第9話 異常と正常
小熊が三○三号室を出て行った後、苦々しく遺体の顔面を眺めていた大河内は何やら異変に気が付くと、まるで手術中に予想もしていなかった腫瘍を発見したかのような表情をした。
「……どうかした?」
「いえ、もしも殴り殺されたのであれば出血が少ない様な気がします」
そう言われて周りを見回してみると、確かに殴られた拍子に飛び散った肉片は其処彼処にあるが、顔面の状況と血の量は比例していないように思える。
「頭の下は?」
気が付いたように明石が指摘すると、大河内は頭を上げながらその下を覗き込んだ。カーペットの色合いのせいでわかり辛いが、その周辺だけ色が変わっていた。
「あの、ちょっと持っていてもらっていいですか?」
しゃがみ込んだ明石は代わりに頭を掴み慎重に持ち上げると、その間に大河内は後頭部に手を伸ばした。まずは掌で触れ、凹凸を確認した。次に指の腹を使って慎重にその深さと触感を確かめていく。
「……おそらく、これが致命傷ですね。死因は脳挫傷――形状は角があって、それなりに重い物だと思います。もう下ろして大丈夫です」
「つまり、状況が変わったね。正面から殴られたわけじゃなくて、背後から殴られたってことになる」
明石は立ち上がると汚れていない手で帽子のツバを下げた。
「正面から襲われたか、背後から襲われたかで何か変わるんですか?」
「大違いだよ。例えば、僕が貴方を殺そうとしていたとして、貴方がそれに感づいているとしたら――背を向ける?」
「……向けませんね」
血の付いた手袋を広げて脱力した大河内を見て、明石は視線を落とした。
「その手に付いているのは、なに?」
指先に付着した物質が気になった。というのも、見たことがないモノだったからだ。
「ああ、これは後頭葉の一部ですね。つまり、衝撃により頭蓋が砕けて脳まで届いたということです」
脳の一部。見たことが無くて当然だった。
大河内は遺体の服や体を調べ始めた。明石はポケットに手を入れてリビングから遺体を挟み、ドアまでの廊下を一直線に眺めた。
「衝動殺人……死体損壊……過剰暴行……」
呟きながら想像する。
背後からの一発。うつ伏せに倒れたはずの相手をわざわざ仰向けにしてから顔面を殴打。では、背を向けたのはどんな状況だったのか。招き入れた客に対して背を向けるのは普通のこと。ただの訪問者だったとしても相手から殺意を感じなければ背を向けてもおかしくは無い。それとも氏家本人にそんなことを気にする余裕が無かったのか、はたまたその両方かもしれない。
「衝動的だったのなら一撃を入れた時点でその場から逃げてもおかしくは無い。でも、この犯人は駄目押しをするように殴り続けた……怒り?」
例えば、人を殺す時に必ず目を潰す殺人鬼がいたとする。疑問なのはなぜ目を潰すのかということ。その目に映る自分自身が憎いのか、それとも幼少時代に好奇の目に晒された復讐なのか。ともかく、そこには必ず何かしらの理由が存在しているはずなのだ。
今回の場合、顔を潰したということはその表情に何か問題があったのかもしれない。全身をくまなく調べ終わった大河内は静かに息を吐いた。
「首より下に暴行の痕はないですね」
「死亡推定時刻は?」
「専門ではないのであまり断定はできませんが……おそらく深夜一時前後かと」
自信なく答える大河内に、明石は困ったように眉を顰めると顎に手を当てた。
「一時ね。わかり切っていることだから訊かなかったんだけどさ、さっきの溺死体の死亡推定時刻はわからないんだよね?」
「この場では無理だと思います。体が水に浸か ていたことと、それが冷水だったことを考えれば機具と、体温と内臓の温度、あとは硬直具合から逆算しなければいけないので」
「まぁ、そうだよね」
遺体の顔に下げていた視線を徐々に上げていくと、廊下の先――開かれたドアから見える部屋の外を見つめた。
「薄々気が付いてはいたんだけどさ。部屋に入ってすぐのところ。そこに有るはずの花瓶が無いね」
当然、明石の部屋にも大きめの壺型の花瓶が置かれていたし、先程の金山の部屋にも寸胴型の花瓶が置かれていた。
