第4話 襲来と邂逅

 身を潜めたまま町へと向かうフィオンは、夜盗の大男が急に静かになった事に気付き、足は止めぬままに辺りを探る。

 ブラヒムのか細い断末魔は彼の耳には届かず、夜盗が追跡を諦めたか依然自身を捜しているかは判断がつかなかった。


 耳に入ってくるのは夜の森が僅かに発する音ばかり。

 夜闇に閉ざされた森は静寂に満ち、耳を澄ませれば自身の呼吸音や鼓動の方が喧しく思えてしまう。

 慣れ親しんだいつもの森。その中に混ざり物を感じる事は出来なかった。


「どっちにせよ、今はさっさと……。いや、違う……なんだ?」


 不安に捉われず町へと辿り着く事が最優先と頭を切り替えようとするが、どこか違和感を感じ今度は足を止めて聞き耳を立てる。

 今は速度を緩めず一刻も早く先を急ぐべきと頭では理解しているが、理性以外の何かが警鐘を鳴らし、周囲への警戒を強めさせた。


 夜の森は依然森閑としており、木々から差し込む月光は無機質さを醸し出す。まるで真空になったかの様に、周りは無音で満ちている。

 だが、この時節の夜であるならば動物達の息遣いや気配はそこら中に満ち、目を閉じれば夜の方が賑やかなのを、フィオンは経験から知っている。


 今の森にはまるで生気が感じられず、鳥や獣どころか羽虫に至るまでどこかへ消え去ったかの様。身を潜める茂みには蜘蛛の巣が掛かっているものの、そこに巣の主はおらず、既に息絶えた小さな蛾が命無く静止している。

 この地で培ってきた狩人の生活の中で、こんな森は一度も経験した事はない。

 混ざりものが無い所か、一切の息吹を、今の森からは感じられない。


 言い知れぬ圧力に満ちた夜の森。フィオンは思わず息を呑みながらその違和感をはっきりと理解した。そして同時に、得体の知れないものが向かってくる強烈な気配を感じ取る。


 草花をやたらめったらに薙ぎ倒す音、大地を強く疾駆する震動。余計な吠えや威嚇は一つも上げずに、しかし存在感を強めながら自身へと高速で迫ってくる何か。


「獣、じゃねえな……ったく、なんだってんだ。……今日は厄日か何かか?」


 この近辺で人間を襲う様なものは熊と猪、あとは野犬や狼の類である。

 と言っても熊や猪は町に近い場所では滅多に見掛けず、狼や野犬は定期的に町の猟師達と狩りをしている。今身に付けている狼の革鎧もそれによって得たものだ。


 そして狼も野犬も単独で襲ってくることはなく、今向かってきている何かは単独の様に感じられる。

 自身へと正確に迫る荒々しい気配。逃げる事は不可能と断じたフィオンは、迫る何かへと弓矢を引いて身構えた。


 茂みから飛び出し一切速度は緩めぬままに、それは正面からフィオンへと迫る。

 荒々しい黒い毛並みは繊維というよりは金属を思わせ、事実触れる草花は残らず切り捨てられていく。強靭な四肢は森の柔らかな大地を駆けるごとに抉り、剥き出しの鋭い爪がナイフの様に生え揃っている。息一つ乱さぬままに閉じられた口は獲物を見定めてゆっくりと開かれ、爪よりも尚禍々しい殺意の塊、犬歯が覗き出た。

 闇夜の中突如として出現した魔獣ヘルハウンドが、フィオンへと襲い掛かる。


「なん!? なん、だこいつ……っち!」


 魔獣や魔物はドミニア王国軍によって、ブリタニア本土から打ち払われて久しい。稀に海や空から渡ってくるものもいるが、ほぼ全てが軍の警戒網に引っ掛かり速やかに処理されている。

 ブリタニアに住む者にとって魔物は既に遠く忘れられたものとなっており、それはフィオンも例外ではなかった。知識としては知っているが魔獣の類を見るのはこれが初めてである。


