第1話 六年ぶりの贈り物
ブリタニア中央西部レクサム。その更に西に広がるスノードニアの森。
まだ冬を明けたばかりの時節だが残雪は名残もなく、涼しい春の風が流れる山野には緑葉と命が溢れている。冬を越した獣達がひょこひょこと顔を出し、少しずつ温かくなってきた森で生を謳歌していた。
ささやかな自由に溢れた森の中にぽつりと、身を潜め動かない影が一つ。
薄暗い森の中で、更に暗い茂みの中に身を隠した狩人。
灰褐色の狼の革鎧に身を包み、僅かに湾曲した片手剣は毛皮の鞘に収まり腰から提げられている。
手にはイチイの木と獣の腱や骨からなる弓を握っているが目に力は無く、矢は弦に掛けられたままダラリと下を向く。
片膝を付いたまま全身から力が抜けた若者。傍目には気絶か、目を開けたまま眠っている様にも見える。
狩猟道具に身を包んだ若き狩人、フィオンである。
「ッ……ここは……腹……? って、有る訳ねえか」
ようやく白昼夢から意識を戻し目に生気が戻り、体から何かを追い出す様に全身から汗が噴き出る。振り払う様に頭を振り、そっと左の脇腹を探った。
夢の中で刺された影響は皆無であり、脇腹には痛みも傷も短剣もない。
ホっと一息ついた所で、フィオンは意識を失う直前の事を思い出す。久しぶりの大物を相手に、絶好のチャンスを得ていた事を。
周囲を見回すと、多少移動してしまっているが三十メートル程の距離に、立派な角の牡鹿を再び捉えた。
「あっぶねえ、寝ぼけて取り逃がすなんざ冗談じゃねえっての。……よし」
確実に急所を狙える距離、あと十メートル程は距離を詰めたいと動こうとした矢先。長時間動かなかった体に不調が走る。
足に上手く力が入らず、低い姿勢のまま動こうとして体勢を崩す。
「っなあ!? っと、っとお……。ぁ、やべ」
盛大にこけずには済んだものの、派手な音と共に茂みから立ち上がる。
それに気付かない程鹿は鈍感でもなく、立ち上がったフィオンとしっかりと目が合う。無垢な瞳には突如現れた存在への警戒の色が、まじまじと滲み出ていた。
両者は距離を隔てたまま、敵意はないまでも睨み合い動かない。
獲物を仕留める前に目が合うことはこれが初めてではない。
一度目はレクサムに来て一年目の夏。まだ狩りに慣れ切る前に獲物と目が合い、そのまま何もできずに獲物を見送るしか出来なかった。
二度目は狩人になってから三年目の秋。矢を構える前に雌鹿と目が合い、焦った結果は手負いにさせるだけとなり、後味の悪さを味わった。
そして今は三度目、六年目の春。一年目の恐れは無く、三年目の焦りも無い。
フィオンの頭は冷静なままに現状を理解する。
まともに矢を射れるコンディションではなく、完全に獲物に気付かれてしまっている状況。
一息吐いてから、右手に持った矢を矢筒に収める。手負いにさせて逃げられる経験をもう一度味わいたくも無い。
幸いにも今日の狩りは朝方に兎を三羽仕留めている。一日分としては既に充分であり、ここで無理を押す気にはなれなかった。
「せいぜい次会うまでに太っとけ。角折るんじゃねえぞ」
負け惜しみを吐いて牡鹿を後にする。
見れば陽は傾きかけており、思っていたよりも長く気を失っていた事に気付く。
既に兎の解体は済んでいるが、皮を町に卸してから晩飯の仕度をせねばならない。時間を考えれば今から家に帰るのは少々遅れている程だ。
スノードニアの森を東へ、町の外れにある自宅へと向かう。住まいはレクサムの町と森を一つ隔ててぽつんと建っており、町へ行くには家からもう一つ森を通り抜けねばならない。
往復でそれなりの時間を要するが喧騒から外れた暮らしこそ、フィオンがここに来た理由だった。
レクサムの町はドミニア王国の中央西部、ウェールズ候の所領。
大都市リバプールのすぐ南に位置し、緑の豊かさを活かした特産品や保養地を売りにしている。
老練で柔軟なウェールズ候の元、無理な開発は進められずに緑の豊かさをそのままに、町の特色としていた。
ドミニア王国は大陸から海を隔てたブリタニア島と、その西のヒベルニアを国土とする独立国であり、百年ほどの歴史を保持している。
百年というのは周辺国と比較して誇示出来るほど長いものではないが、国の成り立ち故に、ドミニアは外交的な優位を保ってきた。