「俺の部屋にもありますけど、それは丸形ですよ? それでは、このような傷はできません」
「だから、部屋によって違うんだろうね。単純に考えれば、ここにあったのは長方形みたいな花瓶かな」
確信こそないものの、やはり凶器として使われた可能性が高いのだろう。自白の次に裁判で最も有効なのは物証なのだが、無断で調べることはできない。
丁度いいところに――というか、こういう時のために田中を一緒に連れてきているのだが、客のプライバシーを守るためならば捜査には協力しないだろう。
「田中さん、訊きたいことが」
顔を覗かせた田中に手招きをすると躊躇うことなく横たわる遺体の目の前までやってきた。
「何でしょうか」
「ズバリと訊くけど、この部屋の花瓶は? もしかして何か知ってる?」
目を細めた田中はゆっくりと頭を下げた。
「処分いたしました」
「いつ? 誰に捨てるよう言われたの?」
「憶えておりません」
「処分ってことは、ただ捨てたってこと? それとも高温で焼いたとか、粉々に跡形も無く粉砕した、とか」
軽く帽子のツバを下げた明石に、田中は変わらぬ能面のままだった。
「明石様、この部屋には始めから花瓶など置かれていませんでした」
見つめ合い――探り合う。
「……お互いに厄介だね。プロ意識ってやつは。でも、こっちも仕事だからさ。はい。そうですかってわけにもいかないんだ。示しも付かないし」
「何を仰られても、私は何も存じませんので」
頑なな意思が、強固なバリケードに覆われているようなものだ。話し合いの余地は無い。
田中は頭を下げると、再び部屋を出てドアの脇に立った。
そのやり取りを聞いていた大河内は怪訝そうな顔をして明石に近付いてきた。
「なんだか……妙ですね」
田中には聞こえないように、小声で言った。
「まぁ、お客様第一だからね。でも、そんな妙な場所を好んで泊まりに来ているんでしょ? 僕も一度は泊まってみたかったから、わからなくはないけどね」
「ですが、人が亡くなっているんですよ? それも、五人も。それ以上に優先されることなど」
「無いよねぇ。それでも、ここは――一種の治外法権なんだろうね。僕の知る限りこのホテルのお得意さんは警察官僚から政治家、果ては裁判官まで。どんなことでも握り潰そうと思えば出来る人ばかりだから――だからこそ、事件の解決よりもプライバシーが優先なんだ」
仮に事件が解決したとしても、そこにプライバシーが無ければこのホテルの経営は難しくなってしまう。そして、それを小熊と明石の二人が理解しているから捜査が難航しているのだ。どちらか一方が、どんなことにでもずかずかと入り込んでいける小説に出てくるような傍若無人な探偵だったのなら、もっと早く事件は解決しているだろう。
遺体を跨いでドアの方からリビングに向かって視線を向ける明石は、コーヒーを一口飲んだ。
「状況と感情が噛み合ってないんだよねぇ」
「衝動的に殺したんじゃないんですか?」
「いや、それは間違っていないと思うよ。だって、初めから殺すつもりだったのならわざわざ処分に困る花瓶を凶器には使っていないだろうし。でも、犯人がこの部屋に訪れて会話をしている途中で殺意を抱いたのだとしたら、ここまで顔を潰す必要はない。先生だってあるでしょ? 目の前に居る人間を殺してやりたいなぁ、って思ったこと」
「……ええ、まぁ」
「ある意味では常識なんだけどさ。嫌なことをされたり言われたりしても、殺してやりたいって思うのは一瞬だけで、大抵の場合は長続きしないんだよね。だから、もしも衝動的に殺したのなら、相手を殴りつけて死んだと思った時点でそれ以上には何もしないはずなんだけど……今回は例外だね」
「何か理由があるんでしょうか?」
「可能性としては、犯人のほうにフラストレーションが溜まっていて、弾けたのが偶々ここだったってだけかも」
「運が悪かった、と」
「人殺しに運は関係ない、って、ミーシャなら言うだろうね」
