第三章 レッド・テープ

第6話 五つの死体

 繰り返し響くインターホンの音に、寝た時と寸分違わぬ姿勢だった明石は目を覚ました。中折れ帽を被りベストを整えた明石がドアを開けると、そこには焦った様子の田中が立っていた。


「田中さん? どうしました?」


「明石様、おはようございます。申し訳ございません、こんな朝早くに。しかし、急を要する事態のためご容赦頂きたく存じます」


 携帯で時間を確認してみれば朝の八時。それほど早い時間とはいえないが、骨休めとしてホテルと訪れている者にとってはこの時間でも早起きなのだろう。


「急を要する? だったらミーシャ――小熊刑事は?」


「それが先程から呼びかけているのですが、返事が無いのです。マスターキーで入ろうかと思いましたが、それよりも先に明石様に意見を求めた方がよろしいかと」


「じゃあ、起こそうか」


 表情こそ変えない田中だが、困 ているのが雰囲気で感じ取れた。明石はポケットの中にカードキーがあるのを確認して六号室の前に立つとインターホンを押した。そして間髪入れずにもう一度、間を置かずにもう一度。そして三度、もう一度。最早ノイローゼになるのではないかというくらい連続でボタンを押していると、それから約二分後にドアノブが動いた。


「……はい」


 僅かに開いたドアの隙間から気怠い声を出しながら顔を出したのは、長い髪を纏めずにサングラスを掛けた小熊だった。


「ん、明石……それに田中さんも? どうしたんですか?」


「急用だってさ。田中さんが」


 すると小熊はドアを全開にして壁に寄り掛かるようにして立つと、深々と頭を下げた田中は、静かに話し始めた。


「当ホテルでは長くご利用なさっている方々にマスターキー使用の許可をいただいております。そして、本日早朝、凡そ三十分ほど前ではありますが、いつもならば起きているはずの氏家様の様子を窺うためお部屋の中へと確認に入ったところ――遺体を発見いたしました」


「わぉ、それは驚きだね」


 小熊から見えないように薄く笑みを浮かべた明石に、田中が一瞬だけ視線を向けた。


「いえ、話はまだ終わっていません。その後、他のお客様の安全を確かめに向かったのですが――全部で五名の遺体を発見いたしました」


「……あ~」


 それには明石も言葉が出なかった。一人でも驚きなのに五人ともなると、なんと言っていいのかわからない。小熊は眉間に皺を寄せてこめかみに手を当てると、ゆっくりと息を吐いた。


「それならまずは遺体を確認しに行きましょう。話はそれからよ。でも――その前にちょっと待っていてくれる? 五分くらい」


 そう言うと、返事を待つことなくドアを閉めた。




 待つこと五分。


 スーツを着込んで髪をヘアクリップで纏め、サングラスをした小熊が部屋から出てきた。コーヒーの香りが漂っているところから、眠気とともに二日酔いを醒ましてきたのだろう。


「それじゃあ田中さん。案内をお願いできますか?」


「ではまず、上の階から」


 田中の後を付いていきながら、明石は小熊に問い掛けた。


「なんでサングラス掛けてんの?」


「ノーメイクなのよ」


「でも、時間あったでしょ?」


「顔を洗って、着替えをして、コーヒー飲んで酔いを醒まして――メイクが五分で終わると思う?」


「ん~、気合いかな」


「無理よ」


 緊張感の欠片もない会話をしていると田中が足を止めた。


「小熊様、明石様、こちらの三号室が氏家様にお泊り頂いていたお部屋です。どうぞ、ご確認ください」


 マスターキーを差し込んで、ドアを開けた。小熊と明石は無言のまま、互いに懐から手袋を出して嵌めると、小熊から足を踏み入れた。


 内装は二階と大して違いは無い。だが、それを確認するよりも先に遺体が目に入った。入口の一直線上、廊下を進んでリビングに入ったところに男は倒れていた。小熊は遺体を通り過ぎるとベッドルームを確認しに行き、明石は遺体の横でしゃがみ込むと首筋に触れた。