初代王コンスタンティヌスは伝説に謳われる円卓の騎士の一員であり、盟主アーサー王から直々に王位を譲られドミニア王国を建国したとされる。
言い伝えや物語のみではなく、ブリタニア各地を治める円卓の騎士の後裔達がそれを証言し、国政に参加している現状がそれを証明している。
ドミニア王国のみならず諸外国の市井においてもアーサー王物語は親しまれており、大陸から分離した防衛に適した環境等も相まって、ドミニア王国は比較的優位な立場を保ってきた。
だがその優位性は最近では雲行きが怪しくなっており、町の噂と言う不確かな形ではあるが徐々に人々の口にも上がる様になってきた。
町との付き合いが薄いフィオンでも、噂程度は把握している。
狩場の森を足早に抜け、レクサム郊外の自宅へと帰り着いたフィオン。
持ち主不在で寂れていた狩猟小屋を買い取り改築し、六年の歳月を共にしてきたこじんまりとした木造家屋。最低限の家具と狩猟道具、気紛れに町で買った雑貨類が僅かに棚を埋めているだけの、面白みには欠けた空間。
だが唯一の住人は今の生活にそれなりに満足している。
狩猟とそれに関わる様々な事だけで日は埋まり、勉学や修練のみに費やしてきた彼にとっては、そのどれもが新鮮であった。
手早く装備を外し護身用のナイフだけを携行。町に卸す兎の皮をバッグに詰め、忙しなく再び家を後にする。
少し前までは食いきれない分の肉も町に卸していたが、良い"保存方法"が一般に普及してからは、殆どの部位は自身で消化している。
「まあ三枚ならなめしてなくても……なめしも
軽く愚痴を零しながら、町へと森を駆けていく。
狩りで得られるものだけで生活していく事は土台無理な話。まとまった金になる毛皮等は町に卸し、パンや香辛料の他、生活に必要な物を賄う事でフィオンの生活は成り立っている。
数十分掛け夕日に彩られた森を抜け、町に着いたフィオン。
土を踏み固めただけの道を挟むように木造の家屋や倉庫、商店が並ぶ、森と共に共存しているレクサムの町。勤め帰りや野良仕事を終えた町人がちらほらと見え、都会程の活気は無いが、のどかさと安寧に満ちている。
町外れに一人で住んでいるフィオンはよそ者という程ではないが、そう付き合いの深い住人はいない。
真っ直ぐにいつもの雑貨屋に行き、手慣れたやり取りで皮と交換にパンと香辛料と銅貨を得る。
「……お前さん、もうここに来て何年になる? 五年くらいか?」
日用品から埃を被った医学書までが軒を連ねる、夕日の差し込む雑貨屋。
主人ハンザは古びた木製のカウンター越しに声を掛けてくる。
普段なら数人程度の客が店内をうろついているものだが、今日は窓越しの冷やかしがいるのみで、店内にはハンザとフィオンしかいない。
ハンザはいつもは取引を終えたら「また頼むぞ」と、一言返すのが常。素っ気無くとも無碍にはせず、持ちつ持たれつの関係。
しかし今日はいつもと様子が違う。
皺の深い顔に、僅かに茶色を残す白髪の短髪と豊かな髭。長くボサボサの眉の下からは不安気な目がフィオンを見据えている。
バッグにパンと香辛料を仕舞いこみ、フィオンは怪訝に思いながらも答える。
「今年で六年だよ、じいさんにはずっと世話になってるな。突然どうした? 皮の値下げでもしたいってのか?」
「そうじゃあない、そうじゃあないんだ……。今朝方、向かいの若い奴が兵やら軍がどうのこうのって騒いどった、手柄を立てるだの功がどうたらだの……お前さんも、戦争に行くのか?」
先年の中頃から少しずつ、戦争に関する噂話はレクサムでも広まっている。
南の海峡を挟んで対峙する大国。カリング帝国が海を越えてドミニアに攻め込んでくるという噂。
二ヶ月程前までは笑い飛ばされる酒の肴の一つだったが、近頃は双方の軍の動きが活性化し、酒の肴としては健在だが笑い話では無くなっている。
ハンザはすっかり噂を信じきっている様子だが、何を心配してカウンターの上で手を震わせているのかフィオンには今一解らない。仮に開戦したとしてもよっぽどの苦戦が無い限り、レクサムは戦火が及ぶ位置ではない。
ボロボロの爪と骨ばった両手は祈るように組まれ微かに震え、何かを訴えかける様に目の前の青年に注視している。
少し面倒臭いが、フィオンは老人の話に付き合う。
