守人たちの村

大気杜弥

守人たちの村

 ある日の夕暮れのこと。その父子は丘地の麓に立っていた。やがて月が、東の平原から姿を現した。今宵は上弦の月。月はやさしく、白銀の光を放つ。

「あ、お月さんだ」幼いヨーランは言った。「月って、なんであんなに大きいのかなあ? ほかの星は小さいのに」

 その問いかけに父のロザクは答えた。

「月はな、この世界に最も近いんだ。だから大きく見える。……そうさなあ。ほとんどの人間は、死んだらあの月に行くんだ。そこからさらに死者の世界に行って魂の安息を得る」

「父さんも、いつかはそこに行っちゃうの?」

「ああ」ロザクは答えた。「父さんも母さんも、そしてお前も。みんな月の向こうに行くんだ」

「ぼくはこの村が好きなのに、ずっといられないの?」

 ロザクは首を縦に振った。じわりとヨーランの両目から涙がこぼれ、彼はしゃくりはじめた。ヨーランは優しい子だ。ロザクはその頭を撫でてやるのだった。

 ――この村ではそんな日もあった。


 * * *


 りん、ごーんと。鐘の音が朗々と鳴った。やがて二重、三重と鐘の音は重なりゆき、美しい和音を周囲に響かせていく。これは朝を告げる刻の合図。村に住む人々は鐘の音によって一日の営みを始めるのだ。

 農園へと向かう村人は、鐘が鳴っていた方角を見つめる。今日の村は濃い朝もやに包まれているものの、白く高い鐘楼しょうろうの塔とその赤い屋根は朝日を受け、映える。村で一番高くそびえる美しい塔。都会から離れ、商人も旅人も近づかない、このへんぴで閉鎖された村において、あの家の立派な建築様式はひどく浮いてすら見える。長い年月に渡り、鐘はこの地にあって時を告げてきた。そしてあの建物を、村人たちは“鐘の家”と呼び習わしていた。

 今からさかのぼること千年以上昔となろうか。平地から続く丘地には、今は亡きイクリーク王朝軍の駐屯地があり、この平地には町が形成され、それなりに栄えていたと伝えられている。その後――記録には残されていないが――大きな戦禍により駐屯地はすっかり焼かれてしまったという。王朝軍の兵士たちという客を失ってしまった町もやがて寂れていった。それからずいぶんと歴史は流れたが、町の象徴とされた鐘の家は今なお維持されているのだ。


 ロザクは朝一番の鐘を鳴らし終えた後、塔の最上階から内壁の狭い階段をこつこつと靴音を鳴らして降りていった。ロザクは“守人モリビト”。朝一番の時を告げ、それから一刻ごとに鐘を鳴らし、そして一日の終わりを知らせるのが仕事だ。

 鐘の家の一階は守人の住居となっている。守人はロザクのほかにもう一人いるが、彼は住まいを別に構えており、家に住んでいるのはロザクの家族だけだった。小さな石材を巧みに組み合わせたイクリーク様式の影響が色濃く現れている住まいは小さいながらも、鐘の家を建てた人間の持つ芸術性がそこかしこに見てとれる、素晴らしい出来栄えとなっている。

 だが住居の豪奢ごうしゃさとは裏腹に、彼ら守人たちの生活は質素なものだ。仕事の報酬は村長からもらっているが、その額は農園で働く村人たちと大差ない。しかしロザクは不平を露わにしたことなどない。なぜならば、時を告げる守人は村になくてはならない存在だから。ゆえに彼は自らの職務について誇りをもって臨んでいるのだ。


