第四章 ブラウン・ノーズ

第8話 嫌な事情と書かない情事

 三○三号室に入った大河内は目の前の光景に足を止めた。


 人間が自分の理解が及ばぬ状況に陥ったとき行動は何か? 答えは思考停止だ。大河内は脳外科医で本人が言っていた通り死体は専門ではない。だが、先刻の明石とのやり取りでもわかるように知識は豊富にあるようで即席の検死官としては十分な腕をしている。しかし、普段は難しい手術ばかりをしていて、そのほとんどを成功させているため、死体を拝むことは少ない。先程の溺死体とは違う。傷の無い遺体と違う。目の前には――圧倒的な殺意で殺されたであろう死体が仰向けに横たわっていた。


 最初にこの遺体を見た小熊と明石は過剰な反応をすることもなく淡々と話を進めていたが大河内には無理だった。


 何故なら、その遺体には――顔が無かったから。


「ん? どうしました? 大河内さん」


 遺体の横で振り返った小熊はコーヒーを一口飲むと、佇む大河内に対して不思議そうに首を傾げた。


「あ、いえ……あの、ちょっと慣れていないもので」


 正直なことを言ったのだが、それでも小熊はその言葉が理解できないような顔で大河内を見ていた。その場に固まり、一歩も動けずにいたが後ろから遅れてやってきた明石に押されるような形で、自らの意思とは関係なく遺体の前に立たされた。


 明石は遺体の横でしゃがみ込むと、原形を留めていない顔を見下ろしながら口を開いた。


「そもそもさ、これが氏家って人なのは確かなの? 判別つかなくない?」


 田中が言っていたのだから間違いなのかもしれないが、明石と小熊にはその意見すら信用していいものかわからない。だから、もしかしなくともそれは生前の氏家を知っていて、且つ医師である大河内に向けられた言葉なのは明らかだった。


「……ええ、間違いないと思います。氏家さんです」


「その根拠は?」


「顔は――判断が難しいところですが、運良く頭蓋骨は無事なのでわかります。その形は氏家さんです」


「個々人の頭の形がわかるんですか? 髪で覆われていたとしても?」


「今の仕事に就いてから、ですけれど。仕事以外では生かせない特技ですね」


 付け加えるのならば、つい他人の頭を見てしまうのは職業病だろう。


 大河内は明石の正面にくるように遺体の横でしゃがみ込んで、両手で頭蓋骨を掴んだ。


「これは……これ、いったいどうやったらこんな風になるんでしょうか」


「それはほら、今は貴方が検死官なんだから。どういう状況か説明して」


「……外的要因により、眼球は両目ともに潰れています。鼻骨は折れて頭蓋の内側に。剥がれている表皮はおそらく……この、周りに飛び散っている血肉がその一部と思われます。剥き出しの歯茎に歯が残っていないのは、何か鈍器のような物で殴られた時に折れて口の中に入った可能性が高い、です」


「要はぐちゃぐちゃ、ってことだね。ミーシャ、こういう死体を見たことは?」


 リビングのテーブルに置かれていたハードカバーのファイルの中身を確認していた小熊は、額にまで上げていたサングラスを戻して振り返った。


「あるわよ。遺体に過剰な暴行を加えるのは憎悪殺人の特徴でもあるわね」


「これもそうだと思う?」


「可能性はあるわ、でも、いったい――こんなホテルでどんな恨みを買うのかしら」


 言いながら開けた引き出しの中にはイタリア映画が数本入っていた。


「人が人を殺す理由なんて些細なものだよ。他人にとっては、大抵ね」


 ただ肩が触れ合ったから、という理由だけでも人は人を殺すのだ。それなら、他のどんな理由でも十分に有り得る。


 笑顔で言った明石は帽子のツバを下げて立ち上がった。その時、入れ替わるようにすれ違った小熊はドアの前で振り返った。


「じゃあ、私はまた話を聞きに行ってくるから。他殺なのはわかっているし、多分この場に残っている物で犯人を特定するのは無理だろうけれど、任せたわよ?」


「まぁ、これは衝動殺人だろうから僕の専門外だけど。任されたよ」


 部屋を出た小熊は田中を一瞥すると、何も言わずに階段を下りて行った。


 二階から一階へと向かう階段の途中で立ち止まると、静かに視線を上に向けた。小声で話せば田中には聞こえない位置で携帯を取り出すと、電話を掛け始めた。


「……もしもし? ええ、そう。調べてほしいことがあるの。違うわ、人よ。全部で十人」


 おそらく、この山奥のホテルで電話が繋がることは幸運だっただろう。


 小熊の電話の相手はさて置いて、十人とは――死亡した五名と、生きている五名の宿泊客のこと。要は、敵を知り己を知れば百戦危うからず、といったところだ。人伝の印象だけでなく警察という立場を利用して情報集を行い、その上で人柄や、今回の事件の動機を探る。小熊の場合、半分は勘頼りのみたいなところもあるのだが、経験からくる刑事の勘だ。信用するには十分過ぎる。


「そうね……一時間で調べて報告して――こっちはそれなりに切羽詰まってんのよ。あ、それとこのこと他の誰かに漏らしたら、漏れなくあんたの首も飛ぶからね。じゃあ、よろしく」


