第六章 イエロー・ベリー
第14話 歪が故の合理的
まずはリビングの方から検死することになった。
遺体の位置はソファーとテーブルの間。ベッドルームのほうに頭を向けてうつ伏せで倒れている。必死に助けを求めるように手を伸ばした体勢で息絶えている。傍らには割れた小瓶と、その下のカーペットは白く色を変えていた。
「前島弁護士の奥さん――前島むつみさんで間違いないですね」
昨晩、三人ともに前島夫妻とは出会っているが念のための確認だ。
明石が手袋をして遺体の脇にしゃがみ込んだとき、部屋の中に携帯の着信音が鳴り響いた。
「あ、私だ。ちょっと電話してくるわね」
そう言うと、小熊は廊下を進み部屋を出て行った。
「じゃあ、僕らは続けよう」
体を調べ始めた大河内の横で、明石は落ちていた小瓶の破片を手に取った。触れてみた限りでは大しておかしなところは無い。鼻に寄せてにおいを嗅いでみると、途端に明石は目を細めた。
「……洗剤?」
しかし確信は持てない。破片を置くと、床に手を着いて白く変色している部分へと顔を近づけ、においを嗅いだ。
「あの、明石さん。これは……なんでしょう?」
体に傷などが無いかと服を肌蹴させていた大河内は見たことが無い光景に目を疑った。だが、見間違うはずもない。
「死斑の色が――」
「緑色、ね。なるほど」
「こちらの知識の中には無いのですが、これはいったい」
「この人の死因はなんとなくわかった。念のため他に傷とか無いか調べてくれる? ミーシャが来たら説明するから」
「……わかりました」
おそらくは明石だけでなく正式な検死官や警察官なら特徴的な死斑だけで死因の特定は可能だろう。だが当然、裏付けも必要になる。
明石は散らばった破片の中、何も無いように見える場所で何かを見つけると、見る角度を変えながら口を開いた。
「先生。ピンセットある?」
「ええ、ありますけど……どうぞ」
カバンから取り出したピンセットを手渡すと、明石は何も無い場所で何かを挟んだ。そして、手を上げてみるとそこには薄い円形のフィルムのようなものが挟まれていた。
「なんですか、それ」
「多分、仕切りだね。さすがに指紋はないか」
そのフィルムを置いてあった場所に戻すと、静かに立ち上がりながら帽子のツバを下げた。
遺体に視線を落として、そこから手の伸びる方向に目を向けた。方向的にはベッドルーム。多少外れているが状況から考えると固定電話に向かおうとしたのだろう。何らかの影響で倒れて動けなくなり這ってでもいこうとした、と。
「遺体に外傷は見当たりません。ですが、手の爪に床のカーペットと同じ色の繊維が挟まっているので……おそらく即死ではなく、倒れてから少しの間は意識があったんだと思います」
「意識はあったのに、動けなかった。それに緑の死斑。これは確実にアレだね」
一人で納得したように呟くと、部屋の四隅を確認して顎に手を当てた。
明石はすでに前島むつみの死に関しては自分の中で解決しているようだが、どこか腑に落ちていないような顔をしていた。その横で大河内は、明石を確信させたであろう割れた小瓶の破片を手に取って、同じようににおいを嗅いでみた。が――わからない。
その時、部屋のドアが開く音がした。
「大河内さん。田中さんが来ましたよ」
「あ、はい」
破片を置いた大河内は携帯を仕舞う小熊とすれ違って部屋の外へ向かった。そして、明石の横に並んで遺体を見下ろす小熊に、明石は視線を向けずに口を開いた。
「電話。玉ちゃんから?」
「あら、よくわかったわね」
「勘だけどね」
「宿泊客について調べさせたんだけれど、まぁ概ね予想通りだったわ。これよ」
書き記した手帳を明石に手渡した。
「……うん。そうだね。やっぱり木村さんを殺したのは小畑さんだとするのが一番しっくりくるよね」
「そうね。でも、そのためには確かな物証か、自供が無ければ話にならないわ。で、こっちは?」
手帳を返されて懐に仕舞った小熊は、目の前の遺体について問い掛けた。丁度その時に大河内が戻ってきたが、声を掛けずにリビングに入る直前で足を止めた。
「見ての通りだよ。即死ではない何らかの衝撃を受けて行動不能になり、後に死亡。体には緑色の死斑。どう考えたって――」
