ボルドルーンサガ ブリタニア偽史伝
ギサラ
序章 己が為、友の為
プロローグ 深遠の夢
深淵の夢を見ている。朧気な地平線とぼんやりとした黒の天蓋。星々も月も太陽も、暗さも寒さも乾きも無い。虚無の心を鏡に映したとしても、もう少しは賑やかな世界が浮かび上がるであろう。
まっさらの世界にぽつんと一人。穏やかな寝息を立てる存在。
束ねられた黒い髪、野山や森に染まった肌と顔立ち。ゆっくりと開けられる瞼からは強く青い瞳が覗き出す。
異常の世界にあっては場違いな、青年の意識がゆっくりと覚醒する。
「こいつは……? 俺は、さっきまで森で……鹿……」
青年に瞼の重さや倦怠感等、寝起き特有の症状は無い。有るのは奇妙な世界への戸惑いと、それによる自己の確認。直前の記憶への回想。
起き上がった青年、フィオンは先程まで森で狩りをしていた事を思い出す。いつもの森に今日二度目の狩りに出掛け、立派な角の牡鹿を間合いに捉えた。矢を弦に掛け狙いを定めたが、そこで記憶は唐突に途切れていた。
意識は思い出せない意識から、周囲への確認へと向けられる。
一粒の光も一筋の闇も無く、眩しさも暗さも視界の邪魔をしない。視神経は正しく機能し、とても正常とは言えない世界を脳に伝える。自然物も人工物も無く、ただ真っ黒の平坦な世界を。
「……ったく、大物前に眠りこけたってのか? んなバカな……!?」
ここは夢かと感じかけた所で、周りに様々な動物達が出現する。
獅子、馬、鷹といった獣が、何もない黒い空間からぬるりと躍り出る。闇から生まれた生物達は全てが黒ずくめ。墨や灰で作られた彫像の様なそれらは、しかし確かに呼吸や唸りを発し、生命として躍動する。
獣達はフィオンを中心に円を組み、静かに青年へと視線を注ぐ。その目はどれも獣とは思えない、理性の様なものを宿していた。
囲まれたフィオンは腰の得物に手を伸ばすが、彼が愛用している弓矢も剣もそこには無い。衣服だけは狩りの時のままだが、武装や革鎧等は綺礼さっぱり消えていた。
「んだよ次々と、狩りの恨みか? いや……違うか……?」
フィオンは獣達が敵意は持っていない事に気付く。中にはユニコーンやグリフィン等、見たことさえも無い超常の存在も混じっており、これでは狩りの恨みなどある訳も無い。
一先ず襲われる心配は無さそうだと、深く息を吐き落ち着こうとした所で、左の頬にぞわりとした感触が走る。
生温かいゾリゾリとしたものに奇襲を受け、頬を拭いながらビクリと飛び退く。
「ッ!? ……なんだってんだ、味見でもしてるつもりか?」
飛び退き振り返った先には、金の毛並みの熊がのっそりと佇んでいた。舌をダラリと垂らし、不快な感触が何だったのか解り易く教えてくれる。
この一匹だけが獣達の中で黒には染まっていないが、やはり金の熊などという存在は青年の生きる世界、ブリタニアには存在しない。
現実味の無い世界と頬に残った生々しい感触のギャップは、フィオンの心を更に刺激し、これは真っ当な夢ではないと感じさせた。
金の熊は一度フィオンと目を合わせた後、踵を返して離れて行く。そのまま黒い世界の中に、溶ける様に姿を消した。最後に彼に向けていた瞳には他の獣達同様の理性と、深い親愛の情に似た何かが含まれていたが、それが何なのかはっきりとは解らないままだった。
それを皮切りに彼を囲む獣達も次々と、黒い世界へ溶ける様に消えていく。まるで何か、見世物でも見終えた後の様に。
何が起こっているかまるで解らないフィオンだが、漸く自身の足元に気付く。
光源の一切無い世界でありながらつま先からは当然の様に、薄っすらと影が伸び、正面に広がっているその中には、懐かしい人物が佇んでいた。
「メドローの大ジイ? なんで……いや、大ジイは……十才の時に……」