 そう言うと明らかに向こう側の話が終わっていないのにも関わらず電話を切った。そして、小さく溜息を吐いた。切羽詰まっているのは事実。制限時間があるにも関わらず、今このホテルで捜査に協力的なのは小熊を含めても明石と大河内の合わせて三人だけ。それ以外の者達は厄介事さえ避けられればいいと思っている節がある。


 だが、この場に限ったことではない。事件の関係者が協力的でないことなど小熊にとってはザラなのだ。つまり、やるこは普段とあまり変わりがない。


 食堂に入ると、まずは入口の前に立っている佐藤を間仕切りカーテンのほうまで行かせた。笹川と山内は朝食後のコーヒーを飲み、今度は海老原が皿に盛られたサラダを食べていた。小畑に関しては変化なし。本を読んでいるままだ。


「さて、二回目です。次は氏家さんについて教えてください。おそらくこの場に居る中で一番関係が深かったのは小畑さんですよね? どんな方でしたか?」


 すると本から視線を上げて、天井を見上げた。


「……簡単に言うなれば、気長な毒舌、といったところですかな」


 釣り好きならば気が長いのは予想が着いていたこと。いや、むしろ気の短い人物に釣りは向かないだろう。


 小熊は手帳を取り出して、メモを始めた。


「気の長い毒舌――その毒舌というのは例えばどのような?」


「どのような? って、何を言われたかってことかい? そんなのほとんど憶えていないけれど」


「でしたら、その時の感情は憶えていませんか? 言い返したくなったとか、殴りたくなったとか」


 含みのある言い方をした小熊に、それが気に食わなかったのか笹川が鼻で笑って見せた。


「殺したくなったか、って?」


「いえ、何もそこまでは……なったんですか?」


「いやなに。殺したいとまでは思っていないが、少なからず頭に来る発言をしたのは確かだな。俺の場合は職業柄言い返すことができないもので。まぁ……違うところで発散はしたがな」


 小熊のペンは動かない。下品な発言だったからというのもあるが、文字に起こした時点で一つの証言として残ることになってしまう。国会議員のスキャンダラスな一面をいち警察官が暴露するわけにはいかない。


 他には何か無いかと、サングラス越しに見回すが全員口を閉ざしている。だが、思い出したように笹川が口を開いた。


「そういや、海老原くんも何か言われていなかったっけか? たしか……三流選手の都落ち、だったか?」


 その瞬間に不穏な空気が漂い、海老原は握っていたフォークをくの字に曲げた。そこから感じ取れるのは、おそらく氏家がその発言をしたときこの場に居る者のほとんどが同じ場所にいたからだろう。


 海老原は静かに曲がったフォークを皿の上に置くと、あからさまに作った笑顔を笹川に向けた。


「いやいや、あんたほどじゃないと思うけど? だって『税金の使い道は、精力剤とコンドームか』って言われていましたよね? ああ、それに『一人前なのは性欲だけか? 議員としは半人前なのに』とも言われていましたっけ?」


「ふん――常に国のことを考えている俺たちの苦労をお前等に知ってもらおうとは思わない。なんたって、こっちは国民に選ばれたわけだからな」


 このままいけば喧嘩に発展しそうな雰囲気だったが、互いに大人としての自制心が働いたのだろう。睨み合ったが、立ち上がるまでは行かずに山内が横に座る笹川の腕を掴んで落ち着かせ、事なきを得た。


「……あ、終わりました? まぁ今のやり取りで氏家さんが大体どんな人なのかはわかりました。では、その暴言を吐かれたというのはお二人だけですか? 他の人は何も?」


 一人一人の顔を確認していったが、誰とも目が合わずに口を開こうとしない。小熊は過去にもこういう経験があった。俯きがちに口を噤み、そわそわと視線だけで辺りを窺うのは自分自身に覚えがあり、その上で発言をすれば疑われる――だから、誰かが言えば便乗し、言わないのであれば黙っておこうという腹積もりなのだ。


「刑事さん。このホテルに泊まっていた全員――当然従業員は除きますが、それ以外の全員は氏家さんから一言二言、何かしらを言われているんですよ。それこそ一発ぶん殴ってやりたいほどね」


 答えたのは小畑だったが、それを聞いた者達は安心したように肩を落として静かに頷いていた。


 まだ大河内の検死結果で出ていない以上確定ではないが、小熊の見立てでは氏家は撲殺。だが、この場に居る者でそれを知っている者は犯人以外には居ないはず。つまり、殴りたいほどの暴言を吐かれ、自制が利かなくなったのだとしたらその者が犯人の可能性は高い。


 しかし、その上で発言をした小畑と従業員以外の四人が四人ともに安心したような表情をしたのは腑に落ちない。本来ならば殺害方法が知られた時点で焦るはず。その反応が無かった理由を考えるとすれば、衝動殺人ではなく計画殺人であったか――それとも、殺したことを正しいと思っているか、だ。


 罪悪感なく人を殺すというのは、言葉で言うほど容易いものではない。そうなるために必要なのは、途方もない殺意と間違った使命感。どちらにしろ判断するには氏家との関係性を知る他にない。


「皆さん、面倒だとは思いますが氏家さんとした会話を思い出してください。どんな些細なことでも構いませんし、先程のお二人のように小耳に挟んだことでも構いません。とにかく、氏家さんについて知っていることを教えてください」


 小熊の口調が穏やかなのは、まだ犯人がわからないからだ。目の前にいるのは容疑者でもあるが、協力者でもあり情報提供者でもある。今は――まだ。

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