第13話 食らう喰らう

 三○一号室のテーブルに置かれた二枚のプレートは蓋がされたままになっていた。明石はソファーに座って背凭れに体と首を預けると顔の上に帽子を被せて一ミリも動かずにいた。その姿勢ですでに十分以上が経ち、いい加減に大河内が不安になってきた頃、静かに息を吐く音が聞こえた。


「はぁ……本物の拳銃でないことは確かなんだよね。でも、傷に当て嵌まる威力がある物だと弾が残っていないのは可笑しい。細長いアイスピックみたいな凶器も考えたけど、黙 て殺されるわけが無いからね。動く相手の肋骨を傷付けずに心臓だけを貫くのは不可能に近い」


 完全にキャパシティを超えたと言っていいのだろう。


「では、空気銃などではどうですか? それなら弾は残りませんし」


「体を突き抜けるほどの威力がある空気銃ってのがあるのかどうかが怪しいんだよね。それに空気銃の傷口ってもっと特徴的なんだよ。破裂したようになる」


 押し出した空気が体内でぶつかり、それが跳ね返ってくることにより、今回のような綺麗な傷口にはならない。そもそも、空気銃自体に大した殺傷能力が備わっていないのだ。大型の物か改造したものなら話は別だが、それは先刻も考えたように果たしてそんな物をこのホテルに泊まっている人が手作りするのかどうか、である。


「凶器が何にしろ、少なくとも不意を突いたってことですよね? そうでないと明石さんが言った通りに殺されそうになったほうは逃げるでしょうし」


「そうなんだよねぇ」


 そこがそれなりの根本でもあるのだが。


 明石は帽子を被り直して立ち上がると、遺体を跨いで浴室に入り、洗面台の鏡で自分の姿を確認した。自然と笑顔の仮面が貼り付いているが、さすがに一気に五つの死体はキツい。しかも、まだ三つ目だ。先は見えないが――選択肢は無いに等しい。


 鏡に映る浴室を見て、明石は振り返った。


 昨夜、湯船を使った形跡は無い。そして浴槽に腰掛けると、その先に見える木村の遺体を眺めながら顎に手を当てた。


「状況的に考えれば、ここに居たと推測するのが正しいのか」


 呟いた声が聞こえた大河内は、浴室の中を覗き込んだ。


「何かわかったんですか?」


「身長から、心臓の位置と肋骨の位置は割り出せるよね?」


「ええ、まぁなんとなくの位置ならわかりますけど。医者なので」


 医者でなくとも、だ。


「ここで銃を構えて待ち伏せをしていたと考えれば不意を突けるし、身長がわかっていれば心臓を的確に撃ち抜くことも出来る」


「でも、銃かどうかもわからないし……何で心臓を撃ち抜いたのかもわかっていない、と」


 改めて言われると返す言葉も無い。


 何よりも問題なのは鍵が無い以上、侵入する方法が無いということだ。各部屋にベランダはあるがそれを飛び移れるのは海老原くらいだ。それに飛び移れたとしても窓の鍵が開いていなければ中には入れない。たとえ窓を割ったとしても異変には気付かれる。そして、正面から木村に迎え入れられたのなら不意を突くことはできない。


 いくつかの矛盾が積み重なって、より不可能な状況が作られているのだ。


「計画を立てるときに重要なのは、不測の事態に対してあらゆるプランを練っておくこと。出来ない者から死んでいく」


 遺体を眺めながら考える明石は、不意に立ち上がると浴室のドアを閉めた。閉ざされた空間――床に視線を落としても足跡は無い。


「……何を撃ったのかはわからないけど」


 拳銃にも反動があるように、威力のある物を撃ち出せばそれだけの衝撃が返ってくる。しかし、そのような痕も無い。このホテルに来た目的が人を殺すことだったのなら、それくらいの対策をしているのも当然である。


 明石が溜息を吐こうとしたとき、浴室のドアがノックされた。


「明石さん。戻ってきましたよ」


 大河内の声で改めて確認できた。部屋全体は防音だが、浴室に居ても外の声は聞こえるし人が来たことには気が付ける。


 浴室から出ようとドアノブを掴んだとき、ノブに付いた傷を発見した。


「切り傷というよりは……何かで擦った感じ、かな?」


 細く鋭いものが付けたような痕。それが事件に関係しているのかはわからない。傷に触れて確認していると、再びドアをノックされた」


「明石さん?」


「ああ、今行くよ」


 浴室を出ると、開いていたはずの部屋のドアは閉められていた。リビングの方を見れば、小熊と大河内がソファーに腰を下ろしていたが、大河内は複雑そうな顔をしていた。


「あの……ここで食べるんですか?」


「ここ以外でどこで食べるんですか?」


 すぐ横には射殺体。そのことを不自然に思わなかったのは小熊が刑事であり、この場に正式な捜査でいるわけではないからだろう。それに大河内を気にしなかったのは医者だからだ。特に手術を熟す医者なら死体があっても大丈夫だろう、と。


