第7話 殺意のバランス

 サングラスを掛けたままの小熊は食堂へと向かう道中、二階から三階へと下りる階段の中ほどで脚を止めた。


「あ~あ、全く」


 自分自身に嫌気が差したように額に手を当て項垂れた。


 犯罪の現場を、まさか元犯罪者に任せてしまうとは――ということだ。口ではあれだけ否定していても約一年もの間、同じ部屋に籠って古い事件の捜査をしてきたのだ。情が移ったのか……心を許しているわけではないが油断し過ぎだろう。と自分に呆れていた。しかし、だからといって戻ることはできない。小熊には小熊のやるべきことがある。


 一階に着いた小熊は食堂へと足を踏み入れようとすると、出入り口の前には、まだ一度も言葉を交わしていない従業員が背を向けて立っていた。


「あの」


 声を掛けた瞬間、横に避けながら振り向いた。


「小熊様、ご挨拶が遅れました。コンシェルジュの佐藤と申します。以後お見知りおきを」


「佐藤さん、どうも。これから従業員を含む皆さんに話を聞きたいので、鈴木さんと同じ場所に居てもらえますか?」


「畏まりました」


 厨房と食堂を隔てる間仕切りカーテンの前に居る鈴木の下へと向かう佐藤を目で追いながら、他の客に視線を向けた。


 消去法からすでに全員の名前はわかっている。国会議員の笹川は秘書の山内と同じテ―ブルで朝食を取っており、大学准教授の小畑は本を読みながらコーヒーを飲んでいる。海老原に関しては椅子を使って腹筋運動を繰り返して体を鍛えているのが見える。


 おそらく、これは誰が見ても異様な光景に感じるだろう。同じホテルに泊まっていた者が殺されたかもしれないのに、普通に会話をしながら食事を取り、優雅に本を読みながらコーヒーを啜り、することが無いからといって体を鍛えている。こんな姿を見せられてはやはり全員を疑わざるを得ない。


 小熊は全員が見通せる場所に立ち、椅子の背凭れに軽く腰掛けると懐から手帳を取り出した。


「これから皆さんに昨夜のアリバイを聞いていきます。嘘偽りなく答えてください。順番は――三階の一号室の方からお願いします。この場に居ない人は飛ばして結構です」


 すると、小畑は本を閉じてわざと音を立てるようにテ―ブルの上に置いた。


「昨夜のアリバイってことは、なにかい? 死亡推定時刻はすでに特定されたってことでいいのかな?」


「いえ、まだ明確なのは何とも。なので、昨夜といっても夜の二十二時から今朝に掛けて、どこで何をしていたのかを教えてください。あ、始めに部屋番号と名前をお願いします」


 海老原は腹筋運動を止めて椅子に座り直し、鈴木は厨房のほうに顔を入れると何かを言い、中からシェフとスーシェフが出てきた。


「では、まずは私からだね。三○二号室の小畑弘明。昨日は二十時頃からずっと部屋で本を読んでいたよ。食事も部屋まで運んできてもらって食べた。寝たのは大体……一時過ぎくらいかな」


「本を読んでいた、と。食事を部屋で取るのはいつもですか?」


「いや、日によって違うね。昨日は静かに本を読みながら食べたかったからお願いしたんだ」


 手帳にメモを取った小熊は、視線を鈴木と佐藤のほうへ向けた。


「事実ですか?」


「はい。給仕したのは田中ですが、事実です」


 答えたのは佐藤だった。鈴木は食堂で動き回っていたのだから知らなかった可能性もある。 三人しかいないことを考えれば、これで昨夜の役割は判明した。佐藤が電話番で鈴木が食堂での給仕、田中はそれ以外の全てだ。


「わかりました。では、次の方お願いします」


「え~っと、二、三、四……あ、俺か。三○五室。海老原幾治。昨日会ったよな? メシを食い終わって部屋に戻ったのが二十二時くらいで、それから部屋で小一時間くらい筋トレをして――そんで風呂に入ってストレッチして、寝たのが零時前くらいだな」