 塔の階段を降りきって、家へと繋がっている重い扉を開く。すると、まだ幼い彼の子供が住まいの奥から駆け寄って出迎えた。ひとり息子のヨーランだ。

「おはよう、父さん!」

 ロザクはにこりと笑って、寝ぐせのついた息子の頭をくしゃくしゃと撫でてやるのだった。

 ロザクは妻とヨーランとで小さな卓を囲み、朝食をとる。いつもの朝の風景だ。そしてヨーランが舌足らずな声で父に尋ねてきた。

「ねえ、なんで父さんは一日に何回も鐘を鳴らすの?」

 最近とみに好奇心旺盛になってきた息子に、父は答える。普段は思慮深く、寡黙なロザク。だが愛しい息子が相手となると話は別だ。穏やかな表情でヨーランに語りかける。

「“刻”を村人全員に教えるためさ」

「こく? こくってなんなの?」とヨーラン。

「人間はな、一日の時間をたくさんの刻に分けているんだよ。お前の爺さんの、さらにもっと大昔からそれは続いている。人々は刻が変わればすることが変わる。刻にあわせるようにして生活をしている。仕事を始めたり、昼飯を食べたりとな。その大事な刻を知らせるのが、うちの鐘なんだ」

「ふうん。……じゃあ父さんはどうやってその刻が分かるの?」

「自分で学んだんだよ。刻の測り方というのはな、誰かが教えてくれたからといってすぐ身につくものではないのだからね。まあ、最初は死んだ爺さんの測り方を真似していたものだが、やがて父さんなりのやり方を見つけたんだ」


 夕刻。鐘を鳴らし終えたロザクはヨーランを連れて鐘の家から出て丘地へと向かった。刻について教えるためだ。

 空は紺色。すでに太陽は西の山の向こうへと姿を消し、東の空の高みには煌々と白い輝きを放つイゼルナーヴが姿を見せていた。

 ――丘の向こうには、決して行ってはならない――

 厳格な掟が、代々伝わっている。ロザクたちは掟を守り、丘の中腹まで登った。ここからは村が一望できる。景色から色が失われていくこの夕暮れ時であっても、鐘の家の白い壁はぼうっと光って見える。

 やがて陽が落ち、空一面に星々が瞬くようになった。

「刻の測り方を教えよう、ヨーラン」ロザクは語りはじめた。「人々はな、朝早く――太陽が出てくるときから、今――日の入りまでの時間を一日の半分と考えてるんだよ。そしてその時間をきれいに八つに分ける(十六刻でまる一日だな)。その一つが“一刻”となる。でも季節が変わると太陽の動きも変わってくる。太陽が昇っている時間が長くなったり短くなったりする。人々の生活も季節によって変わっていく。だから父さんたち守人は、季節にあわせて刻の長さを変えなきゃならん。これが一番難しいところだよ」

「でも父さんはそれを毎日やっているんでしょう? すごいや!」

 ヨーランは父を見上げてにっこりと笑った。純粋な笑みの中には父に対する憧れがあった。

 月が姿を現した。


 * * *


 十年の歳月が流れた。この穏やかな村は、まるで時が止まったかのように以前となにも変わらないように見える。だがロザクの家庭は変わってしまった。

 ロザクは朝の鐘を鳴らし、鐘楼の塔の階段を下りて家へとつながる扉を開けた。息子の出迎えはない。そう、いつものように。ロザクはほうっとため息をつくと、朝げの支度をしている妻に声をかけた。

 もう半年ほど前になるだろうか。ヨーランは家を出て行った。幼い頃のヨーランは平和な村を愛し、また父親の仕事についても誇りを持っていた。だが時が経ち、ものを思う年頃となった彼は次第に反抗的な態度をあらわにするようになった。父の仕事ぶりをえないものと感じるようになり、さらには閉鎖的な村のあり方にも反発して、ついにたまりかねて家出してしまったのだ。

 もっともロザクにとっては、ヨーランの考えが理解できないでもなかった。守人としてこの地に拘束されるより外の世界と関わりたい。彼も若い時分には強く願っていたからだ。だが結局ロザクは冒険よりも、約束された平安を選んだ。

 家出をしたヨーランは今どこで何をしているのだろうか。本当は優しいあの子は。残されたロザク夫妻がそのことを思わない日などなかった。

「ヨーラン……」

 寂しい朝食をとりながら、ロザクの妻は息子が座っていた椅子を見つめ、沈痛な面持ちでひとりごちたのだった。いなくなるとあらためて分かる。彼ら夫婦は息子を深く愛していたのだ。一方のヨーランはどうなのだろうか――?


