パンとワイン Bread and Wine
まきや
1. デッサン ~dessin~
「お前ってホントに無反応なやつよなぁ」
今の僕を『小澤英明(おざわ・ひであき)』という名前の次に簡単に表す言葉は、これ以上に無いかもしれない。周囲から見た僕は没個性、つついても反応が返って来ない、いじり甲斐の無い人間だった。
「聞いてるか?」
問い正す呆れ声を聞いてはっとした――つもりだったが、相手にはピクリとも動かないように見えたらしい。
「聞いてるかって、何を?」
相手が余計に苛立つのが、喋る前の仕草でわかる。短い茶髪を指でボリボリと掻いた。
「だーかーら! 女と遊びに行くって言ってるじゃん! ボーリングとカラオケ行って呑みコース! オトコの頭数がたんないから、おまえ誘ってるんだよ!」
声のボリュームで僕の頭が少し正常に戻り、話の内容は理解できた。
同学年(のはず)のタカハシが喋りかけてきたのだ。ちょうど講義が終わったばかりで、大学はC校舎の正面エントランスの階段を降りた僕は、すぐ脇にある石造りのベンチに座ったところだった。
タカハシは同じく石でできた階段の手すりをつかみ、足を前後に開いて固くなった体をほぐしていた。だが、それもだんだん飽きたようで、頭をかきながら僕の返事を待っている。
女子、ボーリング、カラオケ。どれもあまり気乗りがしない。
「あー、どうしようかな…」
「おいおい、返事はひとつだろ! ハイかイイエ!」
友人はあきれて、外人のように掌を空に向ける仕草をした。
「もう時間ないんだよ。お前ダメなら違うやつ見っけんから」
タカハシのしゃべりって語尾が変だよな…そんな事ばかり気になり、僕はまた本題を忘れてしまう。
「もういーよ! だいたいなあ、誘われてるだけありがたいって思えよ! お前の性格でなぁ」
タカハシがここぞとばかり僕の欠点を並べようとしたその時――
「あ…」
僕は警告したつもりだったが、その声はあまりにも小さかった。
白いトートバッグが縦に回転しながら、タカハシめがけて飛んできた。衝突の瞬間はスローモーションのよう。
茶髪の頭に命中し、友人は体ごと真横に吹き飛んだ。倒れそうになる所を右足で何とか踏ん張り、体勢を立て直す。混乱していた彼は、本能的に顔面をガードするポーズを取った。
「タカハシ・コージ!…あんたバカでしょ? なんでそいつなんか誘うの!」
友人の話に気を取られていた僕は、その子の気配には気づかなかった。聞き覚えのある声。さっきまでどこかに飛んでいた意識が一瞬で覚醒した。
声の主がエントランスの階段を降りてきた。別の部屋で授業を終えて出てきた『萩野友香(はぎの・ゆか)』だった。
白いブラウスを着て、細身のジーンズをはいている。肩までかかる黒髪のせいで、小顔がより際立たっていた。端正な顔立ちだが、アイライナーで縁取られた目が厳しく細められ、浮かぶ表情には不満さがにじみ出ている。
彼女は軽快な身のこなしで残りの階段をこなし、僕たちの前に降りてきた。
コージ・タカハシは額を大げさにこすって、痛みを撫で飛ばしていた。
「だって…頭数があ」
彼女のきつい目線が言葉よりも雄弁に相手を攻めたてる。タカハシは叱られた犬のような情けない顔になった。
「カラオケもロクに歌わないし、呑みだって店に入る前に、やっぱり帰るって言い出すヤツ、誘ってどうすんの! あんまり馬鹿すると、あんた連れてかないよ?」
彼女はにべもなく言い捨てた。
「オレ、間違ってました! はい、絶対行きます!」
どこぞの軍属よろしく敬礼するタカハシ。
彼女は手の仕草だけでタカハシを追い払った。走り去っていくさまを見届けていたが、充分な間を置いてから振り向いて、こちらを見た。
冷たくも温くもないギリギリの表情に絡め取られ、僕はただ動けなくなっていた。気まずい沈黙はいつまでも続くかのように思えた。
しかし一瞬彼女の視線が僕を
「もし行く気があるなら…」
途中まで言いかけ、かぶりを振った。今度は手すりを見つめながら、彼女は言い直した。
「早く帰りなよ。タエおばあちゃんの具合、良くないんでしょ」
「え? う、うん、そうだね」
何かきつい叱責がくるだろうと思っていたので、僕は反射的に立ち上がってしまった。おかげで肩掛けがベンチの角に引っかかり、ペンケースやノートが鞄からどさりと落ちた。慌てて拾い上げ、空いているスペースに詰め込んだ。ジッパーが半分しか閉まらないけれど、構わず持ち上げようとする。
「あ、あした病院に行くんだけど――」
もうそこに相手の姿はなかった。いつの間にかトートを回収し、友人たちと楽しげに会話して歩く彼女の姿を、僕は見送っていた。
「そういえば…久しぶりに会話したかも」
独り言をつぶやく。
ため息をつき、立ち上がろうとして、自分の荷物の重さを思い出した。鞄には学校のノートやテキストに加え、画材――絵筆やスケッチブックなど――がごちゃまぜに詰まっていたのだ。変形したジッパーが容易には閉まらなくなっていた。
今度はしっかりと腰を入れて立ち上がり、大学の出口を目指して並木道を進む。敷地を出てからもこの先は慣れた道だった。僕は物思いにふけっていたが、無意識に体は駅の方を向いていた。
商店街入り口の大きな看板の下をくぐった所で、僕の歩みが遅くなり、やがてぴたりと止まった。
後ろから自転車の抗議のブレーキ音が響いたが、僕は気にしていなかった。
彼女が僕の背後に見ていたもの――鞄から飛び出した、僕の青いスケッチブック。
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