まるで自分は違う、と言わんばかりな言い方だったがそれ以上に口を開くことはしなかった。明石は踵を返すと、ドアから外に覗き込んで左右を確認すると田中と目が合った。しかし、特に何かを話すわけでもなく視線を外すと、再び部屋の中に戻り、今度はすぐ右側にあるウォークインクローゼットの扉を開けて、明かりを点けた。
中には服が掛かっているのと、靴箱の前には長靴と大きめのクーラーボックスが置かれていた。奥へ進むと、ジャケットの横に掛かっていた釣り用のベストを見つけた。ベストを取り出してみると、その先に釣竿が立て掛けられていた。
「釣り好きね。想像していた人物像とは違うけど悪くない趣味だね」
独り言のように呟くと、靴箱の前でしゃがみ込んだ。クーラーボックスの蓋を開こうとしたとき、背後に人の気配を感じて手を止めた。
「ああ、そういえば氏家さんと小畑さんが釣り仲間だって言っていたわね」
「……そう。小畑さんもなんだ」
壁に寄り掛かるようにして見下ろしてくる小熊を気にすることなく、明石は蓋を開いた――中身は空っぽ。
「随分大きなクーラーボックスね。そんなに大物が釣れるのかしら」
「時期にもよるけど、渓流なら大物で六十センチが良いところじゃないかな」
言いながら、その中に手を入れて四隅を確かめるように指先を動かした。違和感に気が付き、手を上げて指先を擦り合わせるとザラザラとした触感がした。
「なに?」
「わからない。においは――しない」
そう言うと出した舌に指先を付けた。
「……しょっぱい? 塩かな」
「クーラーボっクスに塩? 何の意味があって?」
明石は帽子のツバを下げながら立ち上がった。
「さぁね。それで、そっちは収穫有ったの? 動機があるような人は居た?」
「居たと言えば居たわね」
「誰?」
「宿泊客、全員」
話ながらリビングまで移動してきた小熊と明石は、ソファーに腰を下ろした。後ろから付いてきた大河内はソファーに座ることなく、小熊の背後に立った。
「全員ね。まぁ、可能性としては考えていたんだけど……実際にそうなると困るよね」
「相当口が悪かったらしいわよ。話を聞いた限りでは、私なら殴ってるわね。グーで」
仮にも市民の安全を守るはずの警察官がその市民を殴りたくなるほどとは、余程のことだろう。
「でも、その中で怪しい人が居るんでしょ? なんでかミーシャのそういう勘って当たるんだよね」
「誰が怪しいって言ったら全員なんだけれど、隠し事をしているって感じたのは二人いたわね。小畑さんと海老原さん」
「大学准教授と元陸上選手か。体格的には今回の犯行は可能だけどね」
腑に落ちていないような言い方をして背凭れに体を預けた。
プライバシーしかないこのホテルでは一つのアリバイすら証明されない。誰かが誰かを目撃していたとしても面倒事を嫌って証言しないし、従業員も口を閉ざしている。裏を返せば誰にでも犯行が可能だったとも言えるのだ。勘だけで犯人扱いすることはできない。
小熊と明石が互いに頭の中で思考を始めた時、大河内が静かに手を上げた。
「あの、いいですか?」
「大河内さん。どうしました?」
「一応、検死官としての意見なのですが……おそらく氏家さんは顔を花瓶で殴られたのだと思うですが、倒れている人の顔を殴る時は馬乗りになりますよね? この部屋の状況からすると、その血と肉片は衣服にも付着したのではないでしょうか」
その発言に明石は唸りながら帽子を下げて、小熊は天井を仰ぎながらサングラスを整えたが、大河内にはその反応の理由がわからない。
「あの……何か間違ったことを言いましたか?」
「いや、間違っては無いんだけどね」
「誰も許可してくれないと思いますよ。今は何とか話を聞けていますけど、機嫌を損ねたらどうなるのか――目に見えています」
「全員が一か所に集まっているのなら田中さんのマスターキーでどの部屋にでも入れますよね?」
「大先生さぁ、さっきの会話聞いてなかったの? 田中さんは死人の部屋だから僕らを入れているのであって、他の人の部屋には入れてくれないよ。生きている限りはね」