 小熊の横に腰を下ろした明石は、二つのプレートの蓋を外して床に置いた。


「わぉ。意外にちゃんとしたハンバーガーだね」


 ふかふかのバンズに挟まれた厚切りの豚肉と、切り落とされた鶏のモモ肉に重ねられた瑞々しいレタス。滴る肉汁と照り焼き風のタレが皿の上で混ざり合った香ばしい匂いが鼻腔を擽ってくる」


「んっ――」


 齧り付く。


 口の端から零れ落ちた肉汁を皿の上に落として、歯を押し返してくるバンズと肉とレタスに負けじと齧り取った。くどい味にならないようにあっさりとした照り焼きのタレと肉の触感を確かめていると、その中でピクルスを感じた。パンと肉と野菜――そしてピクルス。その四つが組み合わさって作られた味は、もはやジャンクフードと呼べるような類のものとは違っていた。


 一方の小熊はたまごのサンドイッチと、サーモンとレタスのサンドイッチが二つずつ。こちらに関して特筆すべき点は無い。当然、美味いのは確かだが感動があるわけでもなく普通のたまごと普通のサーモンだった。しかし、どうやら拘ったところがそこでは無かったということらしい。


 皿の横に置いてあったコーヒーを一口飲んだとき、小熊は目を見開いた。


「わっ、おいし」


 思わず声が出てしまうほどの衝撃だった。確かに美味しいか美味しくないかはわかるが普段はカフェインを摂取するだけの目的で飲んでいるコーヒーに、これほど美味いものが存在しているなど初めての経験だったのだろう。


 確かめるようにもう一口飲んだ。


 しかも、サンドイッチを食べてから飲むと、より一層コーヒーの旨味を感じたのだ。だからこそ、サンドイッチが平凡な味なのだと気が付いた。


「……すごいわね」


 バランスの取り方が異常に上手い。つまりは、それがそのまま料理人の腕の良さということだ。


 数分のうちに皿を空にした二人は満足そうにコーヒーを飲んだ。


「どうだった?」


「僕的にはもっと脂ぎっていてピクルスいっぱいでも良かったけど」


「あんたの味覚はよくわからないわね。ジャンクフードが好きで、砂糖たっぷりの飲み物が好き。アメリカの子供かしら」


「うん。ポテトチップスとコーラも好きだよ」


 話が脱線した。


 小熊は一つ咳払いをしてから、再び口を開いた。


「事件についてよ。木村さんの人柄について聞いてきたけれど、人に恨まれるような感じはしなかったわね」


「具体的には?」


 脚を組んで手帳を取り出すと、メモをしたページを開いた。


「宿泊客同士の関係性が希薄な中で、ほとんどの人と会話を交わしていたって感じね。印象としては単に気さくなおじいさんかな。面白い歴史の話とか、雑学をよく披露していたとか」


「まぁでもさ――正直、一人だけ確実にレートが高い人いるでしょ?」


 そう問い掛けると、小熊は手帳を閉じて明石は帽子のツバを下げながら同時に目を合わせ、口を開いた。


「〝小畑〟」


「当然よね。同じ大学の同じ分野の研究者となれば、容疑者の筆頭なのは間違いない。何か証拠は?」


 明石は困ったように頬を撫でると背凭れに体を預けて、腕を掛けた。


「証拠ね……この部屋で起こっている問題が三つ。いや、四つかな。あるんだよね。まず一つ目は殺害した凶器がわからない。射殺なのは確かだけど、傷口と当時の現場の状況が当て嵌まらない。それを踏まえた上で二つ目――」


「射殺だけど、弾が無い?」


「そう。いくら防音壁だからって人体を貫くほどの威力がある弾を受けて無傷ってことは無い。三つ目は状況的に不意を突かれたはずなのに部屋の主に知られず、この部屋に入る方法が無いってこと」