「〝硫化水素〟」
「その小瓶に入っていたってことかしら」
刑事であるが故に察しが良いというよりかは、硫化水素がどれだけ危険なものかを知っている者ならば、何か密閉された容器に入れていない限り持ち歩くことはできないと知っている。
「最近では市販の物で高濃度の硫化水素を作るのは難しいと言われているけど……まぁ、難しいだけだからね。不可能ってわけじゃない」
小熊は手袋を嵌めながらしゃがみ込むと遺体の手を取って指先を眺めた。
「殺される方の身になってみれば、どうせなら即死レベルの毒ガスを作れって感じよね」
「ミーシャが皮肉めいたことを言うのは珍しいね」
「別に、ただの本音よ」
そこに、リビングに足を踏み入れた大河内が二人の背後から口を挟んだ。
「あの、もし仮に殺害に使われたのが硫化水素だとしたらその製作もかなり危険ですよね?」
至極当然の発想である。誰かを殺害するための毒を作製している間に自分が死ぬなど、ミイラ取りにもほどがある。
「そうだね、先生。だから厳密に言えば、硫化水素を作ったのはここでだね。時限爆弾なんかでよく聞くでしょ? 薬剤Aと薬剤Bが混ざって爆発を起こす、とか。これも同じだよ。先に物質Aを入れておいて、その上にさっき見つけたフィルムを乗せて、またその上に物質Bを入れる。持ち運ぶのは多少緊張するだろうけど、少し混ざるくらいなら問題は無い」
「それを使う直前に思い切り振れば、簡易手榴弾の完成ってわけね」
やれやれといった感じで頭を振る小熊は、よいしょ、と声を付けて立ち上がると、明石に視線を向けた。
「それで、犯人の目星は?」
「この密閉空間だよ? 決まってるでしょ」
そう言って明石が指差したのは、もう一つの遺体がある浴室だった。しかしその時、言葉の矛盾に気が付いた。
「ちょっと待って。ここは防音仕様の密閉空間なんだから、そんなところで硫化水素を散布したら自分まで危ないわよね?」
「でしたら、元々心中自殺をするつもりだったのではないですか?」
そんな会話をしている小熊と大河内の間を通り抜けた明石は部屋の隅、壁と床の境目にある格子状の部分に触れた。
「まぁ詳しくは田中さんに聞けばいいと思うけどさ。防音で密室ってことは部屋の換気をしっかりしないと生物は死んじゃうでしょ? かと言って全部屋に繋がるような巨大な換気装置を付けたら防音効果は減ってしまう。だから多分、このホテルは全部屋防音であり全部屋に独立した換気機能が付いているんだよ」
「……本当に?」
「ホントーに」
猜疑心を隠し切れないのも無理はない。どんな高級ホテルでも、各部屋に独立した換気機能を持っているところなど無いのだから。理由としてはコストが掛かるから。加えて、そこまでする理由がないからだ。
「それなら、確認してくるわ。二人は浴室の遺体を調べ始めて」
それがどんな些細なことであれ、たとえ直接事件に関係していなくとも知っておく必要がある。小熊は部屋の外へ、明石と大河内は浴室へと向かった。
おそらくはホテル内で見つかった五つの遺体の中で、この場所にある遺体が最も不可解な状況にあるだろう。
浴槽の方向に仰向けで足を向け、床に打ち付けたのであろう頭からは血が流れていた。そして、何よりも体の脇に散らばっている大量の使い捨てカイロが、その異様さを掻き立てている。
「えっと、あの……これ、は――一体どんな状況で……入ってもいいんですか?」
飲み込めていないのは明石よりも、むしろ大河内のほうだ。遺体自体は氏家のように見るに堪えないような状況ではないが、それでも足を踏み入れていいのかどうかは迷うところだった。
「いいよ。カイロそのものはこの人の死因と関係ないと思うから」
口調からすると明石も半信半疑といったところか。
大河内はカイロを足で退かしながら遺体の横に膝を着いた。これまでと同様に、まずは首に手を当てて脈の確認し、次に閉じている瞼を開いて眼球を確認した。ここからは遺体の状況によって変わるが、今回は見た目でわかる頭部からの出血を確かめた。
「……これは、死因ではないですね。出血量が少ないですし、傷もそれほど深くありません」
「だったら、死因は別にあるってことだね」
「はい。調べます」