「明石、どう?」


「……死んでる。まぁ、この有様じゃあ当然か」


「他にも四人いるんでしょう? こうなったらいよいよ警察を呼ぶしかなくなったわね」


「県警?」


「ええ。そもそもここは埼玉県警の管轄なんだから」


 携帯を取り出した小熊が番号を打ち始めた時、離れていた田中は足早に歩み寄りその腕を掴んだ。


「申し訳ございません、小熊様。それには承服できかねます。何故、私があなた方を呼んだのかをお考えください。大事にしてもらっては困るのです」


「……田中さん、これは殺人なんですよ? 器物損壊を内密に捜査することすら私の倫理を大きく外れているんです。考えようによっては貴方は今、公務執行妨害をしています。理由がどうであれ、貴方の正義は法を犯しているんですよ?」


 すると、田中は手を離して深々と頭を下げた。


「どうということはありません。しかし、お二方がこの場に居る意味。そして、宿泊して頂いているお客様方のことや、様々なことを加味していただければ――正しいご決断ができるかと思います」


「脅しですか?」


「いえいえ、まさか。ですが、熟慮することをお勧めします」


 小熊は携帯を握ったまま明石を見た。しかし、明石は顔を横に振りながら帽子を引き下げるだけで、口を開くことはなかった。


「……上の指示を仰ぎます」


 部屋から出て行く小熊を見送り、部屋の中には明石と田中が残った。互いに視線を合わせぬまま緊迫した空気が辺りを包み、明石は遺体に目を向けつつ口を開いた。


「田中、か。昔は違う名前を名乗っていたよな? どうしてこんなところでホテルを経営しているんだ?」


「……はて、なんのことでしょうか。私は昔から田中でございます。貴方のように二つ名など持ち合わせていないのですよ――〝赤口しゃっこう〟」


「まぁ、この事件に関わっていないのならそれで構わないけどね」


 そこに小熊が戻ってくると二人は何事も無かったかのように空気感が元に戻った。


「どうでしたか?」


「田中さんの望み通りになりました。『事件はお前等に一任する。だが、県警を呼ぶのは犯人を逮捕して、その受け渡しのときだけだ』だそうよ」


「左様でございますか。では、これからどうするべきでしょうか?」


「そうね……まずは残っている人たちを一か所に集めてください。そこで私たちが警察だということを伝えます。捜査はそれからです」


「畏まりました」


 田中が部屋を出て行くと、小熊は軋む音を立てるくらい携帯を握り締めた。その姿を見た明石は立ち上がると、一度帽子を脱いで再び被り直した。


「……よかったの?」


「良いわけないじゃない。あんの――現場を知らない親父共が――でも、私は命令に逆らえない。あんたのせいでね」


「いや、責任転嫁しないでよ。ワンアウトを取ったのはミーシャ自身でしょ? ていうか今はそんなことより事件のこと。山奥のホテルで殺人事件、それも五人も。面白くなってきたね」


「捜査にやる気を出すのはいい。でも、同じことを私以外の前で言ったら駄目よ」


「わかってるよ」


 二人は話ながら一階を目指して階段を下りていく。


 線引きがある。それは互いの領分を守るための不可侵であるべき線――だからこそ明石が多少不謹慎なことを言っても小熊は何も言わないし、逆に小熊が何よりも仕事を優先しようとしているとき明石は邪魔をしない。暗黙の了解だ。


 食堂の前に着いたところで明石はジャケットを着ていないことを思い出して、がっくりと肩を落とした。


「大して変わんないわよ」


「いやいや。見た目っていうのは結構重要だよ?」


 明石が言い終わるよりも先に小熊は食堂に足を踏み入れた。


 そこには田中と鈴木を含むコンシェルジュ三人と、昨夜顔を合わせたのが二人。それと初見が三人ほど。死体が五つで宿泊客が十人だから数は合う。そこに奥からコックコートを着た男女が出てきた。