「……うん? 四つ目は?」


「小畑が犯人、ってことだね」


 納得する小熊だったが、意外でもなくわからないような顔をしたのは大河内だった。


「あの、それは確定なんですか? 小畑さんが、木村さんを殺害したんですか?」


「まず間違いなく、ね」


 説明を求めるような表情をする大河内だったが、明石は面倒臭がってか無視するようにコーヒーを飲んだ。そんな姿を見兼ねた小熊は、小さく溜息を吐いた。


「当たり前のことですけれど、大河内さんを含めこのホテルに泊まっている人のほとんどは初対面ですよね?」


「ええ、当然です」


「個人情報などの管理を徹底しているこのホテルに護身用として人殺しの道具を持ってくるのは可笑しい。その前提があるのに、武器を持ってくるってことは始めから誰かを殺すつもりなのは明白。そして、今のところホテルに来る以前に木村さんと接点があるのは小畑さんのみ。つまりは、そういうことです」


 今ある情報で合理的に考えれば、ということだ。当然、これから新たな情報が手に入り、状況に変化があれば推理が変わってくる可能性も十分に有り得るが、そこが今の妥協点であり及第点だ。


 俯きがちに思考を廻らせる明石に対して、小熊は提案をしてみた。


「そうしなければならなかった状況から考えてみたら? 不意を突いて殺すのなら隠れている必要はないでしょ。突然、銃を突き付けられたら誰だって驚く」


「それならわざわざ浴室の前に死体を移動させる理由ないよね」


「じゃあ、不意を突かなくても殺すことはできるでしょ。相手を押さえ付けるとか」


「仮に道具が拳銃の類だとして、密着していたなら傷の周りに火傷が出来るし、体を退けて弾を回収する理由がわからない。というか――さっきも言ったけどそもそも、どうやって殺したかは二の次なんだよね。死体の状況からして間違いなく犯人は浴室に隠れていたんだよ。だから、問題は部屋への侵入方法」


「カードキーは二枚持っていたわよね。……事前にスペアのカードキーを盗んでおいて侵入して殺した後に被害者のポケっトに戻したんじゃない?」


「ホテルとかのカードキーは二つあった場合、二つとも持っておくのが基本だよね? 間違えて一つを部屋の中に置き忘れても大丈夫なように。隙を見て盗むことができたとしても、部屋に入る時には気が付くでしょ。そうしたら警戒心は強くなるから、不意を突くのは難しくなる」


「つまり、犯人は鍵を使わずに部屋に入った?」


 会話をしながら問題点を浮き彫りにさせていく二人の間に、大河内が口を挟んだ。


「もしくは鍵を使ったか」


「……どういう意味ですか?」


「あ、いえ――ただ思い付いただけなんですけど。田中さんはマスターキーを持っていますよね? それを使った、とかは」


「……真犯人?」


「もしくは共犯者」


 言いながらも二人はその可能性が極めて低いことを理解していた。


 確かにマスターキーを持ち、どの部屋にでも出入りできる田中にならばどの犯行も可能ではある。だが、理由が無いのだ。殺人をする動機が、という意味ではなく。二人をホテルに呼んだ理由が無い。殺人を犯すつもりだった、もしくは手伝いをするつもりだったのなら警察への連絡などせずに、ただ遂行すればいい。わざわざリスクを増やすなど愚の骨頂にもほどがある。


 帽子のツバを下げて鼻から息を吐いた明石は、思い出したように小熊に視線を向けた。


「そういえばミーシャさ。ピッキングできるんだよね?」


「まぁ、そうね。一応は出来るわよ」


「じゃあ、ここのカードキーは? 出来るの?」


「……カードキーは複雑なのよ。シリンダー錠なんかとは違ってヘアピンとかで出来るわけではないし――」


「御託はいいからさ。出来るの? 出来ないの?」


 身を乗り出して聞いてくる明石に、観念した小熊は大きく溜息を吐いた。


「出来るわよ。但し必要な道具が揃えばね。……ちょっと待って。やらないわよ? 言ってみればただの昔取った杵柄でしかないんだから。今は刑事なのよ? 倫理的に考えて」


「僕は違うよね。こんな閉鎖的な場所で誰も見てないんだからさ。もしも問題になったら僕のせいにすればいいよ。で、必要なものは?」


 話に乗せられている様な気もするが、これが成功すれば別の者でも可能ということになる。


「わかったわ。必要なものは三つ。壊してもいい別のカードキーと、頑丈な薄い紙か鉄板。ピンは――私が持ってる」


「カードキーは僕が持っているミーシャの部屋のスペアを使えばいいよ。紙は……レシートとかどう?」


 取り出したのは昨日購入したコーヒーのレシートだった。


「まぁ、やるだけやってみるしかないわね。どこのドアを開けるつもり?」


「二○一号室。次の事件現場」


「でも、田中さんは鍵を壊すことを許してくれるかしら。スペアキーと言っても高いものでしょう?」


「だから黙ってやるんだよ。多分、田中さんは部屋の外にいるから僕らは一旦部屋に帰るってことにして、遅れてきてもらうんだ。で、その時に大河内さんにはやってもらいたいことがあるんだけど。いい?」