「零時前……それからは一歩も部屋を出ていないんですか?」


「だな。現役時代に比べればやっぱ寝るのは遅くなってはいるが、それでも体のために早めに寝るのを心掛けているから」


 昨夜の夕食は鶏のささ身料理と卵料理。そして、その体を見れば体に気を使っているのはよくわかる。


「それでは、次の方」


 そう言うと何故か沈黙が流れた。


「ん? 三○六は?」


「大河内様です」


「あ、そうですか。じゃあ――」


 残っているのは笹川と山内――国会議員と秘書。小熊は察したようにサングラスを整えた。内心、こんなにもわかりやすい部屋割りとは思ってもいなかったのだ。


「ああ、俺たちか。二○二号室の笹川と、山内だ。昨日は一歩も外に出てない。メシは三食とも部屋に運んでもらったよ」


「出てない? では、部屋で何を?」


 素朴な疑問をぶつけただけだったが、途端に笹川の顔は崩れて声を出して笑い始めた。


「おいおい! それくらい察してくれよ! 男と女が同じ部屋でやることなんか一つしかないだろう!」


 大方の予想が付いていた小熊にとってはただ確認のつもりだったのだが、どうやら笹川はツボに入ったらしい。そんな姿を見つつも、小熊は違和感に気が付いた。死体は五つある。だが、ここには六部屋あるうちの三人が居る。つまり、五人中二人は同じ部屋で死んだことになる。


 見下すように笑う笹川を無視して、従業員に視線を向けた。


「では、従業員の皆さんはどうですか? どこに居ましたか?」


 それぞれが顔を見合わせて確認するように頷くと鈴木が一歩前に出てきた。


「それでは私、鈴木のほうから。私を含むコンシェルジュの田中、鈴木、佐藤の三名は食堂を出て左側にある従業員スペースにて交代でお客様からの電話と出入口の確認。及び待機をしておりました」


「じゃあ、三人ともが同じ部屋に居たんですね」


「当然、お手洗いに行ったり、三人のうち誰かが寝ていたりはしましたが、その通りです」


「……なるほど。では、後ろのお二人は?」


「どうも。シェフの日下部と申します」


「私はスーシェフの坂上です」


 その二人の名前を聞いたのは初めてだった。手帳にメモを取り、顔を上げると口を開いたのは女性の坂上の方だった。


「私とシェフは深夜零時くらいに食器などの片付けを終えて、従業員スペースの奥にある部屋で寝ました。その後、私は朝の五時に起きて料理の下準備を始めて、シェフは六時……三十分くらいから厨房に入りました」


 一人が答えてくれるのはわかりやすくて有り難いが、問題はそれが真実かどうか判断しにくいことだ。


「日下部さん、間違いないですか?」


「はい」


 普通に考えて否定するわけはない。ここで意見が食い違ってしまっては一気に容疑者ランキングのトップに躍り出てしまう。誰であろうと自らが関わっていないとなれば、穏便に済まそうとするのが常なのだ。


 問題はここからだ。最も効率的に素直な答えを引き出す問いを考える。


「……では、皆さんにお聞きします。各部屋には二枚のカードキーがありますよね? 他人のスペアキーを持っている人はいますか?」


 そう問い掛けると全員が一斉にポケットの中や懐を調べ始めた。そして、それぞれが取り出したのは部屋番号が書かれたカード。遠目ながらにそれを確認する。


「ん~っと、笹川さんと山内さんがお互いに二○二号室のカードキーを持っているのと、それ以外の方も持っているのは自分の部屋のカードだけですね」


 嘘を吐いている可能性も当然ある。だが、ここで追及しないのは遺体のある四つの部屋を調べればわかるからだ。決定的なことがわかった後に事実を追求した方が真実を引き出しやすい。


 小熊は首を前のめりにし手帳に視線を落としているように見せかけて、サングラス越しに全員の様子を窺っていた。


 コーヒーを一気に飲み干しておかわりを要求する小畑に、厨房に入っていった坂上を気にする日下部。食事の手を止めない笹川に、携帯を弄り出した山内。海老原は汗を流しながらきょろきょろと視線を動かし、コーヒーを淹れて戻ってきた坂上からカップを受け取った鈴木は小畑の席まで行き、カップを置いた。


「では、亡くなった五人の中で、ここに来る以前から知り合いだった人は居ますか?」


 互いが互いを見比べるように視線を交わせる中、小畑が軽く手を上げた。


「私だけだろうね。言ってみれば木村教授は私の上司だ、ここも紹介してもらったし、親しかったつもりだよ。私自身は教授のことを恩師だとも思っている」


「たしか、同じ大学で教鞭を執られているんでしたよね? 何を教えているんですか?」


「歴史学を」


「歴史学って、幅が広いですよね? どこの国とか、どの時代とか細かくあるんですか?」


「時代は多紀に亘りますが、主に西洋史を」


 淡々と答える姿から、それが事実だと判断できる。そもそも無意味な場所で嘘を吐く必要などないのだが、焦っている者ほど意味のないところで嘘を吐いてしまうものなのだ。とはいえ、本当に嘘を吐くのが上手い者は嘘の中に真実を混ぜてくるから、その見極めが難しくなるのだが。