 小熊はジャケットの懐から手帳を取り出した。


「え~、昨日会った人も何人かいますが改めまして――小熊八重と申します。刑事です」


 その言葉に事情を知っていたコンシェルジュの三人以外がざわついたのは当然だった。


 小熊はその反応すらも注意深く観察する。


「ちょっといいかな? 俺は笹川ってもんだが、まずはどうして俺たちが集められたのか教えてくれないか? それと……あんたはいいとして、その横の男も刑事なのか?」


 黒シャツに黒ネクタイ。ベージュのスーツを着ている明石が刑事に見えないのも当然のこと。明石が口を開こうとしたとき、遮るように小熊が声を出した。


「皆さんに集まってもらったのはこの場に居ない人物たちのことで問題が起きたからです。全員を確認したわけではありませんが、この場にいない方々は死亡しました。それも殺人事件の可能性が高いのです。それと、隣の男は――」


「明石七。警察のアドバイザーってところかな」


「訝しむ気持ちはわかりますが、この男はこんな風貌をして捜査のプロです。私と同様に信頼してください」


 言葉一つで信用することなどできないことはわかっている。その証拠に、笹川は笑いながら立ち上がった。


「信用? 無理な話だな。悪いが帰らせてもらう。田中さん、帰りの支度をお願いします」


 言いながら隣に居た女性も立ち上がらせたが、田中は動こうとしない。


「……どうした?」


「申し訳ございません、笹川様。すでにこのホテルは警察の、小熊様の管理下にございます。私にそのような権限はございません。加えて進言させていただけるのであれば――今、ホテルを出ることはお勧めできません。ご自分の首を絞めることになりますよ?」


「なに? どういうことだ?」


 他の者が同じような行動を取らないのも、連れの女性が拒否するような表情を浮かべているのも、それは全て状況を理解しているからに他ならない。つまり、笹川は自らを陥れて、自身が馬鹿であることを露呈しているということ。


 小熊は手帳を仕舞いながら、呆れたように口を開いた。


「田中さんの言う通りです。これから事件解決まで、皆さんにはこの場に留まってもらいます。貴方が誰であれ、ホテルから一歩でも出た時点で拘束の対象になります。何よりも皆さんにとってはここに大所帯を引き連れた警察が押し寄せてくることが、最も困ることだと思いますが?」


「……だが、法的効力はないはずだ。第一俺が犯人だという証拠でもあるのか? 何か一つでも疑われるようなことがあるのなら、この場に留まってやろう」


 笹川が上から目線でモノを言えるのは、当然ながら国会議員だからというのが大きいだろう。警察は政治的圧力を受けやすい。それをわかった上で言っているのだ。つまり、馬鹿ではない。狡賢い――馬鹿なのだ。


 だが、それ自体は小熊に有効な手段ではある。すでに名乗ってしまっている以上、何か問題が起きて、それが警察の上層部へと報告がいってしまったら、最終的には小熊が罰を受けることになる。小熊の個人的な状況などは知らないのだろうが、これで言葉を選ばざるを得なくなった。しかし、横には警察組織に飼われているが決してその影響を受けない男が居た。


「言っただろう? あんたが誰であれ関係ない。犯人でないという確証がない限りは全員が容疑者だ。そうでなくとも疑う理由なら、ちゃんとある」


「なんだ。言ってみろ」


「俺はあんたをよく知らない。それだけで十分だ。わかったら座ってろ。こっちは仕事をしているんだ」


 明石と視線を合わせた笹川は、その言葉だけで委縮して椅子に座ってしまった。


「田中さん。ちょっといいですか?」


 小熊が田中を手招きすると、ゆっくりと歩み寄ってくる間に明石に問い掛けた。


「珍しいわね。あんたがあんな風に感情を出すなんて」


「ん~、権力者が嫌いなんだよね。特に頭が悪いくせに金と権力でどうとでもなると思っている人がね」


 そう言う明石の顔はいつも通りの笑顔に戻っていた。


「小熊様、ご用でしょうか?」


「いくつかありますが――まず、あの五人をこの部屋から出さないようにお願いします。あ、でもトイレとか図書館から本を持ってくるとかは構いませんので。あと、田中さんには一緒に来てもらうので、何か仕事があるようでしたら残りの二人に伝えておいてください。他には――」