ハンザはフィオンが一人暮らしを始めるにあたって、彼の母親から色々と頼まれていた。六年という歳月を思えばそう多くは無い数だが、世話になった事は何度か有る。
その老人がこの六年の中で、一度も見た事の無い様子で目の前にいる。
「結構前にも言ったが……いや言ってねえか? 俺は士官学校に落ちてこの町にやってきた。今更軍や兵なんて言われてもピンとこねえ。こんな国の為に命を賭ける気はねえよ、バカバカしい……ここの暮らしは、それなりに気に入ってるしな」
曽祖父が死んだ後、フィオンは軍人になるべく祖父から厳しく鍛えられた。
最初は半ば強制的なものだったがその内容は合理性を持ち、いつしか自分から軍人を望む様になった。
素質があったのか教育内容が良かったのか、フィオンは目覚しい成長を遂げ、祖父のみならず周りからも将来を嘱望されるまでに至った。
そんな彼の士官学校の試験を、危ぶむものは誰もいなかった。
だがフィオンは試験に落ちた。
実技においても筆記においても完璧だったが、彼は落第者の印を押された。
理解の出来ない結果による、生まれて初めて味わう理不尽と挫折。結果に関してまともな説明も得られず、自身の物差しが通じない顛末に彼の心は喪失した。
将来を期待していた殆どの者は途端に掌を返し、何も納得できぬままに、存在価値や拠り所を全て失ってしまった。
実家では居場所がなくなり、将来は閉ざされ、リークからレクサムへと一人逃げる様に移り住んだ。
新たな環境と森での暮らしは彼の心を確かに癒したが、それでも元通りになるまでには二年ほどの歳月を要した。
その後は軍人になるべくして得た知識と経験を活かし、趣味と実益を兼ねた狩人の日々を過ごしている。
回復した今のフィオンからしてみれば今更軍人になる気は毛頭無く、戦争への従事など考えてもいない。
戦争に行く気はない。きっぱりとそう言われたハンザの震えは治まり、いつもの台詞と共に調子を取り戻した。
「……そうかい、だったら良いんじゃよ。……また頼むぞ」
結局、質問の意図が解らなかったフィオンは首を傾げつつ店を後にした。用事を済ませ再び森の中を自宅へと急ぐ。
「戦争ねえ、まあ仮にここまできたら……北にでも逃げるか?」
レクサムの町はドミニア王国、ブリタニア島のほぼ中央に位置する。
南から攻めてくるカリング帝国がもしここまで来るのであれば、南東部の王都コルチェスターは陥落している可能性が高い。つまりはここまで戦火が及ぶのは、戦争の趨勢はほぼ決まった後である。
士官学校の試験で理不尽を受けたフィオンに、愛国心などはさらさら無い。
王都の危機ともなればそれは国家存亡の危機だが、頭の中でイメージしてもどこぞへ逃げる事を即決する。
そして国家の危機よりも、今の焦点は晩飯のメニュー。
すっかり食べ飽きた兎肉をどう調理するかと考えながら森を駆ける。
陽が落ちかけ森が夜闇に包まれかけた所で家に着き、鍵穴を回そうとした所でドアに挟まっている、見慣れない物に気付く。
「……? こいつは、手紙? 一体誰が……」
ここにフィオンが住んでいる事を知っているのは、知人では極僅かしかいない。リークから移る際に協力してくれた母親と、一人の親友のみだ。それ以外で彼の現在を知るのは、ほぼ付き合いのないレクサムの町民と役人達。
この六年の間に誰かに手紙を送った事も送られた事もなく、ドアに挟んである白い四角い物体を一目では手紙だと理解できなかった。
一旦鍵を仕舞って手紙を引き抜き、送り主を確かめる。
「竜の封蝋……? これは……そうか、お互い甲斐性がねえなあ」
手紙に張られた赤い封蝋には王冠を被った竜の印。
ドミニア王国の国章であり軍でも同じ物が使われている。公文書や役所からの通達、そして軍事関係者の親書にも押されている事が多い。
手紙の裏右下隅には六年間互いに音信不通だった親友、クライグの名前が記されていた。
久方ぶりの親友との交わりを感慨深く噛み締めつつ、互いに六年もやり取りをしなかった事にやれやれと呆れるフィオン。
この手紙が彼の運命を大きく変えるものだとは、まだ知る由もない。
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