フィオンの影の中には曽祖父メドローがいた。まるで鏡に映っているかの様に鮮明に、平面な影の中で安楽椅子に体を預けている。
その姿は彼の記憶にある通り。深い皺が満遍なく刻まれた顔、フィオンと確かな血の繋がりを示す、深い青の瞳。フィオンは十才の頃、十四年前に曽祖父の葬儀が実家のリークで行われた事を確かに覚えている。よく懐いていた事もあり、今までの人生で一番の大泣きをした事を、何とも言えない気持ちで思い出す。
思わず影の中のメドローに寄り添いかけるが、今はそんな状況ではないと、伸びかけた腕をピタリと止めた。
故人である曽祖父が影の中にいるという有り得ない状況は、彼の頭を冷静にさせ、意識をはっきりとさせる。やはりここは現実では無いと、どうにも奇妙な夢であると認識させた。
「ったく、一体何がどうなって……。狩りの最中だとすると、さっさと起きねえとだが……ッ、ダメか。どうしたもんだか……?」
頬をつねった所で起きる事は出来ず、何も無い空間で周りを見やるが、出口も光も見当たらず、視線は再び足元の曽祖父へ向く。
改めて見るとメドローは、皺くちゃの口をゆっくりと動かしていた。椅子に体を預けたまま口だけが動き、何かを伝えようとしているが、音等は一切伝わってこない。
「大ジイ、何を伝えたいんだ? ……聞こえねえよ、身振りか何か――を゛!? ッ……ぁっあ゛?」
メドローに注意を向けた途端、フィオンは脇腹に強い衝撃を覚える。熊に頬を舐められた感触など、羽虫に止まられた程に生易しく感じる程の。
突如として重たくなる瞼に反射的に力を込め、意識を閉ざそうとする闇に抗うべく顎に力を込め、奥歯を痛い程に噛み締める。熱と共に広がってくる夢の中では有り得ぬ感触、その中心点に腕と視線を向ける。
何かがじわじわと広がってくる中心点。左の脇腹を見やると、火傷しそうな程熱く感じる脇には――短剣が生えていた。
「ナ、ン……? なに、ッガ……ア゛ッブぁ……」
脇腹からは細身の短剣が鮮血と共に突き出し、背後から自身を貫いた凶器であるとまざまざと誇示していた。生きているという事を強引に突きつけて来ると共に、もうじき死ぬという事をはっきりと証明している。
夢を夢とは感じさせぬ鼻を突く血臭と、意識を刈り取りに来る失血の悪寒。生きる為に必要な存在がどぼどぼと抜けていく喪失感が全身を襲い、体の中に本来は無い異物が侵入している不快感は吐き気を掻き立てる。意識は混濁し、目の前は黒いカーテンで閉じられそうになり、脱力と共に膝がガクガクと震え動く。
気を強く保ち何とか倒れまいと抗うが、食道を這い上がってきた血液は鼻口から噴き出し、遂に黒い地面へと力無く落ちる。
「ッゴオ、ッハァ゛……なん、だってん……だ。……どこの、どいつっガ……」
後ろから何者かに刺されたのだと、嫌でも理解したフィオンは地に伏したままで何とか背後へ視線を向ける。
残された力を振り絞り身を捩じらせ、返り血に手を染めているモノを瞳に映すが、それが何かを変える事は無かった。
「なに、ッガ……どうなって……ッグ、そ……ッ」
背後に立っていた者は、頭からすっぽりと白い毛皮を被り顔を隠した存在。
毛皮以外の衣服も白を基調とした簡素なものだが、立ち姿は粗野な印象を与えず、白い衣と返り血は黒の世界にあって、鮮烈なコントラストとなっていた。背格好や肩のラインから線の細い成人男性ということは判別がついたが、それが解った所でフィオンの容態には関係ない。
出血は浅い血溜まりを作り、彼の意識をこの世界から追い出した。
この世ならざる幽世から落ちた意識は、再び現世へと
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