先程の田中との問答から考えれば間違いない。
小熊は目の前にあったファイルの全てのページを流し見ると数ページ戻って、そ
こに載っていた数字を明石に見せた。
「わかる?」
「……税務記録だね。これがどうかした?」
「噛み合ってないでしょ?」
「うん。でも、こんなのどこの企業でもやってるんじゃない? 誰だって税金は少なくしたいからね」
「へぇ、そんなものなの?」
「税金対策? まぁミーシャは公務員だしね。それに元一課だし。知らないのも無理ないよ」
捜査一課が基本的に強行犯といわれる殺人や強盗の捜査を行うのに対して、捜査二課は知能犯といわれる詐欺や横領、脱税などの事件を扱っている。刑事部という庭は同じだが畑が違うのだ、扱う物も当然変わってくる。
納得した様子の小熊は渡されたファイルを閉じて、元あった場所に置き直した。その姿を見ていた明石は、顎に手を当てた。
「そのファイルって、A4サイズだよね?」
「ええ、でしょうね」
半ば投げやりな返答だったが、逆に明石は覆った手の下で笑みを浮かべた。
「そっか。A4かぁ……ねぇ、先生。冷蔵庫の中に何か食べ物が無いか見てくれない?」
「え、あ、はい。わかりました」
ポッドやコーヒーカップなどの下にある腰の高さくらいの小さな冷蔵庫を開きながら大河内は呟いた。
「多分、何かを保存している人は少ないと思いますよ? 入れておかなくとも電話一本で持ってきてくれますし、俺の部屋も田中さんに持ってきてもらった酒と氷くらいしか入れていません。……やっぱり、何も入っていません」
中を見せるように体を避けると、明石は自分だけがわかるくらいに小さく頷いた。
「氷も入ってない?」
「冷凍庫ですね……はい、入っていません」
何のための確認なのかわかっていない小熊と大河内を余所に、明石は二人に笑顔を向けた。
「なに? その顔。ムカつくんだけど」
「いやいや、お腹空いたなぁ、と思ってね。どう?」
「そうね。確かにお腹は空いてる。でも、あんたがそういう顔をするってことは何かわかったんでしょ? なに、動機? 犯人?」
「一応どっちも。でも、まだ教えないよ。だって五人死んでいるうちの一人しかわかっていないんだからさ。どこかで辻褄が合わなくなるかもしれないし、ね」
親指を立てる明石に、小熊は怪訝な表情を向ける。
「……それだけ?」
「やっぱり、最後に一網打尽にしたほうがかっこよくない?」
「よくない。でも……まぁ、いいわ。あんたに任せる」
目の前で繰り広げられる会話に、大河内は違和感を覚えた。
すぐ隣には横たわる死体があり、協力的でない宿泊者たち。どう考えても捜査は難航しているはずなのに、どうしてか――女と男は楽しげに話している。大河内自身、難しい手術を行う時にゲームのような感覚で執刀することがあった。だが、それは攻略法を見つけてミスをしないよう確実に熟すためのものであるが、これは違う。まるで、殺人事件を楽しんでいるかのような異質感、異物感。体がその場の空気を吸うことを拒むように息苦しくなり、胃液が咽頭を通り、口の中に苦い液体の味が広がっていく。
「じゃあ、次の遺体の捜査をしながら朝食兼昼食にしようか」
「そうね。大河内さんはどうします?」
「え……あ、俺は大丈夫ですので。田中さんを呼んできます」
一刻も早くこの場から去るため足早に遺体の横を通り抜け、部屋を出た。
「田中さん、お二人が呼んでいます」
「畏まりました」
田中は気分の悪そうな大河内に気が付いたが、それに触れることなく部屋の中に入っていった。
大河内は廊下の壁に背を付けて、掌で口元を覆ったまま大きく深呼吸を繰り返した。
「……落ち着け。こんなの……初めての手術に比べたら――」
今よりも悪い記憶を呼び覚まし、目を瞑りながら顎を上げ、喉の鳴らした。二人のように笑えはしないが、医者としての仕事を頼まれた以上は断れない。
脳外科医・大河内了は、頼まれた手術を絶対に断らないのだ。
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