 盗賊の一味がやって来ている。

 ある日のこと。めったに聞かない凶報が、離れた村から入ってきた。その村では先祖伝来のタペストリーが何枚も盗まれた。彼らの人数や風貌など、いっさいは分からないまま。ただ、そのあざやかな手口から察するに、恐らくは手練れの集団――それなりに統率の取れた盗賊団であると想像できた。相手は辺境の粗野な荒くれどもではなく、都市部の盗賊団かもしれない。

 しかし、なぜわざわざこんなへんぴな地域を狙ってきたというのだろうか? 被害にあった村の住民たちは不思議に思っていた。

 だが、この村の者たちはなんとなく察しがついた。彼らが本当に狙っているのはこの村。村の墓地には亡きイクリーク王朝の、名のある将軍の墓碑がこっそりと建てられており、宝物が安置されている。彼らの狙いはおそらくそれであろう。

 もっとも盗賊の一味は、どこからこんな僻地の情報を入手したというのだろうか?

 村人たちは疑問に思いつつも、いずれ来るであろう盗賊から、自分たちとこの土地を守り、撃退するために自警団を結成し、警備に務めるのだった。ロザクもその一人として、槍と短剣を所持して村や丘を巡回することになった。

 村人たちが不安を抱いたまま、数日が経過した。だんだんと彼らは墓地のことより丘の向こうのことを心配しはじめるようになった。あの地には決して近づいてはならない、という厳格な掟。人智を越えた恐ろしい“なにか"があるのではないかとすら、村人たちは畏れているのだ。そんな土地を盗賊どもは荒らしたりしないだろうか? わざわいを呼び起こすことはないだろうか?


 盗賊がやって来るという気配は未だない。そんなある日、唐突にヨーランが帰ってきた。

 陽の没する頃、ロザクの家の扉が叩かれたので、ロザクは扉を開けた。そこには自警団二人に両側を固められたヨーランの姿があった。彼の表情はこわばっている。

 ロザク夫婦と、ヨーランを連れた自警団たちは対峙する。一瞬の沈黙。

「ヨーランはつい先ほど、村の入り口に駆けてきたんだ」自警団の一人が沈黙を破った。「青ざめた顔をしていてな。今夜、盗賊がやって来ると言うんだ。盗賊たちに宝のありかを問い詰められ、答えてしまったとヨーランは言っている」

 ロザク夫婦は目を丸くした。言葉も出ない。ロザクの妻が一歩出て、息子の両肩にそっと手をかけた。母は言葉こそかけないが、息子の帰還を喜ぶ気持ちに溢れていた。ヨーランはうなだれた。