「じゃあ、他の皆さんはここで初めて会った、ということですか?」


 全員が一様に頷いて見せた。


 実はこの場に全員を集めて同時に話を聞くということにも意味がある。本来ならば一人ずつ別室に呼んで個別に話を聞くべきだが、他にも大勢いるということはそれだけで答えた人以外は全員が証人という状況になる。大衆の前で嘘を吐くというのは思いの外に憚られるものなのだ。


「はい……大体わかりました。では、これから――おそらく何度か繰り返すことになりすが被害者のことを聞きたいと思います。まずは金山裕也さんについて何か知っていることはありますか?」


「税理士」


「ええ、それは知っています」


 海老原の発言を軽く流して、視線を他の人へと向けた。


「じゃあ、氏家さんの紹介でホテルの客になったことは知っているかな? それと彼は氏家さんの会社の税理を担当していた」


 その情報提供は小畑からだった。


「小畑さんはどうしてそのことを知っているんですか?」


「近くに釣りが出来る渓流があるのは知っているかな? 私と氏家さんは昼間にそこで釣りをしていて、その時に話を聞いたんだ。ただの世間話だよ」


「では、その氏家さんと金山さんの関係はどうでしたか?」


 それこそ簡単に情報が出てくるものだと思っていたが、誰も答えようとせず口を噤んで首を傾げた。


「……なんですか?」


 関係性がわからない小熊にとっては、そう問い掛ける以外に無い。すると、笹川が面倒臭そうに口を開いた。


「全員知らないんだよ。そもそも、ここに来ている奴らは全員他人に興味が無いんだ。それこそ同じ趣味があって世間話でもするようにならなければ何も知らないままでいたはずだ」


「つまり、二人が話している姿とかも見ていないんですか?」


 記憶を辿るようにそれぞれが考える姿勢を取るが、一向に応えは返ってこない。小熊はじれったくなり鈴木と佐藤に視線を向けた。


「お二人なら何か知っているんじゃないですか? 仲が良かったとか、悪かったとか」


「申し訳ございません、小熊様。お客様のことに関して、私共が応えられることは何一つありません」


 プロ意識なのだろう。間違いなく田中の指導によるものだとわかるが、おそらくそれは医師の守秘義務レベルに徹底されている。突き崩すことは難しいはずだ。


「死人に口無しね。それなら、この一週間で金山さんが部屋を出たことはあった? それくらいなら答えられるでしょ?」


「……おそらく数回はございました」


「数回ね。つまりは、一週間のうちほとんどは部屋に籠っていたってことでいい?」


 佐藤は目を瞑り、鈴木も無言のまま頭を下げた。確かにそれなら何も言っていない。守秘義務は間違いなく果たされた。


 メモを取り終えた小熊はサングラスを整えながら、椅子の背凭れから立ち上がった。


「今の段階で知りたいことは知れました。これから少なくとも、あと三回は同じような問答をすると思うのでよろしくお願いします。それと――鈴木さん。ちょっといいですか?」


 呼び掛けると、足音なく足早に近寄ってきた。


「なんでしょうか?」


「コーヒーを二杯貰いたいんですけどいいですか? 一つは濃い目。もう一つは砂糖多めで。今、想像しているよりも多めでお願いします」


「畏まりました」


 厨房のほうへと戻っていきながら何か手でサインを出すと佐藤と坂上がカーテンの中に入り、少し遅れて日下部も中に戻っていった。


 待つこと凡そ三分。コーヒーカップではなく、持ち歩きやすいよう蓋つきの保温容器に淹れたコーヒーを持ってきた。


「こちらが濃い目で、こちらが砂糖多めです。お間違いないように」


「ありがとうございます。では、あとのことはよろしくお願いします」


 軽く頭を下げた小熊は食堂を出て行った。


 コーヒーを飲みながら階段を上がる小熊は思考を巡らせる。


 現在は捜査一課別班という現場からは離れた仕事をしている小熊だが、肩書きは警部補――要は刑事なのだ。容疑者の嘘を見抜くのはそれなりに容易いことだが、それを踏まえた上で大きな疑問がある。


 それは何故で、どうしてだったのかということ。仮に犯人が五人いたとして、その五人が示し合わせて犯行に及んだのなら、たとえ犯人がわかったとしても、それを証明するだけの証拠を残すようなマネはしないだろう。だが、手を組んで犯行に及んだとするのなら、それはそれで問題がある。


 これが計画殺人や交換殺人だとするのならば、感情として――殺意のバランスが合わないのだ。一つの殺人に関わる人数が多ければ多いほど、その足並みを揃えるのは難しくなる。


