第五章 グリーン・アイズ・モンスター

第11話 シュレディンガーの猫、ではない

 三○一号室は、また違った異彩を放っていた。先程まで居た血肉が飛び散っていた部屋とは一転――殺人現場には変わりないが横たわる遺体の下に血溜りがあるだけの凄惨とは程遠いシンプルな光景だった。


 浴室の方に足を向けて仰向けに倒れている男は木村朝陽で間違いない。明石は廊下を塞ぐ遺体を跨ぐと、踵を返して視線を落とした。大河内は遺体の脇に膝を着いて、血溜りの中心に触れた。


「……これ、経験が無いのでわからないのですが、弾痕じゃないですか?」


 胸の中心から少し左側。通常であれば、そこには心臓がある。


「見せて」


 手を退けると血に染まった服に直径一センチ程度の穴が開いていた。しかし、明石はそれだけでは結論付けられない。


「傷口は?」


「ちょっと待ってください」


 シャツのボタンを外し、傷が見えるように肌蹴させた。確かに、胸には心臓の位置に穴が開いていて、血が出てきた痕がある。明石は遺体から視線を上げると、周辺の壁を確認するように見回した。


「……どうかな。弾痕には見えるけど、多分拳銃とかから発射されたものではないと思うよ。倒れている位置と部屋の広さから考えると至近距離から撃たれているはずなのに、傷口の周りに火傷の痕が無い。つまり、何か別の――少なくとも体に穴を開けるだけの威力があるもので殺されたってことだね」


「火傷、ですか」


「銃は基本的に弾丸に詰まった火薬を破裂させて弾を飛ばしているからね。零距離で撃てば当然、飛び散った火花の影響を受ける。……即死かな?」


「調べてみます」


 遺体は大河内に任せて、明石はとりあえず小熊がしていたのと同じように他の部屋を回ってみた。


 寝室のベッド脇にあるサイドテーブルにはワインの注がれたグラスが一つ。枕の横には分厚い歴史の本が置かれていた。ここから推測するに、木村は寝る寸前までベッドの上で本を読みながら過ごし、ワインを楽しむのだろう。


 次はリビングへと移動してきたが、綺麗なものだった。これが従業員のおかげなのか木村が綺麗好きだったのかはわからないが、少なくともゴミの類は一つもない。あるのはテーブルの上――リモコンが一つだけだった。テレビ用ではない。凡その予想は着いていたが、電源ボタンを押した。


 すると、流れてきたのは軽快なジャズの曲。明石はリビングから寝室に目を向けた。


 ジャズを聴きながら本を読みワインを飲む。優雅だ。大学教授というのは、そんなにも儲かるものなのかと頭を過ったが、人によりけりでピンキリだろう。


 疑問なのは、どうしてそんな男が銃――のようなもので撃たれるのか、ということだ。どの殺しでも言えることだが、何故その殺し方を選んだのかが重要になる。強い憎しみを抱いているのなら相手の苦しむ顔が見たいはず。そのためには撲殺や絞殺などが望ましいわけだが、それは物理的な力を持っている場合で、力の無い女性などは違う。毒殺やナイフなどで刺殺するのもいい。多少の力は必要になるが背後から急所を狙えば女子供でも相手を殺すことは出来る。


 しかし、今回のは銃殺。いや、銃かどうかも判明していない状況なのだから射殺としておこう。アメリカなど銃が身近にある国ならいざ知らず、日本であり得るのは猟銃の誤射だったり暴力団同士の抗争だったりと状況が限られてくる。


 射殺――つまり、何かを撃ち出して人を殺す道具として考えれば全く存在しないわけでもない。例えばスリングショット。所謂パチンコというやつだが、それでも強力なものなら人を殺すのに十分な威力を持っている。だからこそ注意書きに『人に向けてはいけません』などと書かれているのだ。他にも玩具のガスガンなどを改造しても威力は出る。極論を言ってしまえば、人を撃ち殺すための道具などいくらでも手作りすることは可能ということだ。


 だが、このホテルに泊まっているような者がわざわざ殺しの道具を手製するかどうかといえば些か怪しいところではある。


 明石がリビングの真ん中に佇んで考えていると、大河内が遺体を調べながら口を開いた。


「背中にも穴が開いていますし、体内には何も残っていません。何かはわかりませんが心臓を突き抜けたようです。おそらく、即死の可能性が高いかと」


 いくつかのパターンがある。弾丸が体を突き抜けた場合、血管を傷付ければ出血多量と内出血で死に至るか、出血が少なくとも内臓を傷付ければ体は内側から壊死していく。だが、臓器の中でも傷付けば数秒から数時間で死に至るものもある。肺なら呼吸が止まり、心臓や脳ならほとんどの場合、一瞬で全てが終わる。


「そっか、即死ね」


 噛み締めるように呟き帽子のツバを下げた明石は、遺体の倒れている方向を見て、そちらに向かって歩いていった。


 壁の前で立ち止まると、顎に手を当てて周辺を眺めはじめた。


 その間に遺体を調べていた大河内は傷口を触りながら、ある確認を行っていた。


 左胸にある傷は直径約一センチ。大体その直線上の背中にも同様の傷がある。仰向けに倒れていることを考えれば正面の傷が射入口で、背中側が射出口だろう。何を撃ち、何が体を貫いたのかはわからないが、大河内にとってはもっと大きな不思議があった。


 本物の検死官でない自分がどこまでのことをやっていいのかわからないが、医者として確認せずにはいられなかった。


 立てた人差し指を――傷口へと挿し込んだ。


 奥へ奥へとねじ込んでいき、第二関節まで入れたところで目を瞑ると体の中で指先を動かした。皮膚から脂肪、脂肪から筋肉、肋骨に心臓を感じながら手首を返して全方面を指先で触ると、それでもまだ不思議そうな顔をして首を傾げた。