「差し出がましいようですが、小熊様。一つ問題がございます」


「問題?」


「左様でございます。お二方の捜査には影響を及ぼさぬものだと考えておりましたが、念のためお伝えしておきます。お泊り頂いているお客様は全員、本日お帰りになる予定なのです。つまり」


「つまり、今日中に事件を解決しなければ、どちらにしろ事は大きくなる、と」


 明石の言う通り、警察を呼んだとしても大事にはなるが、それぞれが仕事を持っていて予定されていた日に帰ってこなかったとなれば、それこそ問題になる。


「わかりました。それについては少し考えておきますので、田中さんは他の従業員に」


「畏まりました」


 離れていく田中の背を見ながら小熊は静かに溜息を吐いた。


 ただでさえギリギリの状態を保っているのに、そこに時間の制限まであるとなれば、少し考えるだけでは済まないことくらい百も承知だ。


「タイムリミットは約一日。いや時間的に考えれば十時間くらいだね。死体が五つだから一つにつき二時間。いける? ミーシャ」


「いけるも何も、それが私たちの仕事よ。事件は解決する。それが器物損壊だろうと、殺人だろうと関係ない」


「さすがは正義の味方だね」


 そう言った明石は帽子のツバを抓んで引き下げた。その時、問題が頭の中を過った。


「捜査をするにしてもさ、検死はどうするの?」


「……あんた、医療の知識無かったっけ?」


「いや、あるにはあるけど検死とは違うじゃん? 医者じゃないんだから……ん? あぁ」


 と、思い付いたように顔を上げると食堂内を見回した。


「いるじゃん。医者が」


「大河内さん、ね。まぁ、背に腹は代えられないかしら。大河内さん、少しいいですか?」


 小熊の声に大河内が気が付くと、重そうに腰を上げた。田中は従業員に指示を出しながらもその様子を気にしているが、従業員のほうに視線を戻した。


「なんでしょうか」


 目の前まで来た大河内は、身長は小熊と同じくらいだが筋肉質でティーシャツから浮き出る胸筋を見る限り、脳外科医というよりは救命士のような印象を受ける。


「これから遺体の確認に行くのですが、大河内さんに検死をお願いしたいのです」


「……どうして俺なんですか?」


「お医者さんですよね? 脳外科の」


「ええ、そうです。脳外科の。つまりは生きている人間の脳ミソが俺の専門です。死人じゃない。それに体でもない」


 然も有りなん。極々当たり前のことを言われてしまった。しかし、小熊は引き下がれない。


「ですが、知識はありますよね? 解剖もしたことがあるはずです」


 続けて明石が口を開く。


「それに医者でなくとも死因についての推測はできるはず。でも、それを医者がやるに越したことはない。それに考えてみた方が良い。貴方には患者がいるでしょ? 明日までに帰れなければ救えない命もあるのでは?」


 明石の言葉が決定打になったのは言うまでもない。腕時計を見た大河内はゆっくりと鼻から空気は吐き出すと、思い切り吸い込んだ。


「わかりました。ですが、プロの検死官じゃないんで保証はできませんよ? それでも構いませんか?」


「ええ、構いません。お医者さんがやってくれるというだけで安心ですから」


 信用に関わってくる問題だから、というのも本音である。それが関係してくるのは書類送検した後、起訴するときや裁判でのことだが小熊はそこまで考えて捜査を始めようとしていた。


 そこに田中が歩み寄ってきて、四人は食堂を出た。先頭を行く小熊は振り返りながら田中に問い掛けた。


「田中さん、遺体は五つですよね? その中で事件性の低そうなものはどれですか?」


「私は専門家ではないので何とも」


「直感で構いません。あくまでも取っ掛かりにするだけですから」


「でしたら……四号室の金山様、でしょうか」


 どこから始めようと関係はないが、それでも五つの遺体が全て他殺とは考え辛い。捜査を短縮するためにも事故や自殺だとわかるものがあればそれに越したことはない。


 三階に着いた時、大河内が静かに手を上げた。


「ちょっと、いいかな? 部屋に救急セットがあるので取ってきます。使い道があるかどうかは別にして」


「わかりました。では、私たちは先に行っているので」


 大河内は部屋の前を通り過ぎていき、田中は四号室のドアにマスターキーを差し込んだ。


「どうぞ、浴室でございます」


 二人は慎重に廊下を進んでいく。明石は浴室へと入り、小熊は他の部屋を確認しに向かった。


 リビングにはロックグラスと飲み掛けのウイスキーボトルが一つずつ。ソファーの上には推理小説と仕事用だと思えるカバンが置かれていた。ベッドルームには、皺一つなくメイキングされたベッドがあり、カーテンも閉め切られている。