首から肩、腕から手首、掌。そうしたら、腋まで戻って下まで移動していく。一先ずは足首までの触診を済ませて、再び全身を眺めてみた。
頭部の怪我が死因ではないと言ったのには確かな自信がある大河内だったが、一気に不安に駆られた。傷が小さく出血も少なかったが、だからといって脳への衝撃がどれほどあったのかまでは切り開いてみなければわからないのだ。
しかし、まだわからない。前島むつみの時は死斑から死因が判明したのだから、こちらもその可能性は十分にある。
そう考えた大河内はシャツのボタンを外して、肩から脱がせ始めた。だが、すぐにわかった。硫化水素で死んだ者の死斑が緑になることを知っていなくとも、もっと有名なことは知っているのだ。
「明石さん。鮮紅色です」
「……わぉ、まさかだね」
それはこれまで一度も見せていなかった本当に驚いた顔だった。まさしく予想外だった、と。
「死因は一酸化炭素中毒です」
「みたいだね」
一部屋で二つの死体というのがまず珍しいのに、その二つの死因が、異なる二つの中毒死によるものだったなんて、想定の範囲外で当然である。
明石は頭の中で推理の解体及び組み立てを始めたが、自分で言った大河内すらも理解できていない。
「確認が取れたわよ。確かにこのホテルは全部屋で独立の換気システムを使っているって。……なに? 空気が重いわね」
書き終えた手帳を仕舞った小熊は浴室に入ってくると肩を露出している遺体を見て、すぐにどういうことなのか理解できた。
「一酸化炭素中毒? また厄介になってきたわね。換気システムのことを確認してきた直後よ?」
その通り。今まさに、各部屋の換気が出来ていることを確認してきたところなのだ。換気が出来ているということは、つまり――一酸化炭素中毒で死ぬ可能性は極めて低いということ。
小熊さえも匙を投げそうになる理解不能な状況の中で、洗面台に寄り掛かっていた明石は帽子のツバを下げた。
「前島さんの死因は一旦措いといて、奥さんのほうを先に解決しちゃおうか」
「前島さん――旦那のほうよね? 理由は?」
「動機ってこと? それとも合理的な説明のこと?」
「両方、って言いたいところだけれど、合理的な説明があるのなら聞きたいわね」
明石は床に手を伸ばすと、カイロを一つ手に取った。
「知っての通り、これはカイロだよね。正確に言えば使い捨てのホッカイロ。これが温かくなる原理は空気と鉄が化学反応を起こして熱を起こす、と。で、大抵のカイロには空気の吸収率を上げるために活性炭が入っているんだ。知ってた?」
「ええ、一応は。あれよね、使い終わったカイロを靴の中に入れておくと活性炭のおかげで臭いが取れる、とか」
「そう。まさにそれ。硫化水素とか毒性の強いガスなんかを処理する方法の一つに炭を使う方法があるんだよ。実際に硫化水素の比重は空気よりも重いから、あの割れていた小瓶の量だったら部屋の床を這うくらいしかできないはず。だから、それくらいなら部屋の換気と合わせてカイロを床に置いておけば多少の応急処置にはなると思うんだよね」
「でも、確実ではないんでしょ?」
「そうだね、実験とかをするにはそれなりの施設も必要になるから、本人も確証が無かったんだと思うよ。だから、瓶を割ったらすぐに浴室に入ったんじゃない? ここには部屋とは別に換気扇があるし、硫化水素が入ってくる道も決まっているし」
床は這う空気の通り道は唯一存在している浴室のドアの下の隙間しかない。
「……確かに、それなら床にカイロが散らばっている理由にはなるわね。でも、それならこっちの前島さんの死因が一酸化炭素中毒っていうのはどういうこと? むしろ、策が嵌まらずに奥さんと同様、硫化水素で死んでいたほうが合理的な気がするわ」
「だからさ、策は嵌まったんだよ 実際にカイロの効果があって硫化水素は浴室にまで来なかったとする。つまり、前島さんは別の要因で死んだってことだ」
少なくとも筋は通っている。それだけにその前提を崩さずに次の推理に進まなければならない。
その時、話を聞いていた大河内が口を開いた。
「別の要因とはなんですか?」
「単純に考えれば換気扇に細工をするのが一番手っ取り早いわよね。でも、そうなるとさっきと同じ問題が発生するわ。第三者が部屋に侵入することは難しい」