 それでも狩人としての経験は何とか驚愕を抑えさせ、感情よりも体の操作を優先させた。

 矢を放つと共に身を翻させ、寸での所で凶犬の奇襲を躱す。

 矢はヘルハウンドの前足に弾かれたがその爪の勢いを僅かに殺し、大きく真横へ飛び退いたフィオンの、手の甲を掠めるにとどまった。


「ア゛っづ!? くっそ、舐め……!?」


 掠めた爪跡は赤く滲んでいるが、表皮を僅かに裂くだけで済んでくれた。

 一瞬走った痛みに歯を食い縛りフィオンは剣を抜こうとするが、ヘルハウンドは夜の森へと走り去り姿を消す。

 姿を隠したヘルハウンドは大きく弧を描きながら森の中を疾走し、自身の周りを旋回しながら機を窺っている。


 夜の森の中にあって、黒い体毛で覆われたヘルハウンドは天然のカモフラージュに身を包んでいる。茂みから速度を殺さぬままの突進は夜闇に紛れ、速さ以上の見難さを纏う。

 木々の合間を縫う淡い月光、長年の生活で夜の森に慣れた目、凶犬が発する様々な音と気配。

 フィオンは五感を総動員して何とかそれらを捉え、魔獣との戦いに応じている。


「姿を隠しながら突進……獣とは違う、頭を使うってか? マジで魔物ってのは知恵があんのか、面倒くせえ」


 愚痴を零しつつフィオンは再び矢筒へと手を伸ばす。フィオンの持ちうる武器ではこれが最もリーチも威力も備えているが、それでもヘルハウンドは苦も無く弾いて見せた。

 ただ射るだけでは通じない相手に、今度はこちらも知恵を巡らせる。


 フィオンは手頃な太い樹へと駆け寄り、半身だけを乗り出してそこから弓矢を構えた。

 先程の攻防ではフィオンは魔獣を視認するだに矢を放ち、苦も無く弾かれて無力化された。ならば今度は樹を盾に、ぎりぎりまで引き付けて間近から放つ策。


 樹を盾にして再び矢を構え、それはすぐさまやって来た。

 黒い刺々しい毛並みの凶犬が、再び茂みを突き破って狩人へと迫る。


「来やがれ、間近から……脳天ぶち抜いてやる……!」


 フィオンは半身を樹の裏に隠し、構えた矢は狙いを定めたまま動かない。

 茂みから飛び出したヘルハウンドは一瞬で状況を把握し、苛立つ様に顎の力を強めた。だがそのまま勢いを緩めずに、樹の裏に隠れる獲物へと突き進む。

 半身だけを出した臆病者の首筋、そこを目掛け木の横をぎりぎり掠める軌道で、放たれた矢の様に飛び掛かる。


「知恵が有るって言ってもこの程度か、飛んじまったらもう終わりだ。もらっ……あ゛!?」


 飛び掛かり一直線に自らへ迫る魔獣。

 フィオンはその眉間に正確に狙いを定めていた。後は力む事無く矢を放つだけの手慣れた所作。

 しかし、そこで奇妙な事が起こる。

 空中に飛び出した凶犬の体がぐにゃりと軌道を変える。魔獣の体は空中に有るにも関わらず、眉間を狙っている矢の狙いから、避ける様にスライドした。


 想定外にフィオンは一瞬たじろぐが、瞬時に余計な雑念を頭から追い出す。何をどうしたかは解らないが、狙いから逃げ延びた脅威へと再び矢を定める。

 矢が放たれたのと禍々しい爪が振るわれたのは、殆ど同時だった。

 矢はヘルハウンドの右目を射抜き、ナイフの様に生え揃った四本の爪は、フィオンの右のこめかみを浅く裂いた。


「っぐ!? っぉ……なろぉ、一体何を……っちぃ」


 負傷には構わずフィオンはヘルハウンドに向き直るが、魔犬は再び夜の森へと姿を隠した。

 フィオンはこめかみに手持ちの薬草を押し付けつつ、頼りにしていた樹の盾を憎々しげに睨む。そこにはしっかりと自身を切り裂いたのとは別の痕跡、ヘルハウンドが空中で蹴り出した爪跡が残っていた。

 空中での不可解な回避の正体を見やり、夜の森に潜んだ魔獣をフィオンは睨む。


「魔物っつっても目は二つ、残りは一つ……もう一度同じ手を? ……いやダメだ、今のは運が良かった。もう少し深くやられてたら……」


 傷口から垂れる血を手で拭い、先程の攻防は幸運に助けられ生き延びただけだと歯噛みする。あともう少しでも深く抉られていれば、戦いを阻害する重傷に達するか、最悪そのままやられていたかもしれない。

 改めてフィオンはこの場を生き残る事こそが最優先であると確認する。

 逃げる事は不可能、相打ちは無意味。ならば捨て身であろうとも勝ち残るしかないと悟り、次の攻防へと腹を括る。


「……跳びながら射った事は、ねえからな。……次があるなら練習でもしとくか」


 観念した様に弓と矢筒を放り出すフィオン。自身の最強の得物を手放しつつ決して諦めた訳ではない狩人は、先程は盾にしていた樹を背にして剣を抜く。

 魔犬が襲ってくるであろう方向に対し正面にではなく、体を真横に向けて待ち構える。


 相手に対し曝す面積を減らしつつ、半身により突き出された肩口は存分にリーチを活かせる構え。貴族階級の競技である『フェンシング』のものに似た姿勢。士官学校に入るべく、諸々を身に修めていた時の一つである。