「……偶然か? いや、だが……ここまで綺麗だとむしろ狙っていなければ難しいような気もする。これが偶然だとしたら――」


 頭に突き刺したメスが運良く脳に当たる直前で止まったようなものだ、と大河内がそんなことを考えていた時、明石は手袋を外した手で壁に触れていた。


 白い壁だからこそ気が付くのに遅れたが、指先にはさらさらとした白い粉が付着した。その粉が付いているのは壁のその部分だけで、他には何もない。視線を落としながらしゃがみ込むと、床にも微量の粉が落ちていた。


 コシコシと指先で粉の感触を確かめているが、それが何なのかはわからない。先程の塩に比べれば圧倒的に滑らかで、形容するのならチョークの粉といったところか。明石は舌先に粉を付けて口の中に入れた。


「……ん?」


 首を傾げると再びその粉を口に含んだ。しかし、それでもわからない。味がしないのだ。強いて言うのなら、それはそのままチョークの粉のような味だ、としか言えないだろう。


「明石さん。質問なんですが……弾丸などが体を貫いたとき、骨に当たらない確率はどれくらいですか?」


 大河内の問い掛けに明石は手に付いた粉を落としながら立ち上がった。


「場所にもよるけど、上半身の胴体部分だけいえば胸骨と臓器を包み込むように肋骨が十二本。確率でいえば五分五分くらいかな」


「それなら体を貫いたが骨に当たらなかったのは偶然ってことですかね」


 納得したように呟いた大河内の言葉に、明石は頬を撫でた。


「……そうは言っても、一切骨に当たっていないってのは珍しいかな。骨の並び方は基本的には一定だけど、外部から受ける衝撃は違う。肋骨を避けるようにナイフの刃を寝かせて刺すことはできるけど、銃で同じことをしようとするともう少し複雑になるんだ。つまり、弾丸が骨に当たらず人体を貫く可能性は――極めて低い」


「じゃあ、これは意図的に?」


「相当腕の良い殺し屋か、偶発的に起きた奇跡でもない限りはね。でも、障害物に当たらなかったのだとしたら弾の威力はそれほど落ちないはず。なのに、その弾が無い」


 ゆるゆる顔を横に振りながら帽子を下げた。


「なんか頓知みたいね。というか、シュレディンガーの猫? 存在しているのに、存在していない。みたいな?」


「少なくとも量子力学よりはシンプルだと思うけどね。メイクは終わった?」


 ドアから入ってきて遺体の前で停まった小熊を見ればサングラスを胸元に挿して、ナチュラルメイクを施した顔を見せていた。


「終わった。それで、話を戻すけれど弾が無いなら犯人が持ち去ったんじゃない?」


「人体を貫通するほどの威力だよ? 壁にめり込んだ弾を取り出せたとしても、その痕は残るでしょ」


 小熊はしゃがみ込むと遺体のポケットに手を入れた。


「……あった。この部屋のカードキーが二枚。何かわかったことはあるの?」


「僕のほうはこれといって。先生は?」


 小熊の正面にしゃがみ込んだ大河内は遺体に触れながら説明を始めた。


「あ、え~っと……ご覧の通り、死因はこの胸の傷です。明石さんが言うには銃で撃たれたわけではないらしいので、おそらく何らかのモノが正面から入り、心臓を突き抜け、背中側から出たものだと思います」


「まぁ、仮に拳銃だったとしたらサイレンサーでも付けてない限りは音で気付かれるだろうしね」


 その発言に明石は思わず振り向いた。


「ん?」


「ん? なに?」


 首を傾げる小熊に、明石は呆れたように握った拳でトントンと壁を叩いた。


「このホテル、全部屋防音だよ? 一泊したのに気が付かなかったの?」


「……いや、普通は気が付かないわよ。それに気にしないわよ、誰も」


 確かに普通の日常生活を過ごすだけなら誰も気にしないだろう。だが、ここには音楽も映画も揃っている。最も簡単に非日常を演出する方法は、普段はできないことをやる、だ。大音量で好きな物を垂れ流すというのが、比較的シンプルなやり方なのだろう。


「まぁ、知っていたかどうかはどっちでもいいよ。でも、もしもこの壁が防音じゃなかったなら氏家さんは殺されていなかっただろうね」


 叫び声を上げたぐらいで助かっていたのなら、間違いなく五人もの死者は出なかったはずだ。


 腕時計で時間を確認した小熊は、立ち上がると垂れ下がっていた前髪を耳に掛けた。


「時間的には微妙だけれど私は話を訊いてくるわね。食事は……戻ってきた時に話しながらでいいわよね。残り時間は?」


「七時間くらいかな」


「一応は、順調なのかしら?」


「まぁ、ね」


 今は三つ目の事件を捜査中。だが、明石が割り出した犯人は一人だけ。微妙なところではあるが互いにそれを口に出さなかったのは信用しているからだ。犯罪を許せない小熊の性分と、謎解きを楽しみたい明石の異常性。その二つを組み合わせると思わぬ化学反応が生まれる。それは本人たちすらも気が付いていないが、知らなくとも問題ではない。


 二人はアイコンタクトを交わすと、明石は帽子を下げて小熊は部屋を出て行った。


 小熊が階段を下りていく途中で、蓋をした大きなプレート二枚を両手で支える田中とすれ違った。会話を交わすわけでもなく、一瞬だけ交わった視線を外すと真っ直ぐに食堂へと向かった。

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