 小熊がソファーの上に置かれたカバンの中を確認したとき、入口から大河内が入ってきた。


「お待たせしました。遺体は?」


「浴室です」


 そう言うと小熊は大河内と一緒に浴室に向かった。


 洗面台には水滴が無く、横には脱ぎ畳まれた衣服が置かれていた。明石は入口に背を向けて腕を組みながら浴槽を見下ろしていた。その視線の先には湯船の中に沈む男。曲げた膝の下に腕を入れて、顔は上を向いて瞼は開いている。


「これが金山?」


「ええ、そうです」


 明石の問い掛けに大河内が答えると、しゃがみ込んで手袋を外し、湯船に指先を浸けた。


「冷水だね」


「冷めただけじゃない?」


「そうかもね。でも、そうじゃないかも。決め付けはできないよ。ちゃんと調べないと」


 濡れていないタイルの上にカバンを置いて開いた大河内はゴム手袋を取り出して手に嵌めた。


「まずはそのままの遺体の状況を確認する。服は着ていない。瞳孔は開いている」


 立ち上がって一歩引いた場所で全体を眺める明石と、大河内は浴槽に近付いて腕捲りをした。


「遺体を引き上げるので手伝ってもらえますか?」


「ん、ああ。手袋ありますか? これ、布製なんで」


 大河内がカバンから手袋を取り出して、明石が腕捲りをしている時、小熊は腕時計を確認してサングラスを整えた。


「明石。ここは任せてもいい? 自殺にしろ他殺にしろ、被害者の為人ひととなりと人間関係を知っておかないといけないから」


「いいよ。こっちは大河内さんがいれば大丈夫だから」


「じゃあ、よろしく」


 軽く手を振って出て行く小熊を見送って、明石はゴム手袋を嵌めた。


 浴槽の前に立つと大河内が足を持ち、明石が脇の下に手を入れて息を合わせた。


「〝せーの!〟」


 遺体を湯船から上げると慎重にタイルの上に寝かせた。硬直しているのか完全に寝ることはなく。浴槽に入っていた姿勢を多少保っている。


 一息ついて明石のほうに視線を向けた大河内だったが、明石はどうぞと言わんばかりに掌を向けた。


「……じゃあ、これから検死――いえ、遺体の状況を確認します。それで、いいですよね?」


「まぁ、この場で解剖はできないからね」


 まずは遺体の表面を触りながら確認していく。背中や首の裏、腿などを覗き込みながら外傷を探る。その間、明石は湯船に視線を落としている。先程確認したように入っている液体は冷水。一晩中浸かっていたのだから髪の毛などを含むゴミが浮いているのは当然のこと。だが、それ以外には何もない。


「足りない知識で所見を述べさせてもらいますが、たしか溺死には死斑が出にくいものだと記憶しています。ですが、この遺体には」


「どこ?」


「足の裏と背中ですね」


 体を持ち上げて見せると、その部位は青紫色よりも少し濃い色を浮かべていた。


「溺死で死斑が出にくいのは、たとえば海とかだと波に揺られて体が安定しないからなんだよ。要は血が溜まっているってことだからさ。同じ体勢のままで動かなかったんだろうね」