「俺が悪かった」

 その口調は重い。自分を責めるかのように。ヨーランは肩をわなわなと震わせ、さらに深くこうべを垂れる。ぽつりと、涙が地面に落ちる。また一粒。

「……息子を連れてきてくれてありがとう」

 動揺する気持ちを隠しながら、ロザクは自警団に礼を言った。

「これから守りを固めなきゃならん。あんたには非番のところ悪いが、村の男が総出で賊をやっつけることになった。村長の命令だ。広場まで来てくれ」

「もうすぐ鐘を鳴らさなければならない時だ。鐘はどうするんだ?」

「今回は特例だ。鳴らさなくてもいいと、村長が言っていた」

「では……息子はどうなる?」

 ロザクは訊いた。ヨーランは罰を受けることになるのだろうか。

「ヨーランの処遇については、ことが済んでからになるだろう。今はなにより、盗賊にどう対処するかが問題だ」

 自警団の二人はきびすを返し歩き始めた。ロザクにも早く来るようにとせかす。

「行かなければならないな。武器を取ってくる」

 ロザクはこう言って自室に戻り、槍と短剣を身につけて再び玄関に向かった。家族二人に出発の挨拶をして、自警団二人と共に村の集会所に向かおうとした。その時。

「俺も行かせてくれ!」

 うつむき黙っていたヨーランが声を上げ、ロザクたちのほうに走ってきた。

「責任は俺にある。俺は……やつらの仲間だったんだから!」

 ヨーランの独白に全員が目を丸くした。

「……歩きながら聞こうか」と自警団の一人。

 ヨーランは母のほうを振り向いて手を振って別れを告げたあと、ロザクたちの横に並び、話しはじめた。表情は険しく、こわばっている。


「……この村から出た俺は、まっすぐにファウベル・ノーエの都まで行った。都会の生活って、最初は楽しくて仕方なかった。何もかもが新鮮だった。それで、都で暮らそうと思って職を探したけども、ど田舎の出で学もなく子供同然なこの俺に、仕事なんて簡単に見つかるわけもない。あるとしたら男娼だの、いかがわしいものばかり。しばらくは酒場や安宿の案内役をしてちっぽけな路銀を稼いでいた。そんな生活に嫌気が差してきた。『もう村に戻ろうか』と諦めていたんだ。

「そんな時、宝の発掘を行っている連中がいるという話を聞いた。俺は『面白そうだ』と思った。いかがわしいなんてちっとも思わなかった。危険と引き換えにお宝を見つけ出すなんて、そうそうある話じゃない。だから情報屋の力を借りて、すぐ連中に会いに行ったさ。連中の話はすごく魅力的だった。世界をまたに駆けて、遺跡や廃墟から古代の財宝を掘り当てるんだとな。ひょっとしたら俺も、あの冒険家テルタージみたいになれるかもしれない。俺はそこまで期待した。俺は見習いとして、連中についていくと決めた。だけど生まれを訊かれたときに、俺はこの村のことを――そして村に眠る財宝のことを話しちまった」

 ごめんなさい。そう言ってヨーランは再び深く詫びた。

「連中の仕事とやらを手伝っていくうち、奴らの本性が分かってきた。実際、そんな夢を持った人間たちじゃなかった。俗物だよ。金のにおいがするところに行って、価値のありそうなものだったら奪ってくる、そんな盗賊団だ。しかもやたらと手際が良く、過去捕まったことなどない、なんて自慢してた。かしらは魔法まで使えるしな……。

「でも俺は泥棒にはなりたくない。隙を見て逃げ出したけど、捕まった。俺は何度も殴られた。殺されるかと思った。さらに俺は尋問にかけられ――もう思い出したくもない――とうとう財宝のありかを吐かされた……。墓地のこともそうだけど、入っちゃいけない“あの場所”のことまで!

「俺は盗人どもの片棒を担いじまったんだ! 俺は罪の意識でいっぱいになった。なんとか逃げてこの村に帰ろう。そしてやつらがここをいつ襲うかという話を村のみんなに伝えよう。捕まって殺されるのを覚悟で、俺はまた逃げ出した。連中をまくことができたから、俺はこうしてここにいる」

 ヨーランの話は終わった。折りしも、彼らの上には白銀の満月が現れた。本来ならば鐘を鳴らす時間なのだろう。

「……よく、戻ってきた」月を見上げ、歩きながらロザクは深い声で言った。「これからまた、一緒に暮らそう」

「父さん……」

 ヨーランは父の顔を見た。その頼もしそうな顔を。浅はかな自分を父は赦そうというのだ。感極まる。いつしかヨーランはしゃくりあげていた。優しい心を持った少年。遠い昔にあった情景。