 だが、今はそちらの方は


 それをまるで見ていたかの様に、闇に身を潜めた魔犬が再びフィオンへと突進を開始する。

 潰された目からは鮮血を噴き出させ、残された片眸は憎悪を孕んで待ち構える人間を捉える。

 茂みから飛び出た真っ黒の刃の塊は、その牙と爪の本分を果たすべく真っ直ぐに狩人へと肉迫する。今度は獲物の盾となる物は何も無く、その背後の樹ごと薙ぎ倒す勢いで襲い掛かる。


「これなら妙な小細工はできねえだろ。……そっちだけはなあ!!」


 半身で構えていたフィオンはタイミングを合わせ、飛び退く。

 強靭な太い幹を足場にして上へと駆け上がり、飛び掛かる魔獣に対して完全に頭上を取る。

 ヘルハウンドは急に逃れた獲物に対し必死に上を向いて吠えを飛ばすが、意趣返しに対しそれ以上の事は出来なかった。


 フィオンはヘルハウンドの頭上から、手にした片刃の剣を両手で振り下ろす。

 落下の勢いを利用した全身全霊の一撃は魔犬の背に食い込み、そのまま地面に叩き落とした。


「っふぅー……何とか、なったか。さっさと町、にぃ!?」


 決着は着いたとばかりに立ち上がったフィオンはこの場を去ろうとするが、ヘルハウンドもまたよろよろと立ち上がる。

 確かな手応えを伝えた剣には一滴も血は付いておらず、ヘルハウンドの背も切り裂かれてはいない。強靭な毛並みは鎖帷子の様に魔犬の背を守り、ダメージはあるものの仕留めるまでには至っていなかった。


 苦しげに呼吸する魔犬に対しフィオンは剣を振るうが、焦りに駆られた剣は有効打にはならない。硬質化した毛並みと屈強な筋肉に阻まれ、刃はその威力を十全には発揮できなかった。


「くっそ……しつけーって、の!!」


 依然自身へと憎悪を燃やす強い瞳へと、フィオンは突きを繰り出す。

 しかしそれを待っていたかの様に、魔獣は俊敏に動きだす。

 ぜえぜえと繰り返していただけの口はガチリと閉じられ、棒の様になっていた四肢に力がこもる。


 軽快で力強い足捌きでフィオンの突きを難なく避け、そのままヘルハウンドはフィオンの腹に突っ込んだ。

 魔獣に反撃する力は残っていないと考えていたフィオンは、踏ん張る事もできずに地面に押し倒される。間髪入れずに腕は押さえつけられ、片目になった魔獣がゆっくりと、フィオンの顔を覗き込んできた。


「まだ、こんな力が……っぐっぬ……くっそ、がぁぁっぁ……」


 力比べは互角のものだが、上を取り有利な体勢の魔獣にフィオンの腕は地に押さえつけられる。下半身も力の使い方は魔獣の方が上手く、幾らかジタバタとするのが精一杯である。