 納得した大河内は、今度は眼球を調べ始めた。


 カバンの中から小さなライトを取り出して、照らしながら覗き込んだ。


「……自殺だとするのならば、どういう方法があるんですかね? 風呂場だと溺死というよりはリストカットなどを思い浮かべるのですが」


「方法はいくつかあるけど、一番簡単なのは睡眠薬かな。それか泥酔するか。まぁ、でも睡眠薬を飲むならわざわざ風呂場で溺れる必要はないよね。過剰摂取で死ねるんだから」


 遺体を横にして顎を開くと中から水が出てきた。それを確認した大河内は人差し指と中指を立てて、遺体の口の中に入れて奥へ奥へと進めていった。感触を確かめるように指先を動かし引き抜くと、当然だが指先は濡れていた。


「気管には水が溜まっています。つまり、薬を呑んでいたとしても、少なくとも生きている時に水に浸かったということになりますね」


「ん~……」


 何か納得がいかないような明石は帽子のツバを引き下げて、遺体と浴槽に交互に視線を向けた。


「溺死には段階があったよね? 人は呼吸をしているものだから、まずは口と鼻から水が入り込んで苦しみ出す」


「大抵の場合は、その時に顔を上げて助かります。ですが、仮に誰かに押さえ付けられていたとしたら、水に沈んだ状態で呼吸を繰り返します、これは血中の酸素濃度が低下している段階なので自分の意思で呼吸を止めることはできません」


 気管は水の浸入を拒むように凝縮するが、それでも水は止められない。


「そうなったら最後。肺は水で満たされて体は酸素を取り込めなくなります。酸素欠乏になり無意識の状態へと変わり――」


「死ぬ、だよね。でも第三者が体を押さえ付けていたんなら、体にその痕が残るはず。それが無いってことは……自殺だと思う? そもそも、口と鼻から水が入ってくるのを我慢できるものなの?」


「肉体的な反応や反射を自らの意思で抑えるのは難しいと思います。医学的に見ても、例えば目の前に投げられたボールを避けるな、と言われているようなもの。普通の人間は反射的に避ける行動を取ってしまう。だが、それを訓練することはできる。野球選手などは避けるのではなく正面から受けることを、格闘家であれば相手の拳を引き付けて避けたり、敢えて受けたりできるようにする。だが、今回の場合はわざわざ溺死するための訓練など無意味に等しい」


「このホテルの湯船に浸かったことがある人なら誰でも知っていると思うけど、ここは蛇口を捻ってお湯を溜める定量止水タイプの浴槽だよね。設定を見る限りでは二百リットルで冷水。水に関しては後から追い焚きすればいいだけの話だけど……自殺しようとしている人が湯船から水が溢れ出すのを気にするかな?」


 走行中の電車に飛び込んで轢死を選ぶ者が、その後の影響を気にしないのと同じように一定量で水が止まってしまっては、溺れることはできないかもしれない。それなら湯船が溢れるほどに水を張る方が確実ではある。


 明石は蛇口を弄りながら自問自答をした。


「神経質な人なら有り得るんじゃないですか?」


「……この人、神経質だったの?」


「どうでしょう。俺は誰とも交流が無かったので。だからこそ、このホテルに来ているわけですし」


 背を向けている明石に対して、遺体の前に居る大河内はある疑念を抱いていた。


「お聞きしたいのですが、俺が犯人だという可能性はないんですか?」


 それを自ら問い掛けることがそのまま答えに繋がっているような気もするが、明石は――いや おそらく小熊も同じことを言うだろう


「あるよ。食堂でも言ったけど全員が容疑者だから」


「それならなぜ検死を? 嘘を吐いて捜査を混乱させるとは考えなかったんですか?」


「いや、別に嘘吐くならそれで構わないんだよね。だって、その嘘が嘘だとわかった時点で、貴方が犯人じゃん。むしろ手間が省けてラッキーなんじゃない? 小熊刑事としては ね」


 当然、刑事として事件の早期解決を望む小熊にとってはそうだろう。だが、今の口調だと明石は別の意見を持っているような言い方だった。


 大河内にそれを問い掛ける勇気は無かった。


「犯人は一人なんでしょうか?」


「さぁ、どうだろうね」


 濁すような答え方だった。明石の表情から真意は探れない。だが、明石が帽子のツバを引き下げるとき腕で隠れたその顔が笑っていたのを、大河内は見逃さなかった。

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