「泣くな」ロザクは照れを隠そうと、ぶっきらぼうに言った。

 そんな彼らを、月は見つめていた。


 ロザクたちは村の集会所にやって来た。百人を超す男たちが集まっている。

「ヨーランだ」

「帰ってきたんだ」

 村人たちはヨーランの姿を認めて声を上げた。家出をした彼に対して反感の目を向ける者たちもいたが、たいていの村人はヨーランをとがめず、帰還をねぎらうのだった。村長も彼ら親子の姿を認め、うなずいた。ロザクとヨーランは、ことの成り行きをつぶさに村長に報告する。

「なんと。丘の向こうのことが、外の人間に知れてしまったのか」

 丘地の話が出たとき、村長も顔色を変えた。

「……あの土地ではおかしなことがよく起こる。特に夜にはな。影の妖精がまやかしをかけたり、魑魅魍魎ちみもうりょうが彷徨したりという話は、小さいころお主らも大人から聞いたことがあるだろう? あれはただの戒めや脅かしではなく、真実を含んだものなのだよ。あの不可思議な場所がなんなのか、結局のところ分かっておらん。が、用心を怠るな。そしてなにより外の者を――賊の侵入を許すな! ――もしかするとあそこは“魔界”に近いのかもしれない――。わしはそうとすら思ってるのだ」

 周囲はしんと静まった。遠い昔の話だが、魔界を統べる冥王がこの世界を闇に閉ざしたというのは歴史にも残っている真実だ。そして、魔界とこの世界とをつなげる地底の大要塞が建造されていたことも。だとすると、この世界のいずこかには大要塞へ通ずる道があったのだ。

 あの地にこそ、その道がある――村長ひとりの考えでしかないのだが、村に古くから伝わる掟が絶対的であることや、この地域が陸の孤島となっている事実は、暗にそうである、と語っているのではないだろうか?

 知らず、ロザクは全身に汗をかいていた。

「怖じ気づいても始まらん! いずれはこのような出来事が起こるに違いなかった。それがたまたま今回だったという話だ。さあ剣をもて。槍をもて。盗賊どもをやっつけろ!」

 村長は村人たちに手際よく指示を出した。賊は七名。盗人どもは二手に分かれて行動する、と村長は読んだ。墓地には三十人、丘地には残り全てと人員が割り振られ、さらに丘地に行く者のうち二十人は、丘の向こうまで行くことが許可された。ロザク親子もそこに加わった。

 村長は「油断するでないぞ。気をつけろ」と何度も念を押した。


 空の色はなお濃くなる。しかし今夜、ランプや松明は必要なかった。真円を象る月が夜道を照らし出してくれるのだ。ロザクたちはさらに丘を登っていく。やがて道は狭まり、徐々に草に隠れていく。だが彼らが来る前に、誰かがここを通ったようだ。草が不自然に分かれている。

(盗賊たちはもうすでに来てしまっている!)

 彼らはヨーランをわざと逃がしたのかもしれない。村までの道が分かれば、墓地や丘地に行くことはたやすいからだ。

 男たちは無言で一列に連なって歩くようになる。焦りのためか、歩みは徐々に早まる。

 やがて腰までの草地へと変わっていった。ここまで来ると足下には大小さまざま、石のかけらが散乱している。見回すと崩れかけた石柱や建造物が月光を受け、あたかも巨大な墓碑群のように佇んでいるのが分かる。あれらは千年以上も昔のイクリーク王朝時代の駐屯地あと。今はただの廃墟だ。

 村人のうち許可を受けた二十人がさらに奥へと進む。

『この先、何人たりとも立ち寄るべからず。恐るべき禍いに近づく者に禍いあれ』

 石で作られた古い標が立っている。こんな標があるなどとは、ロザクほどの大人であっても知らなかった。警告を読んでロザクたちは一瞬ひるむ。が、盗賊はここをすでに過ぎてしまっている。