 獲物を完全に捕まえたヘルハウンドは大口を開け、血溜まりとなった眼窩からぼたぼたと血を滴らせながら、フィオンの首筋へと牙を剥く。

 眼球の潰れた右目は黒ずんだ血と共に、眼下の獲物へと殺意をまじまじと放つ。


 魔獣の血を顔に受け、四肢に食い込む爪の痛みに歯を食い縛りながら、しかしフィオンは諦める事無く、怒声と共に全力で抵抗する。


「俺が、こんな……犬相手に、やられて……堪るかああ!!」


 怒声は闇夜に虚しく響き、抵抗は益々爪を深く食い込ませるのみ。

 魔獣の牙はフィオンの喉首に当てられ、もがく人肉が裂かれる。

 直前――それは飛来した。


 一塊の炎が、闇夜を切り裂き直線を描く。

 火矢でも松明でもなく、それはただ炎だけが独立した存在。尋常のものではなく、しかし超常の存在でもなく、確固たる理論に基づいた熱と光の塊。

 魔道の火炎はその勢いを弱める事なく虚空を走り、魔犬の頭部を捉え容赦無く業火で包み込む。


 拳大の炎がヘルハウンドの顔面に直撃し、瞬く間に頭部は炎に包まれた。

 魔獣は苦しげな呻き声を上げ頭を振るが、依然フィオンを解放する事はない。

 何が起こったか解らないフィオンはこれに乗じて脱出を図るが、自身を押さえる魔獣の力は寧ろ強まり、忌々しげに歯噛みする。


 炎に焼かれながら魔獣は己の死を悟り、その覚悟を以って、文字通りの死力をここで出し尽くす。

 獲物を踏みつける四肢の筋肉は更に肥大化し、顎には自壊を顧みない全力と、あと一度だけの一撃に全存在を賭ける。

 全ては目の前の憎き猿を――地獄に引きずり込む為に。


「いい加減諦めやがれ! しつこ過ぎんだろぉ……っだーくっそ! こうなったら……」


 次に噛みに来たら頭突きか逆に噛み返すかとフィオンは腹を括る。

 互いに動かせるのが首から上のみならば、こちらもそれで反撃するしかない。

 とっくに首から上は魔獣の血に塗れ、今更臭いだ涎だのへの嫌悪は微塵も無い。


 頭を炎に包んだまま、ヘルハウンドは大口を開けてフィオンに迫る。最早狙いは首に定めておらず、その牙を突き立てれるならばどこでも良いという乱雑な一撃。

 それに臆する事無くフィオンも首に力を込める。魔獣の牙が並ぶ口内へ、頭突きを見舞うべく頭を振るった。


「バッカ野郎頭下げろ! 死にてえのかあ!?」


 両者が交差する刹那――フィオンの目の前を鋭利な金属が通過する。

 フィオンとヘルハウンドの間に差し込まれたブロードソードは鋭い軌跡を描き、魔犬の首を下から切り上げた。刃はしっかりと肉を捉え、その首を闇夜へと切り飛ばす。

 魔犬の牙は肉を食む事無く、その死力は響かぬ断末魔と共に虚無へと消えた。

 ヘルハウンドの首から溢れる赤黒い血を受けながら、フィオンは罵声を飛ばしてきた剣の持ち主へ、呆然と目を向ける。


「っ~~……っはあぁーー……。あっぶねぇ、救護で人殺しちまったら……いや、過失なら問題ねえか? まあ故意じゃねえなら……まあ良いか、生きてるしな」


 ぶっきら棒な物言いの壮年の男。体格はフィオンよりがっしりとしており、短く揃えられた茶色い短髪、僅かに生えた不精髭と骨ばった顔立ち。

 装飾の類は一切無い風雨で色褪せたマント、無駄のない鎖帷子や手甲に身を包み、魔獣の血のついた幅広の剣を、軽く振って血を払う。

 魔獣の血でどろどろのフィオンへと面倒臭そうな視線を落とし、剣を鞘に収めてから手を差し出してくる。


「怪我ねえか兄ちゃん? あるならウチのもんが後で治療を……ねえならちょいと証言が欲しいから一緒に来てくれねえか?」

「怪我は、まあ良いけど……助けには礼を言うが、あんた何もんだ? 町で見かけた事は、多分ねえんだが……」


 目の前の人物はどう見ても、レクサムの町の住人ではない。

 町との間に深い交流は無いフィオンだが、それでも住人の毛色や空気は判る。

 この男が纏っている空気は、平穏でのどかな森の町、レクサムの空気とはまるで異質のものだった。

 羊と狼を間違えるほど呆けてはいない。血と鉄の臭いを纏い命のやり取りを日常にした、非日常の中に身を置く者のニオイ。


「何もん? ……ぁー、確かに何も言ってねえが……必要かあこれ? 減るもんでもねえけど、面倒くせえな」


 問われた男は頭をぼりぼりと掻き、煩わしそうな態度を露骨にする。

 育ちの良さや気品は微塵も感じさせない所作だが、悪意や意地の悪さは垣間見えず、そう悪い印象を与えるものでは無い。その仕草は本当に只単純に『面倒臭いから嫌だ』という裏表の無い意思しか醸し出さなかった。

 一つ溜め息を吐いてから助けたフィオンへと向き直り、男は改めて自身の名を告げる。


「俺の名はアンディール。西のヒベルニア、ダブリンの冒険者だ。……ここには休暇を兼ねて野暮用で来たんだがまさか魔獣と出くわすとは、思っても無かった」


 名乗り終わってからアンディールはひょいっと、ヘルハウンドの死体を担ぎ上げる。斬り飛ばした頭もまとめて、背にしていた大きな麻袋の中に放り込んだ。

 年季の入ったマントの隙間からは、腰帯や脇に付けた大小の小袋、短刀やロープ等が覗き、それら一つ一つが彼の生業を物語っている。


 僅かに月光が差す夜の森で出会った風来の冒険者。

 その姿を映すフィオンの瞳には、何か沸々としたものが滾っていた。

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