「はい。なんでしょうか?」


「僕達が出て行ってから――五分後くらいかな。田中さんにはこの部屋の掃除を頼んで、マスターキーを借りてきてくれる?」


 そのお願いの意味がわからないのか、大河内は眉間に皺を寄せた。


「借りられなかったら?」


「それならそれで構わないよ。田中さんと一緒に来て」


「……わかりました」


 立ち上がった小熊と明石は遺体を跨いで部屋を出て行った。


 言っていた通りに田中に告げると疑うことなく了承して、二人は階段を下りていった。二○一号室の前まで来て、ドアの前でしゃがみ込んだ小熊に明石が問い掛けた。


「ところで五分って制限時間付けちゃったけど、いける?」


「言ったでしょ。やるだけやってみるわよ。携帯ある?」


 明石の携帯を受け取ると、小熊は自分の携帯も取り出してその間にカードキーを挟んで摩るように動かした。


「……何してるの?」


「携帯の磁気によってカードの中にある情報を壊して、何もない状態にしているのよ。まぁ、詳しいやり方は教えないけれど。運が良ければ開くわ」


 レシートをドアの隙間に挟み、データを壊したカードを差し込むと長く伸ばしたヘアピンをその脇から半ば無理矢理ねじ込んだ。


 触感と音を頼りに指先を軽く動かしていく。


 カチッカチッと無機質な音を響かせること、二分。


「どお?」


「勝手が違うのよね。基本的な構造は同じはずなんだけれど、それぞれにクセがあるから――ここかしら」


 差し込んでいたカードを軽く引き抜くと、再び奥まで差し込んだ。すると、錠が落ちる音と共にドアノブが動いた。


「わぉ、本当に出来たんだね」


「そりゃあね。でも、これは立派な犯罪だから。あんたがやったら逮捕するから」


 棚上げ感も否めないが、それを指摘するよりも先に部屋の中に入った。


 踏み入れた瞬間に異質感を覚えたのは明石だけではなかった。視界に何かが入ったわけでもなく、ただそこでした一呼吸が妙に重たいものに感じたのだ。形容するならば、臓器が浮く感じとでもいうのだろうか。稚拙ではあるが、ジェットコースターで急降下する直前のような感覚、だと言えばわかりやすい。


「……どう思う? ミーシャ」


「私がどう思うかは関係ないわ。重要なのは、一部屋で二人一緒に事故死する確率は極めて低いってことよ。事故でない限り、必ず犯人がいる」


 先を行く小熊の背中に向かって明石は微笑んだ。


「プロだねぇ」


 すぐにその後を後を追って行こうとしたところで閉めた部屋のドアが開き、二人は同時に振り返った。


「あ、すみません。マスターキー、借りてきました」


 入ってきたのはマスターキーを掲げた大河内だった。


「そっか。借りられたんだ」


「はい。でも、条件がありました。又貸しは禁止だ、と」


 それは予想していたよりも軽い条件だった。だが明石は、そもそもマスターキーを簡単に貸し出すものとは考えていなかった。


「つまり、それを僕やミーシャに渡すことはできないってことだね?」


「えっと……はい。そうなりますね」


 確認した明石は帽子のツバを下げると顎に手を当てて考え始めた。が、凡そ十秒後には顔を上げて笑顔を見せた。


「うん。大体わかった。協力してくれてありがとう先生。じゃあ、検死をお願いできるかな?」


「……? はい。わかりました」


 明石が一体何を理解したのかはわからないが、それを問い掛けるような雰囲気でないことに大河内も気が付いていた。辺りを包んでいる重い空気は、刑事でなくとも察せられるほどに強かったのだ。むしろ刑事でさえそうなのだから、一介の脳外科医である大河内など、脚が動くだけマシな方だろう。


「遺体はどこですか?」


 リビングに入る直前まで進んでいた小熊に問い掛けると、振り向くこともせず口を開いた。


「どっちからにするかは任せますよ、大河内先生」


 遺体は二つ。


 リビングと――浴室に。

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