 小熊はコーヒーを持ったまま人差し指を立ててサングラスを整えた。


「小熊様」


 開いたドアの前に立つ田中は小熊に気が付くと、ゆっくりと頭を下げた。


「田中さん、二人はまだ中に?」


「はい。居られます」


 中に入り風呂場まで行くと、そこにはまだ遺体の前でしゃがみ込む大河内と、洗面台の前で置かれていた服を弄る明石が居た。小熊に気が付く様子は無い。


「……そっちの首尾はどう?」


「ん、ああミーシャ。あまり良くないかもね」


 振り向いてそう言った明石は畳まれていたズボンのポケットの中から二枚のカードキーを取り出して見せた。カードには三○四号室の番号が書かれており、つまりは誰かが無断で侵入することが出来なかったことを意味している。


「なるほど。確かに、他殺だとしたら厄介ね」」


「うん。っていうか他殺なんだけどね。確実に」


「その理由は?」


 言いながらコーヒーを手渡した。


「ありがとう。気が利くね。ほら、死体を見て。体に傷が無いでしょ? だから、無理矢理湯船に沈められたわけじゃないのがわかる。状況から判断するに、この人は浴槽に入った時点では意識が無かったんだと思う。そこに頭まで浸かるほどの水を流し込まれたってこと」


「……言っていることが矛盾しているんじゃない? 意識が無かったとしても鼻や口から水が入ってきたらわかるでしょ。苦しいんだから」


「それについては大先生が」


 掌を向けられた大河内はハッ、と顔を上げて小熊を見上げた。


「はい。仮に泥酔していたとしても気が付くと思います。目が覚めた時はパニックになりますが、別に深い場所ではないので助かるかと」


「ほら」


「だから、これはアリバイトリックだと思うんだよね。仕掛けをしておけば、勝手に水が溜まってそれから死んでいく。でも、ただ眠らせて浴槽に寝かせたんじゃ意味が無い。あるとすれば薬――筋弛緩剤の類だね。だとしても体には注射痕が見つからない」


「なんの説明にもなっていない気がするのは私だけかしら? それなら正式な検死解剖をすればわかるんじゃない?」


「このホテルに泊まっている人がそんなことをわかっていないと思う? つまり、僕が言いたいのはさ、他殺なのは確かだし、眠らせたのも間違いない。でも、その方法がまだわからないってこと、情報が足りないんだよね。単純に」


 明石の溜息と同調するように、小熊は口を開いた。


「それはこっちも同じことよ。その金山さんって、この一週間ほとんど部屋に籠っていたみたいなの。唯一得られた情報は、彼が氏家さんの会社の税理を担当していて、その氏家さんにこのホテルを紹介された、ってことくらいね」


 それを聞いた明石はコーヒーを一口飲むと帽子のツバを下げて洗面台に寄り掛かり、顎に手を当てた。その横で小熊は、服の上に置かれていたカードキーを手に取って、浴室から顔を出し、入口のドアを見た。すると――気が付いた。


「なるほど。そういうことね。もしも犯人が居たとして、カードキーを分けていたか、盗んだのか、どちらにしても明石の言った方法なら自分で持っている必要はないし、招き入れるくらいに親しかったのなら、そもそもカードは必要ない。部屋に居たかどうかの確認はできないけれど、それでも死亡推定時刻に現場に残るようなことはしなかった。……小賢しいわね」


 怒りを露わにした瞬間、文字通り額に青筋が立ったが零れ落ちたコーヒーが手の甲を伝って落ちた時、平常心に戻った。


「ミーシャ、それなら次はその氏家さんの部屋に行こう。紹介したくらいの間柄なら親しかったんだろうし、何かわかるかも」


「そうね。それじゃあ大河内さんも一緒に。いいですか?」


「はい。もちろん」


 拒否権が無いのはわかり切っている。それでも確認を取ったのは公務員としての義務があるからだ。


「田中さん、次は氏家さんの部屋に行きます」


「畏まりました」


 小熊の言った通り、死体に口無しだ。


 一人浴室に残っていた明石は、コーヒーを一口飲むと静かに息を吐いた。


「ふぅ――ハハッ。うん……いいね」


 楽しくて楽しくて堪らない。そんな笑顔だった。


 事件が起きたのは偶然にも刑事の小熊と警察アドバイザーである明石がいた時だった。もしも、これが本当に偶然ならば出来過ぎだ。


 故に一抹の不安は拭え切れない。


 不吉をもたらしたのは――明石ではないのか、という不安が。

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