「第三者ではないのでは? 前島弁護士は奥さんを殺害するつもりで、その奥さんも旦那さんを殺害するつもりだった、とか」
それも筋が通る。だが、合理的とは言えない。
「だったら、わざわざ一酸化炭素で殺害する必要はないわよね。食事に毒を入れる機会なんていくらでもあったでしょうし」
殺意が強いのなら一酸化炭素でじわじわと殺すよりも、致死率の高い毒を直接食べさせた方が圧倒的に早く、圧倒的に楽だ。
そのやり取りの間、明石は浴室の天井に視線を這わせていた。
換気扇の位置は浴槽の真上。前島が倒れているのは浴槽から少し離れた場所で、足をそちら側に向けている。
考えるよりも行動した方が早い、と明石は浴槽の縁に乗って換気扇に顔を近付けた。
「え、ちょっとあんた何をやってるの?」
「ん~……ミーシャ、 ちょっと体支えてて」
そう言うと、壁に着いていた手を離して両手で換気扇のカバーを掴んだ。ネジでもなく、嵌め殺しというわけでもない。スライド式のカバーを外すと、そこは空洞だった。換気扇、などと言ってはいるが、実際にフォンが回っているのはダクトの先なのだ。とはいえ、直接顔を入れるだけの隙間があるわけではないので、手袋をした手を中に入れて付近を探ってみた。
しかし、何かに触れるわけでもなく細工したような跡は見つからなかった。手を出すと手袋の掌が黒く汚れていた。
「案外掃除を徹底しているってわけでもないんだね」
「誰がそんなところ見るのよ」
小熊の指摘も間違っていない。
換気扇のカバーを付け直した明石は、気が付いた。
「ああ、これは無理だね。仮に換気扇に仕掛けをしたんだとしても、それは前島の奥さんじゃないよ」
「どうしてですか?」
「身長が足りないんだよ。多分、今このホテルに居る人間で一番背が高いのが僕で、一番小さいのが奥さん。同じように浴槽の縁に乗ってもギリギリ換気扇の蓋を外せるかどうかってところでしょ」
明石は正しい。それだけに事件がより難解になっていく。
「でも、他に前島さんと接点があるような人は居なかったのよ?」
「そうだねぇ……うん。結構困ってる」
「可能性は低いにしても、また話を聞きに行ったほうが良さそうね」
すでに警視庁に居る小熊の同期、玉木からの情報で宿泊客の人間関係などは把握しているが、実際に聞いてみなければわからないこともある。そうは言っても、死人からは何も聞けないのだが。
「あ、それなら今度は僕も一緒に行くよ。確認したいことがあるからさ」
「そう。なら行きましょう。大河内さんは」
「俺はここに残って何か見落としが無いか確認します」
「……わかりました」
その発言に違和感を感じた小熊だったが、追求することはしなかった。何よりも明石が何も言わないということは、その確認したいことに大河内が関わっていないということ。ならば、気にする必要はない。
二人は大河内のことを田中に任せて、階段を下りはじめた。
「そういえばさ、ミーシャ。玉ちゃんに調べさせたのは宿泊客だけなの?」
「うん? そうだけど」
「従業員は? ミーシャなら調べるものだと思っていたけど」
全員が容疑者だと考えているのなら、むしろそうしなければおかしい。
「だって田中、佐藤、鈴木って明らかに偽名でしょ? それくらい話していればわかるだからわざわざ調べる意味もないと思ったんだけれど、違う?」
「違くはないけどさ。念のためとか、ね」
それは別に、調べろ、と命令されたわけでもなく。ただ一階の食堂に着くまでの間を繋ぐための会話だと思うこともできたのだが――小熊には出来なかった。
二階から一階へと向かう階段の中ほどで小熊は携帯を取り出して電話を始めたが、明石は何を言うことも無く。ただ立ち止まって電話が終わるまで手摺りに寄り掛かっていた。小熊は電話をしながら自分よりも下に居る明石を眺めて考えていた。
――意味の無い会話をすることはよくある。しかし、何故だか今回のことは引っ掛かった。明石がそうさせたのかはわからないが、刑事としてその言葉を無視することができなかったのだ。
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