 やがて丘の頂まで到達した。そこから見下ろすと、いよいよ“あの場所”が見えた。


 そこは三方が崖になり谷に落ち、残る一方はロザクたちが今いる丘地へと繋がっている。イクリークの兵が駐留していた時分、丘の駐屯地は難攻不落の城塞とされていたことだろう。敵軍は崖を登るのさえ必死だ。背後に回って、平地側から丘地へと襲いかかることもできなくはないが、そこに至るまでに察知されるだろう。そして物量に勝るイクリーク王朝軍が敵を蹂躙じゅうりんする――だのに、なぜ丘の城塞はああも木っ端みじんに砕け散ったのだろうか?

 もしかすると、丘の駐屯地は人間同士の戦いによって滅びたとは違うのかもしれないな――ロザクは思った。あの地が魔界に近いというならば、かつて冥王降臨の折、魔界から出現した魔物どもに襲われて滅び去ったのではないか?

 “あの場所”は一見、草と低木が生えているだけの何のこともない林だ。だが木々は月の光を受けて奇妙な影をいくつも地面に投影する。それすらなにか現実離れした恐ろしいもののように村人たちには感じられた。

 村人たちはお互い目を合わせ、うなずく。そして彼らは意を決して丘を駆け下りていくのだった。そして確かに見た。低木が連なるあの向こうで、草が不自然に動くのを。

「いたぞぉ!」

 村人のひとりが叫び、剣を空に向けて突き上げる。その時、草が大きく動いてその中から人間が数人躍り出た。

「……奴らだ」とヨーラン。「見えるのは七人……ってことは全員がこっちに来てるってことか」

 盗賊の一味はまずこの地にお宝がないか、探りに来たようだ。もっともこの地で得るものは宝ではなく禍いかもしれないが。

「気をつけて! 奴らは手練てだれだし、頭領は魔法を――」

 びょうと。ヨーランのすぐ横を風が通りすぎる。そしてまた一筋。

「あいつら、弓矢を持ってるぞ!」村人のひとりが指し示す。そうしているうちに矢の雨が襲いかかり、何人かの村人は地面に倒れ伏した。坂を駆け下りるころには、村人の数は半数にまで減ってしまっていた。だが奴らを倒さねばならない。その一念で村人たちは盗賊たちのもとへと駆け寄るのだった。矢を受けた者のうち軽傷の者もあとからついてきた。


「エノアー!!」ヨーランが叫んだ。「頼む、この地から出て行ってくれ! そして忘れてくれ! この場所は人が入り込むべきじゃないんだ!」

 エノアーと呼ばれた頭領格の、すらりとした背格好の青年はヨーランをにらんだ。

「臆病者のヨーランか。危険をかえりみずに財宝など手に入らんよ! 命が惜しけりゃ……そこでおとなしくしてな!」

 エノアーは右手を天にかざす。術が発動。村人たち全員の影が縛られ動けなくなった。してやったり。賊のかしらはにやりと笑うと、とって返そうとした。その時。

 エノアーの影が揺らめき、異様に大きくなり――ついには直立した! エノアーには何が起きているのか理解できない。むろん村人たちにも。

「よこしまな心をもって、この地を侵した者どもよ。その代償を身に受ける覚悟はできておろうな?」

 流暢りゅうちょうな共通語を語ったその影はさらに大きくなり、ひとつの姿を象った。龍の姿を。

 盗賊たちは魅せられたように動けない。影の龍は翼を大きく広げて宙に舞い、満月を背にする。

「代償を、その身をもって知るがいい!!」

 龍は盗賊たちに黒炎を見舞った。闇の業火を浴びた七人の盗賊の姿は、一瞬にして消滅した。侵入者たちのあっけない最期だった。


 術が解かれ、村人たちの身は自由になった。影の龍はゆっくり舞い降りると、村人たちに向かって朗々と声を放つのだった。

「私はいにしえの昔よりこの地を守る者。そして“宵闇よいやみの公子”レオズスの分身のひとつでもある。この地の向こうに住まう者たちよ。私はお主らに伝えることがある」

 龍。そのおそるべき威容を前にして、ロザクたちはただ立ちつくすしかない。がくがくと、足が震えているのが分かる。影の龍は目を細めた。この龍からは邪気を全く感じない。しかもレオズスの分身と言った。レオズスは闇を司る神族であり、かつて冥王降臨の際には人間の英雄とともに冥王を討伐したのだ。

