯し容赦なく僕に突きつけた。
「もしかして、親族の方?」
ぶら下げている面会証を見たせいか、彼女の態度が少し軟化する。
「それとも、ご友人? もしかして恋人?」
「ち、違います!」
ぎこちなく否定し、もつれた口で言い直した。
「ご友人、つ、つまり友達です」
「あ、そうですか」
警戒を解いた彼女の声は、いくぶん残念そうだった。
「灯りも付いていなかったので、驚いちゃいましたよ」
声のトーンが変わってくる。僕が不審者じゃない事はもちろん、明らかに年下だと分かったからだろう。
「はじめまして、私はここの看護師です。萩野さんの担当をさせて頂いてます」
手探りで壁の蛍光灯のスイッチを点ける。
「よろしく」
部屋が明るくなると、確かに看護師の格好をしている女性が立っていた。その人はとにかく小柄で、髪をアップにしていても背が低い。丸い眼鏡のせいで、目がとても大きく見えた。何となく好奇心が強そうだと感じた。腰にぶら下げている名札に、マジックで描いたピンクの花のマークに挟まれて「モチヅキ」とあった。
看護師の登場に面食らい、僕はすっかり友香の存在を忘れていた。
「あ、あの友香は!」
「かわいそうに」
彼女の声質が同情に満ちたものに変わった。
「萩野さんね、昨晩に緊急搬送されてきたの。近くに敷島神社ってあるでしょう? あの長い階段で有名な。彼女その途中で足を滑らせて、下まで落ちたみたいなの」
右手でコップの形を作り、ぐいっとあおる仕草。
「かなり入ってたみたい、それで…」
モチヅキ看護師の話が耳に入ってこなかった。敷島神社は僕と友香の小さい頃の遊び場のひとつだ。大学生になってからも、最終バスがなくなった時の神社を歩くコースは、2人の共通認識だった。
「あの慣れた階段で友香が足を滑らせるなんて! でも酒が…しかも昨晩は雨だったし…」
まとまらない思考に僕は翻弄された。
「命に別状はないけれど、頭を強く打った形跡があるから、これから何度か精密検査を受ける予定です」
看護師の表情が
「運び込まれてすぐの時、友香さん、意識があったの。でも色々聞いても『思い出せない』って。ショック時の一時的な錯乱は良くあるわ。今回アルコールの事もあるしね。何しろもう少し時間が必要じゃないかって、先生が――」
「馬鹿だった…」
僕の声はショックで震えていた。
あの時に中途半端な返事をせず、コージの誘いにのって友香の面倒を見るべきだった。僕がついていれば、酔った足で敷島神社なんて、絶対に行かせやしなかった。だがもう遅かった。時間は巻き戻せないのだ。僕はただただ悔いた。
「大丈夫? お名前は…誰くん?」
モチヅキさんが、うつむいている僕を心配げにのぞく。
「…小澤です。小澤英明」
「じゃ、小澤くん。ひとつ頼まれてほしいの。友香さんの学生証を見て、通っている大学には連絡したんだけど、親御さんがまだ病院に来られないの。もしできるなら、あなたからも知らせてくれない?」
僕はうなづいた。
「わかりました。家が近所です。すぐに連絡します」
「ありがとう。不安だと思うけれど、友香さんは私たちにまかせて」
よろしくお願いします、と伝えたはずだが、はっきりと覚えていなかった。
僕は意識のない友香を一瞥してから個室の外に出た。もう壁の名札は見なかった――真実を知ってしまったのだから。
早速スマホを取り出したが、ここでは通話できない事を思い出し、早足で通路を歩いた。エスカレーターを見つけたが通り越して(老人たちはいなかった)、向かいの階段を駆け下りた。
病院正面の自動ドアから外に出て、バス停に急いだ。走りながら前も見ずに、スマホのアドレス帳を調べる。さすがに友香の自宅の番号までは入っていなかった。
たどり着いて時刻表を確認すると、帰りのバスはもうすぐ来るようだ。
僕は荒い息を整えると、別の連絡先を探し電話をかけた。
「すみません、店長。今日バイト、休ませてください」
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