「恐れずともよい。お主らは私とともに、ここを――“禁断の地”を守る義務がある。この地を他所の者に侵されてはならぬ。ここからは大要塞タス・ケルティンクスへと繋がる道があるゆえにな」

「ここは魔界へ繋がっているというのか……」

 誰かの独り言を龍は聞いていた。

「しかり。英雄たちによって“魔界サビュラヘム”への道が封じられて久しい。だが、なにかのきっかけで道が開いてしまうこととてありえん話ではない。道が開かぬよう、“魔界サビュラヘム”からの干渉はこの私が引き受ける。お主ら、丘向こうに住む人間たちは、この地に軽々しくやってくる人間がいないよう、くい止めてほしいのだ。そして手に負えぬ時は私を呼べ。宵闇の分身たる私か、本体――レオズスが助けよう。冥王復活に繋がる事象は、些細ささいなことであれ取り除かねばならない。かの暗黒の災厄が再び訪れんようにな……」


 この日この時より、村人すべてが“守人モリビト”となった。“守人”とはこくを告げる者から“禁断の地”を守る者へと、その意味を大きく変えた。いや、本来あるべき意味に戻ったのだ。

 村人たち――つまり守人たちは、龍から強力な武器を渡された。守人たちは龍の要請に応え、屈強な戦士へと自らを鍛えるのだった。勇猛なるその血統は、代々受け継がれていくだろう。この地を守り抜くために。


 * * *


 りん、ごーんと。鐘の音が朗々と鳴った。やがて二重、三重と鐘の音は重なりゆき、美しい和音を周囲に響かせていく。これは一日の終わりを告げる刻の合図。村に住む人々は鐘の音によって一日の営みを終えるのだ。

 今宵、月は満月。ヨーランは鐘を鳴らし終えた後、鐘楼しょうろうの窓辺から夜空を見やるのだった。


 ――あれから幾星霜を重ね、この村はすっかり守人たちの村となった。ロザクは守人たちのかしらとして、村長に次ぐ地位を得た。村に残ると決意し、守人となったヨーランも一人前に成長した。そして彼も結婚し、幼子を持つようになったのだ。父母も、孫の誕生を喜んでくれた。この子は次の世代の守人になることだろう。


(……親父は、俺がこの鐘を鳴らすところを見ていてくれるだろうか?)

 白銀の光を放つ月に向かって、ヨーランは思った。

 父ロザクは昨日、亡くなったのだ。心の臓腑が鼓動を止めた、突然の死だった。

そして鐘をつく役目は息子へと引き継がれた。いや、ヨーランが率先して仕事を引き継いだのだ。“守人”の意味するところが変わったといっても、村に時を知らせるこの仕事が重要であることに変わりはない。ヨーランは父の葬儀が終わって早々に仕事を始めた。


――ほとんどの人間は、死んだらあの月に行くんだ。そこからさらに死者の世界に行って魂の安息を得る――

 ヨーランが幼い日のころに父から聞いた言葉。昨日旅だった父の魂は、今ごろ月にいるのかもしれない。ここから月が見えるように、月からはこの世界が見えるだろうか? 自分の息子が鐘をついているさまが見えるだろうか?

 鐘の音が父の魂のもとへ届いてくれるように。ヨーランは目を閉じ、ひとり祈った。



                          了

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